91・最後の逢瀬

 世界中で、騒ぎが広がっている。

 アンリはマザーとのアクセスで、それを痛感していた。

 各ドームのメイン・コンピューターにも侵入し、今、それぞれのドームで何が置いているのかを確認する。“世界は崩壊する”噂に戦々恐々とし、どこに逃げるべきか真剣に考える人もあれば、噂は噂に過ぎぬと、平然に過ごす人もいる。今の段階では確かに噂に過ぎない。だが、ESとEUドームの連合がネオ・ニューヨークシティを攻撃し始めれば現実味を帯びるに違いない。

 ドームには逃げ場がない。大戦時に作られたという地下核シェルターがどれだけ残っているのかも、不明だ。それでも、ネオ・ニューヨークシティでは、難を逃れようと転移装置を利用して他ドームへ渡ろうとしている人間が、政府ビルへ殺到している。混沌としてきている。この状態を政府がいつまでも正視しているはずもなく、軍隊の投入、強制逮捕に踏み切る始末、これが異常で無いとは、誰も言わないだろう。

 ただ、不可解なのは、こうした状況に陥っても、政府のトップに全く動きがないことだ。総統始め、特殊任務隊のヤツらも、全く動く気配がない。それがとにかく不気味でたまらないのだ。

 そして何よりも――、


『マザー、僕を情報に縛り付けているウチに、博士を逃がしたね。どういうつもり』


 アンリは目の前にいる、白い女性の人型に目をやった。

 真っ黒い宇宙のような空間に浮かぶ優しい女性は、アンリの記憶の彼方にいる母親と同じ声をしていた。


『私が逃がしたわけではない、彼が隙を突いただけ。残念ながら、私には彼を束縛する権利はない』


『そうやって誤魔化すんだもんな、ホント、困ったな……』


 針金のように突っ立った頭をギシギシと掻きむしった。フルフェイスヘルメットの上からそんなことをしたところで感覚など無いが、そうでもしないと落ち着かないのだ。


『博士は一人でビルに飛んだんだな。一人で行くなってあれほど……。攻撃指示や作戦展開はこっちに丸投げか。まぁ、こっちにだってそれなりの体制はあるにしても……、酷すぎる。無責任だ。あんまりだよ。最後の最後まで一緒に戦ってくれると思いたかったんだけどな』


『それはあなたの身勝手というもの。彼にはそもそも“責任”などというものがない。あなたたちが思っているほど、彼は誰かのために動いているわけではない』


『知ってるよ……、彼の娘のため、なんだろ。救い出せる保証なんてどこにもないってのに』


 そこまで言って、アンリは言葉を飲み込んだ。

 そう、保証なんてない。この世界が滅びない保証なんてない。

 本当にディックの言ったように、“一週間以内に、この世界が崩壊する”のだとして、その先どうなってしまうのか、誰一人想像も出来ていないはずだ。ドームを破壊して、その先どうなる。昔はそうだったように、自然と共存していく? ――そんなこと、あのディック・エマードという男が、真剣に考えているはずなんて――。


『そう、彼はあくまで、目先のことだけを考えている。彼にとっての目的は娘の救出とリーの存在の抹消のみ。そこから先を彼に期待するのは間違いだと、忠告する』


 頭の中で考えたことは、言葉として発するまでもなく、マザーに筒抜けだ。

 アンリは両手を腰に当てて、ゆっくり息を吐く仕草をした。


『オッケー、マザー。あなたの言いたいことはよくわかった。とにかく、博士が行っちゃったんじゃ、どうしようもない。小型転移装置のデータを彼が入手した時点で、もう少し真剣に考えておくべきだった。……で、地下実験室とやらの様子は? 彼の娘は未だ無事なの?』


『今のところ、変化はない。ただ、ティン・リーの周辺では一段とデータのプロテクトが強固になった。私が動向を探るのも難しい。政府上部で慌ただしく各機関との連絡を取り合っていることからしても、何かしらの対策をしているのは間違いないようだが、弾かれてしまい、それ以上の情報を得ることは出来なかった。ティン・リーがどのタイミングで私の意識データをEに取り込もうとするのか、それすら不明なのだ』


