55・ラムザ・ノート

 体中に電気が走った、という表現が的確なのかも知れない。目は開いているのに、ディックには何も見えなくなっていた。三次元的感覚が薄れ、脳が直接的に物事を感じている。夢の中にいる、幻覚、幻影、どう表現するのが適当なのか。

 トリストに乗り込み、マザー・コンピューターへと侵入していく。キーボードを操作し、端末を介して侵入していくのとは違う。情報の海へ飛び込んでいくのだ。

 真っ暗な世界に一つ一つの情報が光り、網の目のようになって形を作っていく。ニューロンが結びつくのと同じように、あちらこちらで関連性のある事項が手を結んでいる。その中を泳ぐように突き進み、どんどん奥へ奥へ。

 身体は間違いなく、EUドームの監視室、トリストとアンリが呼んだ端末の中。ヘルメットを介して脳に注がれていくデータは、ディックの感覚という感覚を全て奪い取り、マザーへの侵入のみに神経を集中させていく。

『慣れるまでは現実とデータとの境が全くわからなくなってしまう』とアンリが言ったのはあながち間違いじゃない。言われなければ、この感覚の気持ち悪さに大声を出していた。――いや、声を出すという感覚すらなくなってしまっていた。身体を動かしているつもりでいても、それはあくまでそう感じているだけ。あの狭いトリストの中で、ディックが自由に手足を動かせるはずなどないのだ。

 実際は呼吸以外の全てが、停止している状態なんだろう。夢を見ているときに似ている。触ったと思っているものに触れた感覚がない、歩いているはずなのに歩いている感覚がない。脳が何かをシミュレートしているのだ。

 真っ黒な世界、立体的に組まれた情報の網を潜っていく。走っている、足を必死に動かし、前に進んでいるとイメージすれば、身体は自然に前進した。

 時折、身体がまばゆい光の塊に触れると、それらは弾けて消えながら、ディックに画像を浴びせてくる。たくさんの数字や数式であったり、細胞のようなウイルスのようなものの映像であったり、たくさんの人の顔や名前、性別や経歴などの個人情報であったり。整合性なくバラバラに散らばったそれらのまばゆい光の塊が、光の線と線で結ばれ、闇の中に果てしなく広がっていた。

 感覚に慣れ、義父ラムザの残したファイルを探らなければと、ようやく彼は本来の目的を思い出す。

 すると、彼が念じるのを待っていたかのように、目の前にスッと人型の何かがぼんやり見えてくる。闇の中に白くくりぬかれたような、女性のシルエットだ。長い髪をなびかせ、少し首を傾げる姿には激しく見覚えがある。


『エレノア、なのか』


 声を出したが、それは声というより心の声に近い。声帯を震わさずに出しているというのは、あまり心地のいいものではない。


『あなたにとって、エレノアに見えるのであれば、そうなのだろう』


 目の前の人型が喋り出す。いや、やはり喋るというよりは、響いてくるというのがぴったりと当てはまる。


『……違うな。エレノアじゃない、“マザー”か。アンリのヤツ、直接ファイルにアクセスさせたわけじゃないのか。どういうことだ』


『彼にはファイルの存在を伝えはしたが、アクセス権はない。鍵を開ける手助けしかできない』


 マザーには人格がある、そうアンリが言っていたのを思い出す。なるほど、自然と会話が成り立つほどに発達したAI、アンリが擬人化して呼ぶのも理解できなくはない。


『ファイルは』


『ファイルは既に開いている』


『どこに』


『開いているが、あなたをすぐ、ファイルに接触させることは出来ない。私の言う条件を全てクリアすること。出来ないならば、アクセスを拒否する。今後のアクセスも受け付けない』


