47・崩れゆく

 当然と言われれば当然の結果だったはずだ。

 性交――生殖行動をしていたのだから、彼女の子宮に自分の遺伝子を引き継いだ生命体が息吹くことだって、十分考えられた。まさか全く前提としていなかったのかと言われれば嘘になる。彼女との関係を冷静に見つめることが出来たあの夜以前は、彼女と身体の関係を持つことが危険だということをエマードは十分認識できていた。

 麻薬だ。性交は一種の麻薬。

 彼女との身体と繋がる快楽は、彼がそれまで必死に守ってきたものを簡単に打ち砕いてしまう。孤独だった男の心には肌と肌との繋がりはあまりに刺激的すぎたのだ。

 とはいえ、遺伝子の秘密を知らせないうちに彼女が妊娠したのは、完全な誤算だった。

 彼女との夢から、エマードは一気に現実世界に引き戻されていた。

 体中を悪寒が走り、震える。


「嬉しくないの」


 怪訝そうに顔を傾ける彼女にどういう顔をしたらいいのか、エマードはわからなかった。



「産まないでくれとお願いしたら」



 咄嗟に口から突いて出た。

 エレノアの表情が変わる。


「何を言ってるの。何が不安なの」


「NO CODEの子供を産むってことがどんなリスクを孕んでいるのか、君は理解してるのか」


 溢れていた機器やケーブルが整理され、だだっ広くなった研究室にエマードの声が響いた。それは二人で愛を語らうときの口調でも研究者として共に働くときの口調でもない。低くドスの効いた、胸に刺さるような口調だった。

 エレノアはただならぬ雰囲気に目を丸くししばらく黙ったが、深く深呼吸した後でゆっくり微笑んだ。


「そのことなら大丈夫よ。ちゃんと考えてあるから。ドクター・リーに相談に乗ってもらうことになってるの。彼、NO CODEに関して詳しいんでしょ。遺伝子検査でもし危険だと判断されたら、そのときに考えようと思ってる。でも、私はあなたほど心配はしてないのよ。だって、例えNO CODEだとしても、あなたは何ら普通の人間と変わりないもの」


 ――彼女に、本当のことを言う機会を逃していた。こうなる前に時間は十分あったはずだのに。

 冷静になるには何日か時間が必要だった。

 彼女と少しの間距離を置き、頭の中の整理をした。

 感情ばかりが先走り彼女を傷つけたくない。

 自分の遺伝子が危険であることはとうに理解しているはずだった。射精により彼女の子宮へと注がれた精子が、彼女の身体を音もなく蝕んでいく。自己嫌悪に陥り暴走しそうな身体を必死に抑えた。

 とにかく冷静に、冷静にならなければ。


 **


 数日間自宅マンションに籠もった後で、ようやく彼女と話をする決心が付く。彼は彼女と連絡を取り、二人で産婦人科医マールの元を訪れていた。

 胎児の様子と彼女の体調について詳しく検査をして欲しいこと、遺伝子検査により何らかの異常が認められた場合は速やかに中絶して欲しいことを、彼女と医師に伝える。


「あなたがNO CODEであるということは、ドクター・リーから聞いています。何、心配することはない。余程のことがない限り中絶の必要はないでしょう。ただ、NO CODEが子を作るなど前例のないこと。念のため私とドクター・リー、二人で彼女の経過観察をさせていただきますよ。データを取ったり、通常より多く検査を必要としたりするだろうが、了解してくださいますね」


 中年小太りの白人医師は丸い顔でニカッと笑った。その笑みの中にNO CODEと性交した女に対する蔑みが含まれていることを、エマードは見逃さなかった。

 自分が軽蔑されているのには慣れていたが、彼女に対して同じ目を向けるこの医師に何故彼女の身体を託さねばならぬのだと、わき起こる怒りを静かに抑える。

 エレノアは、最初から産むつもりでいたのだ。

 意志の固い彼女が自分の子供を諦めることなど到底ありえない。

 確実に産むために、腕がいいと評判のマールとNO CODE担当のリーにサポートを頼んだのだろう。

 中絶できるのはせいぜい妊娠二十一週前後まで。体内で子供が大きくなればなるほど母体に負担がかかる。

 問題は、NO CODEの遺伝子を引き継いだ胎児の成長が果たして正常な胎児と同様かどうか。もしかしたら早熟かも知れない。或いはその逆、或いは人間の形を保つことすら出来ないことも考えられる。エマード自身、遺伝子がどう操作されて今の自分があるのか、全くわからない。驚異的な治癒能力が一体どこから来ているのか、何もわからないままでは対処のしようもない。

