18・パパ

 エスターは自分の部屋のベッドに伏して泣き崩れていた。

 ジュンヤが嘘をついていないことはわかっている。

 それにしても、あまりに酷い現実。

 ディックが何も教えてくれない理由がのか、彼女にもなんとなく想像できた。

 物理、機械工学者である父。部屋に詰まれた数多の本、機械関係、物理関係のそれに混じって置いてある、“生物学”“解剖学”“遺伝子工学”の本。分厚い、ほかとは異質なその本を何も知らずに手にとって、こっぴどく叱られたことがあった。「お前の読む本ではない」と。

 医者でもないのに、「お前の体調は俺が管理しているから、ほかの医者には診せるな」と言われたこともあった。数ヶ月に一度は精密検査と称し、知り合いの医療施設に連れて行かれる。間借りした診療室で立会いの医師もなく、ディックが一人で何かの検査をする。検査結果は知らされない。

 疑問に思うこと自体が悪で、現実を受け容れることしか必要ないのだと、自分に思い込ませていた。そうしなければ、何かが壊れてしまう。だが、そんなのおかしいに決まってる。ずっと前から彼女は思っていた。だからって、まさか。

 辿り着いたのは恐ろしい仮定。


「私は、本当にパパの娘なの……? 血の繋がった、親子なの……?」


 これまで、どうやってディックが自分に接してきたのか。エスターは必死に思い出していた。明らかに他の親子とは違う関係。彼の性格からなのか、そっけなく愛情もほとんど感じられなかった。シロウやメイシィがジュンヤに接しているのとは比べ物にならないくらい、遠慮がちで、他人行儀で。

 それでもディックは、エスターにだけは優しく微笑みかけることがあった。はにかんだような、静かな笑み。あれは他ならぬ、彼なりの愛情表現だったのでは。そう思わなければ、自分がかわいそうだと、彼女は思い始めた。

 もし、本当の娘だったとしたら。あくまでも仮定として、彼女は考え続ける。

 なぜ服も着せられず、裸のまま連れて来られたのだろうか。普通に暮らしていたとすれば、そんな状態で連れ出されるのはおかしすぎる。緊迫した事態で、入浴していたところを無理に連れ出したのか。だとしたら簡単にでも着替えさせてから逃げ出すはず。

 そういえば、ジュンヤはこうも言っていた、『政府ビルから逃げてきた』と。では、ビルの中で暮らしていたのか。ビルの中に生活していたとしても、濡れたまま自分を連れ出すのは、あまりにも不自然ではないか。それに、たしか包まっていたのは“毛布”。入浴していたとすれば、包まれていたのは“バスタオル”のはず。なぜタオルより吸水性の低い“毛布”だったのか。“タオル”がなかったのだろうか。毛布、水場じゃないところ。自分がいつも過ごしていたのは――。


「実験室」


 エスターはぽつり、と呟いた。


「パパがいつも行くのは決まって“実験室”。大きな、緑色の水槽……。毛布の敷かれた台に横たわって、見上げたら……、そこには、悲しそうな顔をした、眼鏡の……」


 知らなかったはずの記憶が、彼女の中に舞い戻った。記憶はなかったのではなく、仕舞い込んでしまっていたのだと、彼女は確信する。無機質な記憶を忘れたくて、幼い彼女は、全てを忘れてしまっていたのだ。

 涙が止まらなかった。

 それは、悲しみからくるのではなく、自分自身に対する哀れみからくるもの。


「私は……あの実験室で……」


 思い出さなければよかった、と思った。胸が痛い。急激に締め付けられ、頭がずきずきする。それでも、思い出したことによってディックへ真実を訊く足がかりが出来たのかもしれない、とも思った。

 彼女は苦しみに耐えるように起き上がると、涙を拭いて部屋を出た。



 *



 ごちゃごちゃに詰まれた本が、微妙なバランスを保って狭い部屋を埋め尽くしている。その隙間を縫うように奥へ進むと、窓際にデスクがあり、つけっぱなしのパソコンがくたびれた音を立ててモニターを光らせていた。

 デスクの後ろに、やはり本に埋もれたベッドがある。やっと大人一人が出入りができるくらい、周りはうず高い本の山に囲われている。

 ディック・エマードは本の虫だ。彼は休暇となると、専ら読書と機械いじりにあけくれていた。種類も大きさも違うそれらは、研究のためだけに集められた本ではないようだ。興味のある本を見つければ、通りがかりの古本屋や、つぶれかかった図書館からゴソッと仕入れてくる。夜な夜な読みふけり、気がつくと朝になることもしばしば。中には、役に立ちそうもないわけの解らない大戦以前の本も混じっていた。もう誰もが忘れてしまった言語の本さえ、彼は食い入るように読んでいた。

 その日も、彼は見たことのないような分厚い本を抱えて、デスクに向かっていたのだが、それを妨げるものが現れ本を閉じた。

 無類の本好きの彼の言動をやめさせることが出来るのは、彼女だけ。愛娘のエスターが、彼の部屋を訪れたのだ。

 彼女は二人分の湯気の立ったコーヒーカップをそっと、デスクに置いた。目の覚めるような芳醇な香りが充満し、ディックは大きく深呼吸した。


「もしかしたら、そろそろ来るころじゃないかと思っていた」


 彼は娘にしか見せない気の緩んだ表情で、彼女を見つめた。

 自分と同じ深い青色をした瞳。エスターは彼とは対照的に、少し気張った様子でいるのがわかった。


「最近、本当に、エレノアに似てきたな。……性格は別だが」


 苦笑して、ディックは彼女の入れたコーヒーを一口含んだ。


「パパ、私ね」


 と彼女は切り出したが、彼はその続きを言わせようとしなかった。


「どこまで、思い出した」


 ディックはコーヒーカップを置くと、自分の右隣に木製の丸椅子を持ち出して腰掛けたエスターに向き直った。彼女は動揺して、顔を強張らせた。


「……私が、記憶をなくしていたことを、パパは知ってたの?」


 目をしばたたかせ、だが冷静に、ディックは彼女の質問を受け止める。

 いつもならばそこで会話をやめてしまおうとするのだが、その日のディックは少し様子が違っていた。眼鏡の奥、どこか哀愁の漂った彼の目は、真剣に彼女を見つめていたのだ。


「いや。予感はしていたが、憶測だった。お前は今まで一度も、あそこでのことを口にしなかった。思い出したくない忌まわしい過去だ、当然だとも思った。が、どうやらそれだけじゃないとも感じていた。ESで生きていくために、知らず知らずのうちに記憶を封じ込めてしまっていたんだろうな。この前、お前がリーの顔さえ忘れてしまっていたのを見て、それは確信に変わった。あの一件が、すべてを狂わせた。俺自身も、封印していた過去をほじくり返され、かなり辛い思いをした。恐らくお前も同じ状況に陥ったんだろう。どこまで思い出したのか、話してみないか。俺も、お前に話さなければならないことがあるんだ」


 しかし、エスターはうつむき加減で、軽く唸っただけだった。

 ディックは困惑の色を浮かべ、眉をひそめた。

 それは、今まで見せたことない、頼りない中年男の顔。


「……すまない、俺は未だ、お前にどう接してやったらいいのかわからない。だが、こんな俺でも、お前の“父親”として」



「ホントに? ホントに私は、パパの子なの?」



 ほんの刹那の沈黙が、二人の距離を裂いた。

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