 その声も、エレノアに似ていた。皮肉な演出に寒気がする。実際身体がそう感じていないにしても、感覚としてのもやもやは胸の辺りにくすぶった。


『D-13、あなたが私の姿や声をエレノアと感じるのは、あなたの脳がそうさせているだけのこと。私には形というものがない。あなたは自分の中で印象的な人物に私の姿や声を無意識に重ねてしまっている。ここはリアルではなく、1と0の世界。データ化したあなたの意識も、知らず知らずのうちに一番活動しやすい年齢に姿を変えている。そして、あなたの意識は直接私にも響いている。声として発していると認識している部分以外の思考も、全て伝わってしまうのだ』


『それは面倒、だな』


 言われてみれば、心なしか身体が軽い。実際、本体はそこにないとしても、無意識的に作り出した身体は二十代後半か三十代前半くらいの一番力の漲っていた頃のものだ。

 いくら不死身の身体でも、年をとる。老化現象と自己修復機能に関連性はないのかと疑ったこともあっただけに、トリストでやってきたマザー・コンピューター内部のデータの世界で若返るのは、悪い気がしない。


『条件は、以下の通り。一つ、リアルの世界とこの場の区別がついているうちに、全てを終えなければならない。二つ、データはあなたの脳に直接注がれる。データの内容によって、結果廃人となる可能性もありうることを了承する。三つ、データの内容を全て理解した上で、政府総統ティン・リーの暴走を止めよ』


 エレノアの声は、淡々と条件を突き出した。一つ一つ、聞き逃すまいと神経を尖らせていたディックだったが、内容にいくつか納得できない点があった。


『最後の、“リーの暴走を止めよ”というのは、何だ。それはマザー・コンピューターですらどうにも出来ないような事態なのか』


 白抜きのシルエットは、こくりとうなずいて見せた。


『彼は、私、すなわちマザー・コンピューターを使って、人間への支配を強めようとしている。私はあくまでデータであり、プログラムであり、それ以外の何者でもない。ところが、ティン・リーは私を人間の身体にダウンロードさせ、私と繋がった世界中のコンピューターを狂わせようとしている。彼の陰謀は今に始まったわけではない。詳しくは、これから見せるファイルに、ラムザ・エマードが記した』


『彼も、ここへ来たのか』


『四十年近く前、ラムザ・エマードは初めて私にアクセスした。人格化した私と接触を重ね、最後にアクセスのあった二十年前に“ラムザ・ノート”と名付けたファイルを私に託し、姿をくらました。ありとあらゆる方法で彼の行方を探ったが、見つからない。恐らくは自殺、でなければ、私の情報網の外へ逃れた』


『二十年前までは、彼は生きていたのか。何らかの方法でマザーにアクセスできるところにいた。俺は、てっきり』


 ――てっきり、死んだものだとばかり思っていた。声としては発しなかったが、マザーには筒抜けだ。

 おぼろげに浮かぶラムザの顔。悔しいことに、ディックははっきりと覚えてはいないのだ。

 自分を助け、犠牲になった義父の姿は、時間の経過と共にディックの記憶からどんどん色褪せていく。コンピューターのように、いつまでも記憶を保存して置けたら良かったと、何度後悔したことか。次第に年をとり、自分の中でラムザの影が薄くなっていくのをどうにも出来なかった。

 その彼が、二十年前まで生きていた。ということは、ディックと離れてから少なくとも十九年はどこかでなりを潜めていたことになる。


『ラムザ・エマードは、政府実験に関わったことから、いつしか政府の存在そのものに疑問を持ち始めた。政府解体を狙い、様々な方面から分析を進めた結果をファイルに記したのだと、私は聞いた。真実を覗き、自ら考えるがいい。与えられた使命を全うするか否か。ファイルを閲覧する覚悟は出来たか』


 自分の身体がそこにない、意識だけというのは不便だ。息苦しさも胸の高鳴りも、乾いた喉に唾を押し込むのも感じることが出来ない。

 考えたことも全て相手に筒抜けの状態で、何を躊躇することがある。


『当然だ』


 ディックは力強く、うなずいてみせた。

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