22・堕天使の笑み

 “老い”や“死”がない、そんなものが生物学的にあり得るのか。

 何を隠している、何を知っている。

 考えれば考えるほど、ジュンヤの頭は混乱していく。


「彼が、ここを出て行ったいきさつを、君はまだ知らないようだね。エスターが彼の何なのかも」


 リーはジュンヤの心を見透かすように、ぐっと、目尻に力を入れた。


「知っているかもしれないが、彼は科学者であると同時に、殺人を執拗に繰り返す“殺人鬼”なんだよ。幼い頃から人を殺す方法を叩き込まれた。世界に散らばる裏切り者たちの抹殺を謀るため、政府が秘密裏に用意した、特殊機関の出身。……つまりは、“人を殺すために生きている”と言っても過言ではない存在なんだ」


「“殺人集団の一員”……てこと?」


 ジュンヤの口からその台詞が出てくるのを待って、リーは深くうなずいた。

 握りしめていたジュンヤの拳が、じわっと汗で濡れた。


「彼は人を殺すために生きてきた悪魔だ。出生を隠し、世に紛れ、自分の正体を知ったものを次々と殺していく。ジュンヤ……君だって、真実を知ったと彼に知られたらどうなることか……。想像に難くないよね。そして、その悪魔は! ……科学と言う聖域に足を踏み入れた。土足で。しかも! ──自分の娘まで実験台にした」



 リーの言葉に、ジュンヤの記憶がフラッシュする。



――『ヤツは、知ってはいけないことを知ってしまった。EPTという組織の根底に迫る秘密』



 ディックが、過去のことを話していたときのことだ。



――『俺はヤツの家族を一人ずつ始末した』



 秘密――特殊機関の出身。殺人集団にいた彼が、自分の過去を知られたために、次々に射殺していたのだとしたら。



――『俺にとっては、殺しも仕事だった。人を殺すのはなんでもない、当たり前のこと。犠牲だとか可哀相だとか、俺には関係ない』



 このディックの台詞は、明らかにリーの証言と合致する。

 ぞわぞわと身の毛がよだった。

 ジュンヤの中で、ばらばらだったパズルのピースが一つずつ組み上がっていく。

 今まで何気なしに聞き流していた台詞、仕草、全てがリーの言葉によって繋ぎ合わされる。



――『前のことは一切わからない。それって、普通に生きている人間として、ありえるものなの?』



 苦しむエスター。

 自分が何か恐ろしいことに巻き込まれていたことを、示唆する発言だった。

 ディック・エマードという人間が本当にリーの言う通りの男だとしたら、全ての鎖が、うまく繋がる。



 冷や汗がつぅーっとほおを伝う。自分の中の憶測に焦りだす。

 いや、まさか、そんなことはない。そう思いたかった。自分を今まで支えてきてくれた、父の友人に対して、幾らあんな無残な現場を見せ付けられたとしても、それでも寄せていた信頼の念を簡単になくすことなんか出来ないと歯を食いしばる。


「僕は危険因子から君を遠ざけたい。運命的な出会いをした君を、僕の友人だった“シロウ”の息子である君を、彼の犠牲にしたくない」


 青い水槽を背景に、リーはまた、そうやってジュンヤに揺さぶりかけてくる。


「何度も聞くけど、それって本当なのか。俺の父が、反政府組織のリーダーが政府総統と仲良しだなんて、どこの誰が信じるんだ。冗談も大概にしてくれ」


「――じゃあ、この写真、君はどう説明するの。見たんだろ、メッセージと僕のサインを。これは二十三年前、僕が彼に贈ったものなんだよ。君が持っていたんだ。捏造なんてできっこないじゃないか」


「それは」


 ジュンヤは言葉を詰まらせた。


「でも僕とシロウのことは、これ以上詮索しないでくれよ。男同士の秘密ってやつさ。悪いけど、いくら彼の息子だからって簡単に教えられないね」


 人差し指を口元に寄せ、リーはいたずらっぽく笑う。目を細め、何か確信したように更にほくそ笑むと、彼はおもむろに立ち上がった。

 青い水槽の前、黒服が光を吸収し、ぎゅっと締まって見える。

 リーは両手をいっぱいに広げ、


「世界は」


 突如低く声色を変え、両目を見開いた。

 目をしばたたかせるジュンヤを楽しそうに見下し、


「あの男を中心に回ってるわけじゃない。中心はこの僕で、君はその目の前にいる」


 両手を下ろすと、ローテーブルを迂回してゆっくり歩み寄り、ジュンヤの腰掛けているソファーの手前で片膝を付く。


「エマードは君達を使って“復讐を果たしたい”だけだよ。自分をああいう人間にしてしまった、この世界に。だからわざわざ、ここから脱走し、敵であるはずのESへ逃げ込んだ。あの男が如何に卑劣か、僕は知っている。──そして、君には未来がある。あんな男と一緒にいてはいけない、絶対に。利口な君なら、わかるはずだよ」


