64・残された時間

 少しずつ香ばしい匂いが近付いて、顔を上げるとウエイトレスが出来たての料理を運んできたところだった。小さなバスケットに入った骨付きのフライドチキンと、もう一つは海老や貝、トマトとパプリカの色が鮮やかな大きなピザ。焼きたてのチーズがふつふつと音を立て、美味しそうに焦げている。


「おじさんたち、初顔だから増量サービス。気に入ったらまた来てね。お代は何で支払う? 電子マネー、それともクレジット、キャッシュ?」


「キャッシュで。釣りはとっといて」


「ありがと。どうぞごゆっくり」


 ハロルドが慣れた手つきでさっとチップ込みの札を数枚手渡した。エプロンのポケットにスッと札をねじ込むと、その金額に満足したウエイトレスはにこやかに去っていく。

 さて食うかと、ピザの切れ目に沿ってゆっくり切り離した。チーズが面白いようにとろけて落ちる。


「やっぱ人工チーズじゃないな。本場もんだ」


 にやつき、嬉しそうにピザを頬張るハロルドの向かいで、ディックは無言でチキンをむさぼり食っていた。食べる度にこぼれ落ちる肉汁が、更に食欲を誘う。


「なあ、お前は結局、何者なんだ。ファイルを覗いて結論は出たんだろ」


 飯を食うときの質問じゃない。だが、一連の会話でそんな疑問がハロルドに湧いてしまったのだ。

 チキンの骨をバスケットに戻し、また別のチキンへと手を伸ばしながら、ディックはぶっきらぼうにこう答える。


「生まれながらの、悪魔だよ」


「そんな美味そうにチキンを食う悪魔がいるか」


 もぐもぐとだらしなく頬一杯に肉を詰め込んで口ひげを上下に動かすディックの姿に、ハロルドは思わず頬を緩めた。

 彼に隠された様々な秘密と触れる度に、ハロルドはディック・エマードという男が如何に人間臭く、感情深いか嫌と言うほど知らされてきた。

 不器用で無愛想で、どうしようもなく冷酷な面を備えながら、常に屈辱感や罪悪感に耐え、必死に生きている。唯一愛した女との娘の命を守りたい、なんて人間的なヤツだと、目を細める。

 誰かに打ち明けるにはとても大きすぎた秘密を、彼は一人で抱えてきた。その結果、信頼を失い、誤解を生む。

 彼にとって、他人からの評価などたいした弊害ではなかったのかも知れない。それより、リーという男の策略によってすべてがねじまげられていくのに耐えきれなかったのだろう。誰かに助けを求める術を持っていれば、もしかしたら防げたかも知れない。エスターのことも、ジュンヤのことも。

 義父ラムザのファイルを覗き、何かを感じ取り、悟ったような素振りをするディックの姿は、端から見て痛々しい。今まさに最大の危機を迎えているというのに、のんきに肉を丸かじりしている場合じゃないはずだ。

 くっちゃくっちゃとピザを口に詰め込んでいたハロルドの、尻ポケットがブルッと震えた。携帯端末に着信があったのだ。食いかけのピザ片手に端末を取り出して、画面を確認する。アンリからだ。


「回線が繋がった。マザーが、お前に話があるって」


 ディックの目の色が変わる。こうしちゃいられないとばかりに、残っていたピザの切れ端を味わう暇なくガツガツ口に放り込んで、炭酸の抜けかけたジンジャーエールでぐいぐいと喉に流し込む。ハロルドもつられたようにスピードを速め、必死に食べ進めた。ぺろっとすっかり食べ終えた後、ディックは口ひげにくっついたとろとろのチーズやトマトの汁をハンカチで豪快に拭き取った。


「戻るぞ」


「え、ちょっ、待てよ」


 疲れたときこそゆっくり食事を――そんなハロルドの思惑は、あっけなく一蹴された。





 中央監視ドームに戻るとすぐに、アンリが手招きした。ディックとハロルドは内部監視室にあるトリストの元へ急ぐ。

 辛うじて繋がったというのが正当だったかも知れない。まだ端末自体はボロボロのままで、まともに動いているのは、高い天井からぶら下がった継ぎ接ぎだらけの太いケーブルと、そこに繋がった端子付きヘルメット、トリスト前面から切り離された操作パネルくらいだったのだから。

 床一面に散らばったままの機械の欠片を避けながら、やっとアンリの側に辿り着く。


「俺じゃダメだって。彼女は博士と話がしたいらしい」


 ツンツン頭を左右に揺らしながら、アンリはヘルメットをディックに突きつけた。大急ぎで作業したのだろう、袖を肘までまくり、似合わぬ汗をぐっしょりかいて、肩に掛けたタオルで何度も顔を拭っている。その場にいる数人の技師たちも、アンリと同じように目の下に隈が出来ていた。


