17・飛び交う疑惑

 あの出来事から丸三日が経っていた。

 外は相変わらずの雨。雷も鳴り始め、この地から飛び立つには少々具合の悪い天気だ。

 ジュンヤはあれから何度かディックと顔を合わせたが、まともに目を見ることができないでいた。狭い飛空挺の中ではすれ違うことが多く、はっきり言って居づらかった。食事の時間を少しずらしてみたり、人気のないところで暇を潰したりと、無駄な努力を続けた。

 ディックはというと、ジュンヤには何の変化もないように見えていた。いつも通りのしかめっ面、着古した白衣を羽織り、颯爽としている。

 通りすがりに、ジュンヤは彼を恨めしく思う。冷酷で残忍であったと、いつか母に聞いたその意味が、彼には痛いほどわかってしまった。同時に、明らかに不審な存在ではあったが、初対面の自分に優しく語りかけてくれた“ティン・リー”を理由も言わずに撃ち抜いた彼に対して、例えようのない怒りを覚えた。

 まだほんの二十歳の青年には、平静を装うことは難しすぎた。少しでもあの出来事を思い出すと、体が震え、ぎりぎりと歯が鳴った。そんな無様を仲間に晒すわけにもいかず、不本意ながら人気のない場所か自室に引きこもることを余儀なくされてしまう。

 作戦会議のためのミーティングルームで、彼は回転椅子の背にもたれかかり、ぐんと背伸びした。両足を大きめのドーナツ型の会議テーブルの上に投げ出して、そのままぎこぎこと椅子を揺らして思いにふける。ここしばらく、ジュンヤはこうして日中の時間を潰していた。いつもはこの部屋でディックや幹部の大人たちが地図を広げて作戦会議をするのだが、あの事件以降使われていない。誰も来ない。


「あんなことがあって、誰がディックとまともに話ができるんだよ……」


 事実上、ESを仕切っているのはディックだった。ハロルドだって、他の連中だって、ディックの言いなりだ。作戦会議をするときはいつも、ディックを優先する。敵である政府にいたんだから、相手の手の内をある程度は知っている。彼の話を聞くのは正当だとわかってはいるのだが。



――『君らのリーダーはこの半狂乱した中年男なのかい』



 リーの言葉がよみがえる。

 事件以降、少しずつディックに対するわだかまりが膨らんできていた。本当にこの先もディックを信じていていいのか。心の中で反復させても答えは出ない。



――『君達はどうしてそんな組織ににいるの』



 疑問に思わなかったそんなことを、改めて問われ、ハッとした。どうして、ESに。父が創始者だからなのか。ただそれだけで。――思い始めれば、切りがない。

 もしかしたら、リーは政府の人間ではないのかと、あの時も今も思う。リーに上手く言いくるめられているような気がしないではなかった。

 ティン・リーは父が信頼を寄せていた人物であったことに違いはないようだ。しかし、父の性格、生き方からして、得体の知れない政府寄りの人間に心を許しただろうか。例え“日本”が大きな鍵となっていたとしても、それはあまりにも現実味がない。彼は一体何者だったのか。最後までリー本人の口から聞けなかったことを激しく後悔する。

 ジュンヤは自分の中で広がる疑惑に押しつぶされそうだった。リーの出現は、彼自身の信念をありとあらゆる方向に捻じ曲げようとしていた。それまで考えていたこと、守っていたものが、それだけが終着点ではないと思うようになっていた。



――『そこの科学者が、全てを、この世界の真実を伝えてくれるの? 自分自身のことさえ、何故逃亡したのかさえひた隠しにして、誰にも話せずにいるその男を、君たちは信じていくの? 君たちは彼の何を知ってる? 本当のことを知っても、君たちはまだ、彼を信じることが出来るの?』



 リーの最後の言葉。ディックを追い詰めた台詞の中で、彼は何を伝えようとしていたのだろう。

 世界の真実、ひた隠し、信じる――。

 例え全てを知っていたとしても一切口を開かないディックと、こちらが警戒していても構わず親しげに話してくれたリー。対照的な二人が、もし同じことを知っていたとしたら。果たしてリーは真実を伝えてくれたんだろうか。

 カチッ──と、ドアがゆっくり開いた。

 ジュンヤは慌てて椅子に座りなおす。ギイギイときしむ音が少し恥ずかしい。


「ジュンヤ……いる?」


 ドアの隙間から申し訳なさそうに顔を覗かせたのは、エスターだ。


「あ、ああ。いるよ」


 答えると、彼女の肩までの金髪がふわりと揺れた。ホッとした顔で会議室に入り、ドアを閉める。

 エスターもやはり、いつもと違って元気がない。ぐったりと肩を落としたまま、「隣、いい?」力なく言って、ジュンヤの隣に腰掛ける。

 エスターとも、あの日からほとんど会っていなかった。顔を合わせづらいのもあったが、多分彼女もジュンヤと同じように人目を避けていたに違いない。泣き腫らしたのか、彼女の目の下と鼻先は少し赤かった。

