19・何を信じたらいい
エスターの疑念と困惑の入り混じった表情が、ディックの胸をぎゅっと締め付けた。
彼は失意のあまり、がくっと肩を落とす。うなだれた頭に、白髪がたくさん見えた。心なしか、ここ数日でぐっと増えたように感じる。
しばらくの沈黙の間に、机に置き去りのコーヒーは湯気を失い、立ちこめていた香りもどこかへ消え去ってしまった。少し加齢臭のする男部屋の匂い。だけども、エスターはこの匂いが嫌いではなかった。どこか不安定なディック・エマードという存在は、父として彼女が慕うには十分すぎた。例え彼女の出した仮定が本当だったとしても、それは揺るぎないと思いたかった。
「そうか。そういう結論を導き出したのか……。だがそれは、間違っているよ……」
ディックは微笑し、今にも泣き出しそうな顔で彼女を見つめ返した。握りしめた拳が、彼のスラックスの上で何かに耐えている。
「間違いなく、お前は俺とエレノアの娘だ。遺伝子鑑定したっていい。が、そんなことはできっこない。──なぜならば、俺とお前の遺伝情報は、政府にとって、いや、政府総統にとって、のどから手が出るくらい大事な情報なんだからな……。下手に鑑定でもして他人に知られたら、ここにだっていられなくなってしまう」
「ど、どういうこと?」
「どうもこうもない……。で、どうなんだ。そっちはどんなことを思い出したんだ?」
言いかけたのにずるいとエスターは思った。それでも、父が真剣に自分の話を聞いてくれるチャンスはきっと、またとない。そう確信してこの部屋に来たのだ。
言葉を呑み込んで、深呼吸。
両手でコーヒーカップと大事そうに握り締め、そこから立ち上る細い湯気に視線を落とし、彼女は覚悟を決めた。
「あのね。実験室だと思うんだけど……。とても暗くて、そこに、いたの。真っ暗いなかで、緑色に光っている大きな縦長の水槽があって……。眼鏡をかけた若い男の人……パパだと思うけど……、あと、男の人が何人か、私の周りに立っているの。私はベッドの上に寝ていて、たくさんの管が走る薄暗い天井と、大人たちの顔を見ている。思い出したのはこれだけ。これだけなんだけど……」
彼女の体が震えだすと、彼女の両手の中のコーヒーも、軽く振動し始める。
「それって、私が、じ……実験に使われていたって、そういう、ことなんだよね」
エスターは堪らず、声を荒げた。まるで悲鳴のような声を。
「その場所にいたあの人は、パパだった? まさか、自分の娘を実験に使ったりなんてことは……」
「使ったよ」
間髪いれず、答えが返った。
エスターの目の前が、急に真っ暗くなる。あまりのショックに耐えかね、バランスを崩しそうになった。
ディックは慌てて立ち上がり、彼女の体とこぼれそうなコーヒーを支えた。
左手でそっと、彼女の手からカップを引き剥がし、テーブルの上に置く。そして、気の抜けた娘の体をぐっと両手で抱きしめる。じわっと、彼女にディックの温もりが伝わった。
前にも同じように、父が自分を抱きしめてくれたことがあったような気がした。あれは、いつのことだったんだろう。
思い出そうとしても思い出せない記憶の更に奥、もしかしたらESに来るよりもずっと昔。記憶にあったあの困ったような優しい顔でぎゅっと抱きしめられた、そんな覚えがある。
「お前を守るためだったら、実験台にだってした」
ディックは更に力強く、彼女を抱きしめた。あまりの力に、彼女の細い体は悲鳴を上げそうだ。
「それが、生き延びるための条件だった。『生かしたいなら、実験台にすることだ』と、奴はそう言ったんだ。『このままここで殺すか、それとも、実験体として生かすか』どちらがいいのか、選べと」
「誰が、誰がそんなこと……」
「リーだ。ティン・リー。あいつが、あの悪魔が、そう言ったんだ。俺を脅し、見せしめに、エレノアを……」
「ママを……、リーが? う……嘘でしょ」
やっとのことでディックの腕から開放されたエスター。ありえない、と、ディックの顔を覗き込むが、彼が嘘をついている様子は微塵も感じられなかった。
「だって、リーはパパより随分年下だし、もし、その当時何かあったとして、十代の少年でしょ。彼に何ができたって言うの」
「もし」
ディックは眉をひそめた。
「もし彼が本当に、ただの人間だったとしたら、ありえない話だ。あの時までは、彼は俺より年上だったなんてな」
「意味が……、わからないわ」
「そして俺自身が、彼の研究の実験体だったってことも」
「な、何を言ってるの。パパ、冗談なんでしょ?」
目が潤む。首を左右に振り、椅子から立ち上がった。
打ち明けられていくたくさんの秘密に、彼女はもう、どうしたらいいかわからなくなってしまっていた。逃げ出したい。そう思っているのだろう。だが、どうやって真実から逃げ出したらいいのかわからず、顔を歪ませる。
「嘘だと思いたいのなら、思えばいい。──これから先、リーは間違いなく俺とお前を狙ってくる。どんな手段を使っても、俺達の身体を手に入れようとしてくるはずだ。この前あの場所に現れたのは“警告”だ。きっと、本当の恐怖はこれから始まるんだ。……忠告はしたぞ。それでも尚、リーの言葉に惑わされるのなら、俺はお前を守れなくなってしまう」
「そ、そんな……」
エスターは、本の山に隠れるようにして縮こまり、わっと泣き出した。
頭の中でようやく理解できたのは、彼女が“実験体”であったこと、ティン・リーが母親を殺したかもしれないということ。その他のたくさんの情報は、一時的に彼女の耳にとどまったに過ぎなかった。
泣きじゃくるエスターの背を、ディックは屈み込んでぎこちなく、何度も撫でた。
自分がかつて、同じように、誰かから慰められていたのを思い出すかのように。
「大丈夫だ、俺が守ってやる。俺の命が続く限り、奴のいいようにはさせるものか……!」
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