21・必然

 部屋全体を包み込むような青が、ジュンヤの心を激しく揺さぶった。

 殺風景なその部屋を異空間に仕上げていたのは、その一面を占める、巨大な水槽だった。

 まるで水族館の中にいるような、天井まで届く壁一面の奥行きのある水槽。そこから漏れる青い光は、穏やかでかつ神秘的。小さな熱帯魚が珊瑚の間を、そしてその上を小型の魚が泳いでいく。エイや小型のサメに至るまで、ありとあらゆる魚がジュンヤの目の前を幾度となく通り過ぎる。海を知らぬ彼にとって、それはまるで生きた宝石のようだった。時折、彼を振り返り、魚たちは無表情で泳ぎ去る。小さな幾つもの目は、異端者を警戒しているのか。

 雰囲気を損なわないように飾られたほんの少しのインテリア。センスよく配置された観葉植物、照明器具。水槽の淡い青が揺らめき、白い壁を優しく照らしている。

 そして、その非現実的な雰囲気を最大に演出しているのが、目の前にいる男、ティン・リーだ。細く鋭いが、落ち着き、光を放つ目。誰もが魅了されるであろう、甘いマスク。彼のストレートの髪に、水槽の青い光が反射し、シルエットをぼやけさせる。


「どうしたの? お気に召さなかったかな」


 リーはゆっくりと室内を見渡し、ジュンヤに向き直った。


「い、いや。こんなの、見たことなかったから」


 ジュンヤは遠慮がちに答えた。

 リーがジュンヤのシャワー後に用意していたのは、ブランド物の濃いグレーのスーツ。濡れていた彼の衣類は、リーの秘書によってクリーニングに出されていた。普段着慣れないだけに、ジュンヤはスーツを着ただけで微妙に居心地が悪く、自分が自分ではないようなむずがゆさを感じていた。

 ゆったりとした革製のソファー。ガラス張りのローテーブル。今までの彼の日常には登場してこなかった代物だ。彼の背後にある壁の水槽だってそうだ。明らかにリーはジュンヤとは違う次元の人間だ。もし、ここから逃れられるのなら、少しでも早く逃れたいと思う。しかしそれは許されない。ジュンヤはここからの逃れ方を知らないのだ。



 *



 エスターと話をした後、彼は自室に戻り、父の形見の写真の入った箱を手に取った。

 写真は本当に、ティン・リーからの贈り物だったのか。小屋に持って行ったそれの裏にはサインらしきものがあったが、ボロボロになって見えなかった。もしかしたら箱の中、他の写真には手がかりがあったかも知れない。

 箱をテーブルの上にひっくり返し、一枚一枚確かめる。父が自分に残した写真。端々が折れ、少し色あせ、更に破れかかったものもあった。ジュンヤは写真を手に取ると、まじまじと眺めた。全部の写真を並べて見たのは久しぶりだった。もらったばかりの頃は嬉しくて一日に何度も何度も眺めては想像をめぐらせ、幸せな気分に浸っていたのに。

 飛空挺の窓から青い地球を眺めるまで、写真のことはすっかり忘れてしまっていた。あれはどこかで見た、そうだ、写真と一緒にもらった地図のかけらに島があったとようやく思い出した。

 箱から一枚引っ張り出した写真を手がかりにエアバイクを走らせた。それと同じ角度に山が見えるところまで行けば、もしかしたらあの小屋があるかも知れない、写真裏の約束とやらの秘密がわかるかも知れないと。思い出なんて、案外脆いものだ。何か切っ掛けがなければ、どんなに大切でも忘れてしまう。嫌なことはずっと覚えているのに、楽しいこととなると思い出せないなんて。

 真っ白いはずの写真の裏は、過去のジュンヤの手垢でどれも少し黄色っぽく変色していた。

 一枚、あの小屋の縁側から見た、小さな庭の写真を見つける。破れかけた写真の裏の左隅に、はっきりと文字が書かれている。


「『君の未来がこの島と繋がっていますように』……『四七六年三月 ティン・リー』……?」


 スペルを読み間違えたのかと、ジュンヤは慌てて何度も読み返した。しかし、そこには確かに、「ティン・リー」の文字が見えた。

 ジュンヤは恐ろしさのあまり、手に持っていた写真を握りつぶした。


「これ、なんだ……。なんで、リーのサインが? 今から二十年以上前の写真に?」



――『ここで僕らが会うのは、もしかしたら、偶然なんかじゃなくて、ある意味“必然”だったのかもしれないね』



 リーのささやきが耳の奥で拡張していく。


「『必然』? ──違う。彼は俺が写真を持っていることを知っていたんだ。俺が写真を覚えていて、この島に来ることを予め知っていたんだ。そして俺に何かを伝えようとした。……それは何? 過去に、父さんとの間に何があったんだ?」


