56・第一段階
暗闇に浮かぶ白抜きの内側を、彼女はそっと指した。
『ラムザ・ノートへの入り口は私の中にある』
彼女の周りを囲うようにして張り巡らされている巨大な情報網の光が、ほんの少しだけ遠慮するように照度を弱めた。
両手をいっぱいに広げ、その白いシルエットは、おいでとばかりにディックを体内に招き入れようとする。
もしこれが本当にエレノアだったならと、かつて愛した人とマザーを重ねたが、やはりそこにいるのは彼女ではない。AIプログラムが作り出した、ただの幻影なのだ。
『私をくぐり抜け、一番最初に見える扉を開けよ。ただし、先に注意したとおり、内容によってあなたが廃人となることもあり得る。データは精巧に立体映像として作られており、この空間よりも更に現実との区別がつきにくい上、相当量のデータを圧縮したため、流し込まれたデータにより、脳が異常をきたすことも考えられる』
再度うなずく。
平面的な人型の中は真っ白で影一つない。その先に何かがあるなどと、到底考えられない空間。彼は、細い女のシルエットの内部へと、恐る恐る手を伸ばした。
トンネルを進むように輪郭線をくぐり抜けていく。一瞬吐き気のような感覚があったが、身体もないのにそう感じるはずがないと冷静になった途端、スッと身体が軽くなる。黒と小さな光の世界から、辺り一面真っ白な無の世界へ。ディックは、身体と意識を慎重に前方へ進ませていった。
――目の前に、彼女の言った扉が突如として現れる。アンティーク調の木製扉、ドアノブの上に電球の形をした妙な鍵穴がある。変わった趣味だ、今時、掌紋認証や虹彩認証装置を付けたものが主流だというのに、旧時代のまま鍵を回して開けるなんて。
だが、もしこれがラムザの残したファイルとやらの入り口なのだとしたら、納得できる。ディックの記憶では、ラムザはかなりの凝り性だった。確か、大戦前の美術品を好んで集めていた。実際目の前の扉は、おぼろげだが、記憶の中で見覚えがある。彼の趣向を考えればこの扉がファイルの入り口そのものなのだろう。鍵穴はフェイク、ロック解除はトリストに乗る前に済ませてきたはずだ。『ファイルは既に開いている』とマザーも言っていた。恐らく、そういうことだ。
不安を抱きつつ、ノブを回す。やたらと現実味のある感触を久しぶりに感じ、ミシッときしむような音がリアル感を増長させる。白い空間にぽっかりと浮いていた扉が、ゆっくりと開いていく。四角いファイルの入り口から色が漏れると、ディックは思わず息を飲んだ。
カチコチと正確に時を刻む柱時計。古めかしい棚にはあでやかなドレスで着飾った小さな少女の人形が数体並べてある。美しい絵皿の飾られた硝子製の食器棚の隣には、壁面を彩る大小様々な絵画。床に敷かれた絨毯の精密な模様や、やたらと細工の凝った背もたれのある椅子には既視感があった。木製の丸テーブル、その奥に並んだ書棚に色褪せた本の背表紙が並んでいるのも、彼の記憶のまま。
『よく来たね、ディック』
空間に溶け込むようにして一人の中年男性がたたずんでいた。
優しい眼差しで見つめられ、思わず背筋にブルッと震えが走る。痩せぎすの体型、薄茶の頭に丸眼鏡、少し痩けた頬。確かに老けてはいるが、渋みのある声は、長年耳に残っていたそれと違わない。
『父さん』
忘れかけていたラムザの外見が目の前にくっきりとした形で表れると、ディックの意識は一気に少年時代まで戻ってしまう。
黒い空間でマザーと話していたときには、青年の姿であったのが、ラムザの姿を見つけた途端、ディックの身長は縮まり、細く小さくなった。十歳の少年に、姿までも変えてしまっていたのだ。
室内はまさに、ラムザと数年間過ごした場所そのものだった。『息子になってくれないか』と手を引かれ、長い地下通路を通り研究室を抜け出した日から先、実子でないと政府にばれてNCCへ収容されるまでの僅かな間暮らしていた、ラムザ・エマードの隠れ家。
懐かしいと素直に彼は思った。その思いが、彼の身体を小さな少年時代へと戻してしまう。