「今度は大丈夫なんだろうな」


 ハロルドが念を押すと、


「さっきはファイルデータを受け容れたからああなったまでだ。それがなけりゃ問題はない」


 ディックは不敵に笑った。

 その場にいた全ての者が見守る中、彼は用意されていた椅子に座り、渋々ヘルメットを受け取って、頭に被る。アンリがスイッチを入れると同時に、またあの吸い込まれるような感覚が襲った。身体と感覚が完全に切り離され、マザーの中に入っていくのだ。

 意識が切り離される直前までは身体の感覚が少し残っているため、食事直後の胃に堪えた。吐き気に襲われ、戻しそうになるのをぐっと抑える。やがて全ての感覚が消えると、彼の意識は、真っ暗闇に浮かぶ一人の女性と再会した。

 髪の長い、白い女のシルエット。マザーだ。


『D-13、あなたとEに残された時間は非常に少ない』


 エレノアの声で彼女が最初に伝えたのは、悲しい現実だった。

 ディックは少しためらい、ゆっくり瞬きをして気持ちを落ち着かせてから聞き返した。


『少ないというと、どれくらいだ』


『恐らく十日ほど。Eに私をダウンロードさせるために必要な脳外科手術が先ほど終了した。あとは、彼女の身体の回復を待ち、私を受け容れる準備が出来たかのチェックが行われる。Eはあなたの遺伝子を受け継ぎ、驚異的な回復力を備えているため、実際はもっと短い可能性もある』


『……かなり、少ないんだな』


 突きつけられた現実に、押し潰されそうになるのをぐっと堪える。

 全ての感覚と切り離されているはずだのに、真っ白な人型の中にエスターの姿を浮かべると、胸がぎゅっと縮こまっていく気がしていた。目頭を押さえ、言葉を詰まらせてしまう。

 しかしそんなディックの気持ちを汲むこともなく、マザーは淡々と話し続けた。


『あなたがここにもう一度来たということは、ラムザ・ノートを見た上で、私の願いを聞き入れる覚悟が出来たものだと理解する。ティン・リーの目的は、先に述べたように、私とEの一体化である。しかし私はそのプログラムの全貌を把握していない。彼がどの程度の情報をEの中に落とし込もうとしているのか、私と一体化させることでどんな利点があるのか、見極める能力もない』


『世界中の全てのコンピューターと繋がってるんじゃなかったのか』


『否。彼は、私からのアクセスを拒む独自のブロック機能を持っている。そのため、プログラムである私は、彼の行動を完全に把握することが出来ない』


『じゃあ、世界中のコンピューターを狂わせようとしているってのは』


『彼自身が私に対しそう発言した。“Eとの融合により、絶対的な存在となり、全てを完全に支配するのだ”とも』


 まさかヤツは、思って言葉を飲み込んだが、ディックの心は全てマザーに筒抜けだった。言わずにいた台詞が、エレノアの声で紡がれる。


『そう、彼は“神”を造ろうとしている。この世界の全てを支配するために、ドームに人類を閉じ込めた。Eとの同化が完了すれば、更に過酷な未来が待ち受けることになる』


『あなたがエスターとの同化を拒む術はないのか』


『ない』


『なぜ言い切れる』


『彼が実行しようとしているプログラムの内容を事前に把握できれば、駆除プログラムを構築しブロックすることも可能だろう。しかし、多くのコンピューターウイルスがそうであるように、相手はあらかじめ攻撃の前にプログラムの内容を告知しない。攻撃を受けた上で排除するプログラムを内部構築していくしか、術はないのだ』


 ――彼女は、人間ではない。わかっていても、目の前にいる人型の流暢な音声に、そんな単純なことさえ忘れてしまう。

 彼女はあくまでもプログラム。誰かが意図して喋らせているわけでも、管理しているわけでもない。人格だと人間に錯覚させてしまうほどのAIなのだ。所詮、機械は人間に勝てないということなのか。回線の繋がらないティン・リーの頭の中にまでは侵入できないし、彼の行動を阻止することも出来ない。受動的で、直線的な動きや思考能力しか持ち合わせていないのかも知れない。

 何を期待していたのか。進展など、するはずもないのに。

 虚しくなっていく。心の隙間は埋まるどころかどんどんと広がるばかりだ。為す術がなく愕然とする。

 とにかく、物理的にダウンロードを阻止するしか方法がない。

 そのために、今から出来ることを何でもいい、実行していくしかない。


『マザー、あなたはどうしたい。人間の身体に移りたいのか。それとも』


『私はプログラムでしかない。私には人格などない。希望や願いを持つのは、人間だけだ』


 言って彼女は微笑んだ、ようにディックには思えた。

 もし、彼女がエスターの中に入り込んだら。やはり人間的に見えて、そうでない存在になってしまうのだろう。無邪気に笑うことも、苦しそうに泣くことも、優しく抱き返すことも思い悩むことも――全てを失ってしまう。

 エレノアの消えてしまった笑顔の代わりに必死に守ってきたものが、今まさになくなろうとしている。

 守りたい、守らなくてはならない。


『エスターとの同化を全力で阻止したい。力を貸して欲しい』


 表情の見えない真っ白な人型に向かって、ディックは力強く、訴えかけた。

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