 ぐっと、ジュンヤの顔にリーが迫る。瞬きも許されない。重圧。

 潤んだジュンヤの目と、喉を通る唾の音。


「君のすべきことは? 誰の言葉に従うべき?」


 音のない世界。リーの瞳に圧迫され、息が出来ない。


「このままESに留まって、死の商人の手助けを続ける気かい」


 言葉はより強烈に、ジュンヤの脳に突き刺さる。

 何がしたい、何を言いたい。

 混乱していく。徐々に、徐々に。


「それとも」


 最早それは。


「私とともに、“エスターを守る”か」


 洗脳としか言いようがない。


「ちょ、調子のいいことばかり並べ立てられて俺がすぐに動くとでも? あなたの話は都合がよすぎる。俺にどうして欲しいんだ。俺はただ、写真の秘密と、あなたと父の関係を知りたい、それだけのためにここへ」


 ソファの背もたれにひっつくようにして、ジュンヤはリーの目線を避けようとした。

 無駄な抵抗だ、わかっていても、足が思うように動かなかった。


「大切な人の息子を、悪魔から引きはがそうとするのがそんなに不自然かな。僕はそうは思わないけどね。真っ直ぐな目、君は本当にシロウに似ている。あの日夢を語り合った彼と、君が同じ人物なんじゃないかと錯覚してしまうくらいに」


 親しげなリーの言葉に、極端な悪意は感じない。

 それでもジュンヤが困惑するのは、ESという組織に対する未練なのか。

 それともまだディックを信じていたいのか。

 生まれてからずっと、政府のやり方が如何に卑劣で如何に姑息か見てきたはずだった。

 父親が作ったとはいえ、反政府組織に身を置き、自由な世界を夢見て努力してきたはずだった。

 この極端な世界を作ったEPT政府が憎いと、そう思っていた。

 何より、ジュンヤは父を殺した政府を憎んでいた。反政府組織のリーダーという存在がそんなに目障りだったのかと思われるような、悲惨な死に様。本当に、本当にシロウがリーの友人だったとしたら――、


「だったらどうして、父さんを見殺しにしたんだ。軍の兵士に蜂の巣にされたんだぞ。それでもあなたは父の友人だと言い張るつもりなのか」


 睨み付けるジュンヤをなだめるように、リーはゆっくり身を引き、両膝と両手を床に付いた。項垂れた頭から、サラサラと髪が流れ、その表情を覆い隠した。


「死んだのがシロウだと知ったのは、全て終わった後だ。僕が出会った頃、彼はまだESという団体の立ち上げすらしていなくて。本当に、ただの友人として付き合っていたんだ。まさか敵同士になっていたなんて、僕には知る由もない。すまない。本当にすまない。君と、君の母メイシィ、そしてシロウに、僕はどうやって詫びたらいいのかずっと考えていた。考えた末、写真をきっかけに再び君がここを訪れるようそっと仕組み、あの男から引きはがすことしか僕に出来ることはないという結論に至った。これは僕のわがままだ。しかし、君のために考えた精一杯でもある」


「顔を、顔を上げてくれ。俺は決して、そんなつもりじゃ」


 態度を翻し下手に出るリーにどう接したらいいのか。

 ジュンヤはおどおどと彼の肩に手を伸ばした。顔を上げてと思っていても、それをどう表現したらいいかわからない。

 今までこれほどまで自分を気遣う他人がいたかと、彼は考えた。

 あの日以来、リーという男を不審だと思ってしまっていたことさえ恥ずかしい。

 苦心の末、立場の違う友人の息子を。

 リーは、彼の中で徐々に神格化されていった。

 ジュンヤの心の移り変わりを察したのか、リーはおもむろに顔を上げ、膝を払って立ち上がった。その動きに合わせ、無意識に立ち上がったジュンヤの手に、そっと何かを握らせる。


「何も、君を無理矢理巻き込もうとしてるわけじゃない。ただ、僕の気持ちは知って欲しい。これはね、小型の“空間転移装置”だ。君にあげるよ。ここの場所をメモリに入れておいたから、来たくなったらいつでもおいで」


 真っ赤なボディーをした、手にすっぽり収まる二つ折りの携帯端末。折りたたまれた部分を開くと、画面に世界地図が表示された。現在地が黄色に点滅している。


「苦しいだろうから、答えは聞かない。君は一旦、戻りたまえ。お母さんも待っているんだろう?」


 真っ黒な羽を生やした堕天使が、誘惑の笑みで魅了する。


「このことはエマードには内緒だよ。……本当に、殺されかねないからね」


 ほんの小さな子供をあしらうかのように、リーはジュンヤの頭を撫で付けた。

 ジュンヤは抵抗することもなく、じっと、端末の画面を見つめている。

 純粋さが消え、その目には、ディック・エマードという完全悪への怒りの炎がちらちらとたぎり始めていた。

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