無意識に彼はラムザの懐に飛び込んだ。その、大好きだった男へ飛びつこうと――、すり抜けた。
データとはいえ扉を開くことが出来たというのに、この空間に立っていることが出来るというのに、ラムザの身体だけはどうしても掴むことが出来ない。
『お前がここに辿り着いたということは、私の考える第一段階をクリアしていることになる』
その言葉を聞いた途端、ディックの身体は、中年男性まで急速に老けた。
『もし、お前が私の考える第一段階に到達していなかったとすれば、お前はこのファイルにアクセスすることもままならなかったはずだ。お前がAIチップ作成に携わっていたのは知っている。それによりマザーに興味を示すことが一つ、マザーへのアクセス方法を知る少年と接触できていることが一つ』
ラムザはディックに向き直り、淡々と話し始めていた。目線はディックを追うが、こちらの呼吸を読んで話をしている状態ではないのがわかる。まるで、マザーと会話しているときと変わらない。
『プログラムを、再生している状態なのか』
思わず呟いたディックに、
『そう、私の動きや声はあらかじめプログラミングしてあるもの。お前の声や意識に対応するデータを再生しているだけだ。予想される数万パターンの会話に応じた、最も適切な回答を抽出するこの方法は、マザーの会話システムと類似している』
つまり、この受け答え自体が会話ではない。そう捉えられる言い方だ。
アンリとマザーの言葉が、ますます信憑性を帯びてきていた。現実との区別がつきにくいというような問題ではない。
ラムザの言葉がデータの再生だとわかっていたとしても、それを脳が理解するに時間がかかってしまう上、そう感じさせないほど精巧に組み立てられているプログラムが、生身の人間同士の自然な会話だと錯覚してしまうのだ。物語に陶酔し現実との境がわからなくなってしまうようなレベルではなく、幻覚を現実だと錯覚してしまう精神疾患レベル。実際は二十年も前に用意されたデータにアクセスしているというのに、恐ろしいほど不自然さがない。
ラムザは何故通常のテキストデータ形式ではなく、このような危険な方法でファイルを残したのか。
試されているとしか思えない。
ディックは目の前の義父をじっとにらみ、次に出てくる言葉を待った。
『なるほど、なぜ私がこの形式でファイルを残したのか、知りたいのか』
マザーのときと同じく、ラムザもディックの思考を読み取る。データ化された意識の中で自分の形を作り上げ、声に出しているつもりになっているだけだということを、今更ながら思い出した。
『私はお前が信頼の置ける人物に育っているかどうか、確認する術を持たなかった』
そう言って、ラムザは椅子に腰掛けた。ギィと、またリアルに木のきしむ音がする。
『お前と過ごした時間はあまりに短く、NCCへ収容されて以降はお前と出会うことも出来なかった。お前が私の思うような“人間らしい人間”になれているかどうか、与えられた少しの条件やヒントから、ここまで辿り着くのを待つしか、私に出来ることはない。今、データが再生されているということは、お前はどうにかして、ここへ辿り着くことが出来たということ。それが強引な方法であれば、きっとファイルは開かなかった。なぜなら、私の開発したマザー・コンピューターハッキングシステムの操作方法を知っているのは、EUドームにいるたったひとりの少年だけだからだ』
『アンリか』
『そう、あの少年だけがアクセス方法を知っている。マザーにはデータを渡す際、彼にファイルの存在を知らせるのは、お前がここへ来ることが確実となったときだけにするよう伝えるつもりだ。また、実際そうなっているはずだ。アンリと接触するには、お前は反政府組織に所属している必要がある。ここ、EUドームは言わずと知れた反政府勢力の聖地、つまり、お前が政府側の人間で居る限り、ここに辿り着くことは不可能なのだ』
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