65・それぞれの思惑
マザーへのアクセスを終え、ゆっくり目を開けると、ぐにゃっと頬を緩ませて息をつくハロルドの声が一番に聞こえた。
「やったな、ディック。今回は上手くいったな」
「だから何度も言ったじゃないか。普通はこうなんだよって」
その後ろからアンリの声も。
現実世界に戻り、手の感触、足の感触を確かめて、ゆっくりとヘルメットを外した。そこから伸びた絡まりそうなケーブルを、技師たちがそっと持ち上げる。
「お帰り」
「お疲れさん、ちょっと休んで」
口々から自然とこぼれるねぎらいの言葉に、ディックは軽く頭を動かして応えた。
ケーブルの繋がったヘルメットを持ち上げると、
「あ、そのままで。こっちで運ぶから」
彼らのうちの一人が、ケーブルごと椅子の上を通って部屋の隅に運んでいった。
狭い監視室に、相も変わらず男共が何人も籠もって作業をしていた。指示を出す声、金属の擦れる音、調整機器の雑音。そのどれもが、ディックの耳を激しく刺激する。
「水、くれ」
咳払いして喉を擦っていると、すかさずハロルドがボトルを渡した。ディックは渡された水をグビグビと喉に流し込み、椅子の上で大きく息を吐く。シャツの内側に、汗をぐっしょりかいてしまっていた。べったりと張り付いて気持ちが悪いのを何とか回避しようと、襟元をぱたつかせる。とにかく全身汗だらけでぐったりだ。
アンリは普段から、マザーへのアクセスを涼しい顔でこなしているようだが、やはり日常とは違う脳の使い方をするだけあって、身体がついて行かない。もう自分は若くないのだと、今更のように思い知らされる。彼は、空になったボトルを床に置いて、筋肉を解そうと何度も肩に手をやった。
接続終了の画面確認後、操作パネルをそっと作業台に戻していたアンリと目が合う。意味ありげに口角をつり上げ、彼はさりげなく、ディックにタオルを投げた。
「で、マザーはなんて?」
「ああ。協力してもいいと、言われたよ」
四角い眼鏡の奥で眼を細め、にっと笑うアンリの顔は憎たらしかったが、噴き出す汗の処理に困っていた彼にとって、タオルは妙にありがたかった。早速広げて顔中を拭う。手の届くところをせっせと拭きながら、ディックは話を続けた。
「お前経由で必要なデータを寄越してもらうことにしてある。詳しいことは全部彼女に話した。お前はそれを的確に各所に伝達する。トリストの本体はぶっ壊れてても、今みたいにアクセスし続けることは可能なんだろう。しかも、彼女に聞いた話じゃ、お前は相当手慣れてる。アクセスしながらデータ転送の指示なんかも、やろうと思えば出来るそうじゃないか」
「まあね。そこまで聞いたんだ。参ったな」
椅子に腰掛けたままシャツの内側にタオルを突っ込むディックを見下ろし、アンリは苦笑いしていた。面倒なことを押しつけられたと、髪の毛を何度もかきむしる。
「アクセスしながらって言っても、出来ることは限られてる。意識が半分別のとこにいるわけだから、あんまり期待はしない方がいいよ」
「そこまで期待はしてない。とにかく、最低限やれることだけやれば、文句は言わん」
ズバッと、傷つくようなことを軽々しく言う。アンリも最初はムッとしたようだが、彼は決して間違ったことを喋ったわけでもない、その通りだと終いには相づちを打った。
「あー、どうだ。頭が落ち着いたら、ちょっと話し合わないか。誰がどの配置でどう動くのか。はっきり言って、ディック、お前の頭の中だけで事態が整理できてても、俺たち凡人の頭じゃ何にも理解できない。順立てて説明してもらわないと、何が何だかさっぱりわからない。時間、取れないか」
隣でじっと二人の会話を聞いていたハロルドが、とうとう我慢できなくなって主張し始めた。
彼の言うのも一理ある。何も知らない一般人からしたら、理解しがたいことが確かに次々と起きているのだ。爆破の原因もESの飛空挺が来た理由も、――自分たちが何に巻き込まれているのかさえわからない。こんな状況で協力を仰ぐというのがどれだけ無謀か。
しかし、ディックはそんなハロルドの提案を一蹴した。
「話し合いなんて、してる時間はない。動けるヤツからどんどん動かなきゃ意味がない。……そうだ、メイシィはどうしてる」
突然の話題転換に、ハロルドは顔を曇らせる。
「操縦室付きのリザ・タナーが付き添ってる。ただ、あんな現場を目の前にして、精神的ショックが大きいらしく、ドームの心療内科医からカウンセリングを受けてるとこだ。心配することはない。それより、俺はエスターのことが心配だがな。何度も言ってるが、何でお前はエスターの話になるとしらばっくれるんだ。可愛い娘がこれからどうなるか考えたら、普通、そんなに落ち着いていられんと思うがね」
「普通じゃないんだよ、俺は」
「そりゃそうだけど」
「確か、若い連中が武器の調達に行ってたな。そっちは順調か」
「ああ、順調だよ。ドーム中から武器を掻き集めるように指示は出しておいた」
この期に及んで全くエスターのことに触れないディックに、ハロルドは呆れて、大きく肩を落とした。