 心臓の音が、体中に響いた。握っていた写真をポケットに突っ込むと、後先考えずに走り出していた。ハロルドが食堂で“妙な観測所跡があった”ことを話していたのを思い出す。そして、リーが“ワープ装置の誤作動”で島に来たことも。その場所に行けばきっと空間転移装置があるに違いない。リーがいつもこの島を訪れるときに使っていた装置が。ディックが小屋にやってきたのも、リーが撃たれた後消えたのも、同じ転移装置の青白い光だったんだから。

 そして──。



 *



「君は、何が知りたいの?」


 現実に引き戻された。

 リーがニコニコしながら、こちらの出方をうかがっている。

 この青い部屋に、リーと二人っきり。自分の疑問を解決するために、ここにいるのだ、何をためらうことがあろうか。リーの側にいたあの美人秘書もいない。何の気兼ねもなく、聞くことができるはずだ。


「何を聞いても、いいのか」


 ジュンヤは覚悟を決めた。


「ああ。答えられるところはきちんと答えてあげるよ。僕の知っている範囲で、だけどね」


 リーは肘を両膝の上に乗せ、両手の指先を擦り付けながらにこりとジュンヤに微笑んだ。


「あの時、あなたは俺にこう言ったんだ、“政府の人間じゃない”って。なのに政府ビルにいる。俺が推測するに、あなたは」


「別に僕は“政府に雇われている人間”じゃないからね、“政府の人間じゃない”って言ったまでだよ。──そう、君の推測のとおり、僕はこの政府の“総統”と呼ばれる人物だ。騙すつもりはなかったんだ」


 悪気のないように彼はまたにっこり笑いかけてくる。

 ジュンヤの心中は複雑だった。騙すつもりはと言われると、返答に困るのだ。まるで気がつかなかった自分が悪いような妙な気がしてくる。整理の付かない考えをどう纏めたらいいのか。この気持ちをなるべく悟られたくないと、ジュンヤは無理矢理台詞を繋いだ。


「あなたが、ディックに撃たれたときから、俺はどうしたらよいかわからなくなった。あなたの言葉が、どうしても気になって、頭から離れなくて。それだけじゃない。あの撃たれ方は、尋常じゃなかった。死んでいてもおかしくない。なのに、あなたは生きている。俺は一体、何がなんだかわからなくなってしまった。そして、“写真”だ。どうして俺の持っている写真にあなたのサインが――」


 畳み掛けるように次々と質問を浴びせ、ポケットに手を伸ばす。が、それまでの着衣がクリーニングに出されていることを思い出し、そのまま手を引っ込める。

 その様子を見てリーはタイミングを計ったかのように、胸元から一枚のシワになった写真を取り出した。


「君の言っている“写真”ていうのはこれかな。大切にしてくれていたんだね」


 箱庭の写真がテーブルの中央に差し出される。


「ディックは……、あなたを随分前から知っているようだった。多分、政府ビルから逃れてきた七年前よりもっと前から。エスターも、あなたと何らかの関わりがあるようだった。そして俺の父親も、あなたに過去に世話になっているらしい。──あなたがどういう人物なのか、本当のところ、全くわからない。なぜ彼があなたに嫌悪……いや、憎しみを抱いているのか。あなたとディックがどういう関係なのか。想像すらできない。ただ……。まさかとは思うけど……、あなたは……」


「僕が? なんだい?」


「二十年以上も前に俺の父と会い、ディックと研究をともにしていたのに老けもせず、銃で撃たれても死なないなんて……、それって」



「──人間なのか?」



 ジュンヤは精一杯の気力を振り絞って、リーに尋ねた。

 リーは一瞬、目を丸くしたが、その後、緊張から解き放たれたかのように、腹を抱えて大声で笑い出す。


「ははは、傑作だね! 僕が人間じゃない? 冗談だろ」


「何をそこまで笑わなくても……」


「失礼、失礼。──僕は間違いなく“人間”だよ。切り裂けば血も出る。感情だってある。……どこかの誰かさんと違ってね。この世界に君臨する僕に“老い”や“死”がないのは、僕が“マザー”に守られているからさ。あ、ここから先は企業秘密だから喋れないけどね」


「“どこかの誰かさん”って、ディックのことか」


 リーにはぐらかされてしまった分、別の話題にメスを入れてみる。


「そうだよ。あの、“ディック・エマード”って人物はね。人間じゃない。悪魔だ」


 ディックの話題に変わった途端、リーの表情が変わる。笑みは冷たく、重々しい。

 今まで感じたことのない、魂が凍るようなどっぷりとした闇がリーの中から湧き出ていた。

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