 彼女は椅子に浅く座ったままうつむき、両膝を抱えた。元々静かな性格の彼女が、何かに押しつぶされて壊れてしまいそうに見える。


「この間のこと……、どう、思ってる?」


 唐突にエスターは言う。おもむろに見上げた彼女の目は虚ろながらも真剣だった。誰かに話そうとしても話せないこんなことを、彼女はすんなりと喋ってしまうのかと思うと、少し恨めしい。

 ジュンヤは先ほど一人で考えていたことを思い出し、後ろめたさから視線を逸らした。


「どうって。多分、一緒のことだよ」


「だよね。ジュンヤもリーが言ってたこと、考えてたんでしょ。私も、彼が話したあの短い言葉達が、あんまりにも衝撃的だったから、自分自身、考えさせられることが多すぎて、どうしたらいいかわからなくなって」


 彼女の言葉に、ジュンヤは少し、救われた。自分だけではなかった。


「私ね、あれからいろいろ考えたの。だって、彼の言う通りなんだもの。私は何も知らない。パパは何にも話してくれない。私達二人がどうしてESにいるのかってことは、疑問に思わないようにしてた。パパに訊くのはタブーになってた。本当は、訊きたいこと、知りたいこと、たくさんあるのに」


 エスターはそこまで言うと、また物悲しげな目をして宙を見つめた。思いつめたように深く息を吸い込み、ゆっくり吐く。彼女はそうして、自分の中のもやもやを確かめるように、ジュンヤの前に身を乗り出した。

 彼女の白い肌がジュンヤの視界一杯に迫る。思わずドキリと胸が高鳴り、何を期待したのか手に汗が滲んだ。


「私ね、ジュンヤに言ってないことがあるの」


「え?」


 動揺するジュンヤ。


「ジュンヤだけじゃない、パパにだって、直接言ったことはないわ」


 エスターの意外な一言に、彼は戸惑いを隠せない。ごくり、生唾をのむ。下心で見つめていた胸元からゆっくりと視線を上に向けると、彼女の青い瞳がまっすぐにこちらを向いているではないか。この上なく気まずい。気持ちを悟られまいと、目線をずらした。

 しかし彼女は、そんな彼の様子に構わず、覚悟を決めたように手のひらをぐっと握り締めた。


「記憶が、ないの。私、十歳までの記憶がないの。もっと正確に言うとね、気がついたら、ウメモトの家に住んでいたの。私自身の記憶として、それまでのことが空白なのよ。いつの間にかそこにいて、それまでの間どうやって暮らしてきたのか、全く思い出せない。まるで私自身が、それまで存在していなかったみたいに。──それって、ありえるの? 小さい頃、こんなことがあったとか、前はどうだったかとか、どんなに思い出そうとがんばっても、思い出せるのは自分の十一歳の誕生日まで。それから前のことは一切わからない。それって、普通に生きている人間として、ありえるものなの? 忘れてしまっているとしたら、どんな辛いことが、私から記憶を奪ってしまったの? わからない、わからないの……」


 彼女の肩は、見ると少し震えていた。泣き疲れたはずの目に、また涙を浮かべている。

 手を伸ばした。ジュンヤの腕に、エスターの細い肩が触れる。そっと、抱き締めた。

『記憶がない』、彼女の言葉に、彼は納得していた。記憶がないとすればうなずける。あれは本当に、奇妙だった。ジュンヤはエスターと出会った日から数ヶ月間の彼女の行動を思い出していた。


「──初めて出会ったとき、君は、ディックに抱えられて、裸で、毛布に包まっていたんだ」


「は、裸で?」


 ジュンヤの肩に押しつけていた彼女の顔が、ぴくりと反応する。


「それだけじゃない、濡れていたんだ。浴槽に浸かってたみたいに。──たしか父さんの話では、政府ビルから逃げてきて、やっとの思いで辿り着いたということだったけれど……。なんで、あの時、エスターが濡れていたのか、今考えても全くわからない。ドームの中じゃ雨も降らないし、濡れる要因なんてないはずなのに。転移装置を使ったとして、それまで全身ずぶ濡れになるような所に君がいたってことなのか。だとしたら、一体どういう所だったのか。その答えは、ディックでないとわからない。それに」


「……それに?」


「歩き方すら、知らなかった。何も話せず、笑うこともできず、まるで、死んだようだった。十一歳の誕生日までに、やっと人並みのことができるようになったんだよ。なんでだろうって、不思議に思ったのを覚えてる。EPTの天才科学者の娘なら、高等教育を受けてるはずだろ? なのに……、こんなこと言ったら、傷つくのはわかってるんだけど……、あのときの君はまるで、産まれてはいけなかった赤ん坊のようで」


 台詞の途中で、ジュンヤは突き飛ばされた。抱きかかえてくれていたジュンヤの胸を、エスターは両手で勢いよく押しのけていた。

 回転椅子が勢い余って転がり、テーブルがギイとずれた。

 ジュンヤの腕から離れた彼女は、立ち上がりフラフラと後退りする。血の気の引いた顔、明らかに言いすぎた。ジュンヤは弁解しようと必死に言葉を探ったが、結局、彼女をなだめることは出来なかった。


「どうして……そんな……。それじゃ、ここに来るまで私は何をしていたの。私、私はいったい、どうやって産まれてきたの……。なぜ、パパは答えてくれなかったの。私には、“ESに来るまでの自分”が、存在しなかったようにしか、思えない……」

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