Episode 06 災厄

20・罠

 眼前に美しい夜景が広がっていた。明かりの一つ一つが宝石のようにきらめき、漆黒の中で存在感を主張している。連なる光の列が作り出す芸術は、見るもの全てを魅了する。ビルを中心に放射線状に広がる都市の明かりが光のグラデーションを作り出し、静かなドームの夜を彩っていた。

 ネオ・ニューヨークの夜景を全て見渡せる政府ビルの最上階、大きな黒い皮製の肘掛け椅子と執務机。の人は優雅にグラスの中で赤いワインを踊らせていた。


「ようやく、元に戻れたよ。君のおかげだ、ローザ」


 執務机の右に立つ栗色の髪をした美しい女秘書は、男の屈託ない笑顔にぽっと顔を赤らめた。


「総統閣下のためですから」


「“愛する”総統のため、だろう」


 わざとらしい男の台詞も、ローザと呼ばれた秘書には愛のさえずりの如く響いていた。彼の言葉一つ一つに反応しては顔をほころばせ、まるで少女のように胸躍らせる。その様子を男に悟られまいと一歩下がって書類で顔を隠す仕草は、彼に恋していることを全身で表していた。

 しかし、男はそうした彼女には目もくれない。グラスの中の赤い液体を揺らし、その中に自分と彼女が映るのを面白そうに眺めている。


「エマードに撃たれた時は正直危ないと思ったが、君が転移装置を稼動させてくれたおかげで助かったよ。おかげですんなり『新しい身体』に移ることができた。君がいなかったらいつのバックアップデータを起動させていたかと思うと恐ろしい。身体に慣れるまでもう少し時間がかかりそうだが、今度のは特に調子が良さそうだ」


 にやりと不敵に笑みを浮かべるその男は、ほかでもない、“ティン・リー”その人だった。肩まで伸びたストレートの黒髪がさらさらと揺れ、すっと鼻筋の通った美形の男は、その容姿とは裏腹の恐ろしい言葉を並べ立てた。


「しかし、相変わらず野蛮な男だったな、ディック・エマードという男は。所詮不完全な“実験体”。あの肉体はもう駄目だ。歳をとりすぎている。使えるとしたらあの頭脳、細胞くらい。時間というものがこれほど残酷だとは思いもしなかったよ。逃がしたりしなければ、こんな茶番劇をすることなどなかったのに」


「珍しいですね、閣下が過去を悔やむなど」


「エマードのことは、計算外が多すぎてね。私も万能ではないのだ。――それよりも、興味深かったのはあの娘だ。父親に似ず美しく育っていた。あの身体はまさに、“マザー”の望むもの。すばらしい。あの血と肉を、早く手に入れなければ」


「――閣下は、若い女性の方がお好きなのですか」


 ローザは少し寂しげにうつむいた。

 ワインをひと含みし、その味と香りに満足したリーは、執務机にグラスを置いてゆっくりと彼女に向き直った。


「勘違いしないで欲しい。あれはあくまで“マザー”への献上物だよ。“私”と“この世界”の産みの親である“マザー”への。君は彼女とは違う。君は私のすべてを知っている、私に一番近い女性ではないか」


 リーの目線と一言に、ローザは少し紅潮していた。また恥ずかしそうに書類で口元を隠す。


「閣下のあの場所でのお姿、拝見しておりましたわ。随分な演技をなさるんですのね。まるで本当に“名もない二十代の研究員”のようでしたわ。あのように、ESの若造や女と親しげに」


「──シッ。君が嫉妬しているのはよくわかった。が、その話はこれでお終いにしよう。お客様だよ」


 リーの人差し指が、彼女の台詞を止めた。執務室の奥にある大きな扉がそっと開くのを、彼女に目で知らせる。

 ローザは慌てて扉に歩み寄り、そこから現れようとしている何かに警戒した。扉の向こうには、空間転移装置があるだけだった。リー総統以下、幹部のみが使用する特別なもの。誰かがそこから出てくるなんて、考えもしない。

 すうーっと更に空けたその隙間から、泥にまみれた靴が顔をのぞかせた。

 ぽたぽたと雨粒が滴り落ちる。頭から足先までずぶぬれのその人物は、紺色のTシャツにスウェットパンツという、場違いな格好をしている。

 きょろきょろ見回し、立ち止まる。広い無機質な四角い空間に、大き目の高級な応接セット、その奥に広がる壁一面のガラス窓。手前に、やはり大きく立派な執務机がある。その人物は、そこに思いがけない人がいたのを見つけて、表情を曇らせた。


「ティン・リー……?」


 呼びかけに答えるように、リーはすっくと立ち上がり、机の前へと歩み出た。


「ようこそ。やっぱり来たね、ジュンヤ・ウメモト」


 “総統”の気配はもうない。彼は島での“一研究者であるティン・リー青年”へと変わっていた。にこっと微笑む彼の斜め後ろで、ローザは赤く膨れている。どうにも、リーの態度が気に食わないらしい。

 リーは彼女に「すまないね」と振り向いてウインクし、それからジュンヤの元へ進む。


「島は雨だったんだね。タオルくらい用意しておけばよかったかな。すぐに持ってくるよ。すっかり濡れているようだから、着替えも……」


「あの、ここは?」


 ジュンヤは困った様子で、リーを見た。


「何を心配してるんだい。ここは僕の仕事部屋だよ。気にすることはない。シャワーを浴びたほうがいいかな。奥にシャワールームがあるからそこへ行こうか」


「いや、そうじゃなくて、あなたはあの時、てっきり死んだものだと……。それに、この窓から見える景色は、もしかして」


「もしかして?」


「もしかして、ここは、政府ビルじゃ……」


 恐る恐る発したジュンヤの言葉は、少し震えていた。

 一瞬、リーは凍るような目をジュンヤに向けた。直後、それが嘘だったかのように、にんまりと微笑んだ。


「だとしたら、どうなの。ここが、敵の本拠地だとして、君はそんなところに、無防備で何も考えなしに乗り込んで来たのかい?」


 以前と変わらず気さくに話してくるリーだが、ジュンヤはそこに何か違うものを感じたのか、一歩二歩、後ずさりする。


「い、いや、そんなことは。ただ、俺は、真実を知りたくて」


 リーに操られるかのように、ジュンヤはそう言ってしまった。

 ぽたぽたと自分の身体から伝わる雨粒が、これ以上床を汚すのが、申し訳なかった。


「だったら、シャワーの後、ゆっくり話してあげるよ。君が知りたい情報を、知りたいだけね……」

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