 日に日に成長していく胎児を脳内で想像し、エマードはブルッと肩を震わせた。


「大丈夫、心配しなくてもちゃんと生まれてくるわよ」


 マール医師の診療所からの帰路、微笑んで腕を絡ませる彼女に、エマードはかける言葉がなかった。


 **


 ドクター・リーから彼女の身体について報告があったのはそれからひと月ほど過ぎた頃。閉鎖の決まった研究室で最後の作業を行うエマードの元を、彼は予告なく訪れた。

 相も変わらず小綺麗な女顔のリーは、彼女には言ってないことだと前置きしたあとで、こう切り出してくる。


「胎児の成長が思ったより少し早い。一ヶ月から二ヶ月ほど、早く成長してるみたいだ。それから、念のため彼女の血液と羊水の検査、胎児の遺伝子検査をしてみたんだけど、どうも通常では表れないような数値が出ていてね。もしかしたら、あまり良くない状態なのかもしれないよ」


 最近体調が優れないのだと彼女が言っていたのを思い出す。

 数週間前に、エレノアはエマードのマンションに荷物をまとめて越してきていた。


「子供を諦めるなら、俺はその方がいいと思っている」


 作業机に向かったまま背を向けて呟くエマードに、リーは驚いたような声を浴びせた。


「彼女との子供は、必要ないってこと? それを彼女が知ったらどれだけ悲しむか」


「異常が出たら中絶して欲しいことはマール医師に伝えてある」


 間髪入れぬ返答に、リーは呆れ顔でエマードを覗き込む。


「君は、人の話をどこまで真面目に聞いてるのかな。成長が早いと言った。胎児は、中絶が難しい大きさにまで成長してしまっている。これ以上大きくなってからの中絶は、彼女の身体に負担がかかるんだ、わかってるだろ。まさか、愛する女性をみすみす危険に陥れるなんてことは、しないよね。母子共に助けるためにも、早急に入院させた方がいい」


 あくまで親身に語りかけてくるリーが、鬱陶しかった。

 青い目をぎょろりと見開き、彼はわざとリーにぶつかるような角度で乱暴に振り向いた。



「――ひとつ、聞く。今から堕胎するのと、産ませるのとどちらの方がリスクが高い」



 よろめきうろたえ、リーは表情を歪ませた。

 構わず、エマードは大きな身体を起こし、被せるようにしてリーに詰め寄っていく。


「彼女を傷つけたくはない。子供も欲しくない。生まれたとして子供はNCC行き確定だ。だとしたら産まない方が彼女のためではないのかと、俺は思っている。――異常が出て今からでも間に合うのだとしたら、中絶を」


 エマードの行動は傍目にも異常だった。

 彼女の身体を労り、子供が出来たことを喜んでいるのかと思えば堕ろしてくれなどと。右に左に主張がぶれている。

 作業机からどんどん離れ、壁際まで自分を追い詰めたエマードを、リーは鼻で笑った。


「君は、何を怖がってる」


「怖がってなどいない」


「嘘だな」


 実際、エマードの手のひらは汗でじっとり濡れていた。

 胎児に異常が出たと聞かされた途端、何か引っかかりが取れたように自分の子供への思いが薄れていくのが感じられたのだ。異常、中絶、解放。そんな図式を描いてしまう。それはひとえに、誰にも話していない秘密からの――。



「胎児の遺伝子異常、それがなんなのか、知っているから怖いのだ。……なぁ、D-13」



 ――息を飲んだ。血の気が引いた。

 頭のどこかでパリンと音がする。何かが壊れていく。


「何故、知ってる」


「何故って、僕はNO CODE担当。知っててもおかしくないだろ」


「違う、それはNCC以前の」


 そこまで言って、エマードはゴクリと唾を飲み込んだ。

 あのラボ襲撃の夜、煙に巻かれ意識を失った自分を助けたという医師ティン・リー。彼が『D-13』という過去の名前を知っているということは、彼の身体の秘密を知っていると言うことであり、そして、可能性としてリーは。


「……まさか、お前は俺の遺伝子を」


 足がもつれた。ふらふらと安定しない足取りで後退したエマードは、何もなくなった床にでんと尻を付ける。

 茫然自失して天井を見上げる彼を、リーはほくそ笑み見下ろしていた。

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