ハロルドにとっては、他の大勢の大人たちよりも、あのか弱いエスターがどうなっているのか気が気でなかったのだ。泣き出しそうな深い青色の瞳、噛みしめた唇、誰かが支えてやらなければ折れてしまいそうな細い肩。ごく普通の少女だというのに、背負わされた運命が重すぎる。あまりにも気の毒で仕方がない、助けてやりたいと、赤の他人ですら思うというのに、この父親は。
「ハルには悪いけど、僕も博士の意見に賛成だな」
二人の会話が詰まったところで、アンリが口を挟んだ。
涼しい顔で反対意見を言われ、ハロルドはムッと顔をしかめた。
「いちいち集まるだなんて、悠長なことしてる場合じゃない。一刻を争うんだろ。だったら、前に進んだ方がいいに決まってる。トリストだけど、三十分もしたら、機械の方は再起動できる。それまでの間に、各部門に直接指示できるようなネットワークの構築を済ませておくよ。――あ、それから、博士。あなたも携帯端末機ぐらい、持ってよね。全然連絡取れなくて困るのはこっちなんだ。そっちから指示出すにも、あった方が都合がいいだろ」
アンリはポケットから、新品の携帯端末をディックに差し出した。普段から端末を持ちたがらないディックがドーム爆破事件に巻き込まれたことで、ES側からもドーム側からも苦情が出ていたのを知っていて、無理矢理渡すもの。
「こんなもの、ない方が自由に動き回れて楽なんだが」
渋々受け取った手のひらサイズの端末、画面に持ち主の名前としてディック・エマードの表記がある。何でもう名前がと小さく呟いて、「パスワードは」と尋ねるが、
「初期設定はいじらないでよね。それ、ドーム内のセキュリティエリアに入るときのパスにもなってるからさ」
とアンリはしらばっくれた。
「当事者って認識が薄すぎるんだよ、お前は。誰のためにみんなが必死に動き回ってると思ってるんだ」
また、ハロルドが息を荒げる。苛々がおさまらず、さっきから左足の貧乏揺すりが狭い室内でテンポ良く響き続けていた。
偽善者過ぎる発言に、ディックは思わず鼻で笑う。汗を拭きながら上目遣いに冷たい視線を浴びせたのが、ハロルドの怒りを買った。座っていた椅子からディックを引きはがすように胸ぐらを掴み、自分より大きな身体を無理矢理持ち上げようとする。いつもは眼鏡の下に隠れている深い青色の瞳が、ハロルドの眼前に迫った。
「少しは心配したらどうだ」
ドスを効かせて言ったつもりが、全く通用しない。
ディックはにやっと目を細め、口角を鋭くした。
「心配して、それで何になる。何かが変わるのか」
「それは、本気で言ってるのか」
ハロルドも負けじと眉間にシワ寄せて、更に力を入れ胸ぐらを引っ張った。握りしめた拳が、ふるふると震えているのがディックの視界に入っていた。
「誰のため? さあ。この世界をぶち壊したい、政府の圧力から逃れたいと思っているお前らと、ティン・リーをぶっ殺して復讐を果たしたいと思っている俺の利益が合致しているだけのこと。誰もがお前のように、崇高な目的のために動いているわけじゃない。俺は、俺が目障りだと思うあの男を消すことだけを考えてる。それが世界を変えることと繋がっているのだとしたら、それでいいんじゃないのか。敵だとか味方だとか、政府だとか反政府だとか、そんなのは正直どうだっていいはずだ。正義のヒーローになりたいなら、勝手になればいいさ。俺は目的を達したら、こんなくだらない組織とは縁を切るつもりだからな」
それは、ハロルドにとって思ってもみないセリフだった。
“くだらない組織”――ずっと協力してくれていたのは何だったのか。シロウが死んだ後、必死に組織を引っ張っているように見えたのは、勘違いだったのか。
雨の降りしきるあの庭で、泣き叫び銃弾を放ったのを目撃してからというもの、ハロルドはディックに対し、様々な思いを募らせてきた。
彼の抱え込んでいる苦しみを少しでも解き放てたらと、話を聞いたこともあったし、何らかの手助けになればと、アンリを紹介したりもした。誰かのために生きるということそのものがハロルドの心情で、どんなに辛く悲しいことが起きても、それだけを支えに必死に生きてきたつもりだった。それを『くだらない』と一蹴されるのは、心外だ。
ディックの座っていた椅子が、大きな音を立てて横に倒れた。
同時に鈍い音がして、ディックの頬に硬い拳が当たる。
大きく肩で息をするハロルドに、監視室にいた誰もが目を見張った。しばらくの沈黙。
「――ガキと一緒だな」
ますますハロルドを逆撫でするようなディックの言葉に、側で立ち尽くしていたアンリが慌てて割り込んだ。
「まあまあ、二人とも落ち着いてよ」
「俺は落ち着いてる」
痛みなど感じていないのか、頬を撫でることもなく立ち上がって襟元をただすディックは、くだらんと吐き捨てた。乱れた髪の毛を手櫛で整え、
「アンリ、それじゃ頼むぞ」
何事もなかったかのように一人、監視室を後にした。
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