 彼女の声は淡々としていて、常に起伏がない。それでも、長い間やりとりをしているうちに、アンリはそれでも、彼女のどこかしら感情らしいものを垣間見ることがある。時に涙声に思えたり、時に嬉しそうに聞こえたり、――それが、あくまで錯覚なのだとしても、一人の女性と語り合っている風に感じてきたのだ。

 マザーの姿は、記憶の中にいる一番印象深い人物になって心に投写されるのだという。

 ディック・エマードは、マザーの姿や声を、彼の最愛の女エレノアだと感じていたらしい。アンリは、恐らく自分の母親だと――何かの理由で自分を置き去りにした女性なのだと感じていた。“マザーがEと同化する”、それは即ち、別れを意味している。彼の感じてきたマザーという存在が、消えてなくなってしまうのだ。

 世界が終わるかも知れないという恐怖よりも、マザーともう会えなくなってしまうかも知れないという不安がアンリを襲っていた。


『……もし、同化してしまったら、マザーはどうなるの。僕は、トリストに乗り込んでも、あなたとは会えなくなってしまうの』


 ぽつり、言葉がこぼれた。


『私の存在は、この情報の海から抹消され、Eという有機体の意識と混ざり合うことになると考えられる。しかし、それは“死”ではない。私の意識データが完全に消去されるわけではないのだ。何故ティン・リーという男が、私という存在にこだわり続けるのか、そこを突き止める必要はある。私を取り込んだところで有機体に何の利点があるのか、私の意識を何らかのプログラムによって都合良く改変させようとしているのか、今のところ、わかることは何一つない……。アンリ、お前は私の何を案じているのだ。私は私であり、私以外の何者でもない。私はあくまでプログラムされたデータに過ぎぬのだ。理解しているはずだ。何を、悲しむことがあるのだ。目の前に迫っているのは決して、私の“死”ではないというのに』


『――だとしても、僕は、あなたと離れてしまうことに耐えられない。どうにかしてこの空間に留まることは出来ないの』


『アンリ、もう一度言う。私はあくまでデータに過ぎない。お前は私に何を見ている。D-13にも話したが、私は私を攻撃するものに対して防御する術を持たない。私は人間ではない。私はお前と違い、別れを悲しむという感情を持ち合わせてはいないのだ』


『そんなことは、そんなことは理解してる。してるんだ……、ただ……』


 会えないのが辛い、苦しい、この気持ちをどう伝えればいい。相手は、自分のことを単なるAIだと断言しているというのに。



 ――それ以上、マザーとアクセスし続けることが、出来なかった。



 アンリは自分から意識を戻し、接続を遮断した。

 修復したてのトリストの中、丸く屈めた身体に、徐々に感覚が戻っていく。


「アンリさん、お帰りなさい。思ったより早かったですね」


 スタッフの一人が声をかけるも、アンリはコードの繋がったヘルメットを外そうとはしなかった。


「“死”ではない……わかってる、わかってるけど」


 マザーという存在は、トリストに乗り込んで初めて感じることの出来るものだ。温かい、母親の中に包まれるようなあの感覚は、もう無くなってしまうのだろう。

 あくまでも、彼女はAIに過ぎない。人間ではない、死などない。あくまで、姿を変える可能性が高いということ、プログラムを改変され、全く違う存在になってしまう可能性が高いということ、それだけなのだ。



――『現実とデータとの境が全くわからなくなってしまう』



 いつだったかディックに忠告していた、それは自分にも当てはまった。間違いなく、アンリはマザーを人間だと錯覚してしまっていた。そして、愛していたのだ。

 永遠とも思われた彼女の存在が、急に小さく脆く見えてくる。

 突きつけられた現実を受け止められず、アンリはしばらく、膝を抱えたまま肩を震わせていた。

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