49・元凶

 ありえない。もう何度も、この言葉がエマードの頭を巡っていた。

 まだ三十手前の男が、何故二十年以上も前の実験に関わっていたのか、どうしたら説明できよう。

 実際問題、人間が年も取らず生き続けるということは、医学的にも科学的にも不可能なはずだ。正体がわかっても、何一つ納得できることなどなかった。言いようのない不安が、否応なしに彼の胸中に渦巻いた。何よりも、そんな恐ろしい男の元に無防備なエレノアを預けてしまったのだと思うと居ても立ってもいられなかった。

 彼女を救わなければ。

 恐らくリーは、D-13の特殊な遺伝子を受け継いだと思われる胎児に、異常な興味を示したに違いないのだ。別の遺伝子と掛け合わされることで、どのような変化を引き起こすのかも確認したいはずだ。

 となれば、彼女は子供を産むまで解放されることはない。また、産んだところで解放される余地もない。彼女が妊娠してしまった時点で、彼女の運命は閉ざされてしまった。いや、妊娠以前に、エマードと引き合わされた時点で全てが終わってしまっていたのだ。

 初めて手に入れた安息の日々は、エマードの想像以上に短かった。


 **


 リーが部屋を訪れた日からしばらく、彼は塞ぎ込んだ。

 存在を呪い、自傷行為を始める。ナイフで腕や足を何度も傷つけ、その傷口が塞ぐのを阻止しようと劇薬を塗り込んだ。組み合わせの悪い大量の薬品を飲み込んで、自ら命を絶つ方法を探ったりもした。

 しかし、それらは全て無駄であった。

 幾らか時間が経てば、彼の身体は何事もなかったかのように回復してしまう。痛みや苦しみはあっても、彼の肉体は死を拒み続けた。どうすれば心が晴れるのか、どうすれば彼女への贖罪が叶うのか、考えても考えても答えなど見つからなかった。


 **


 そうして一ヶ月ほど経った頃、ようやく精神的に持ち直したエマードは、しばらくぶりに彼女と出会う。病院の一際大きな個室で彼女は、彼を待っていた。柔らかな金髪に煌めくエメラルドグリーンの瞳。変わらぬ優しい笑顔と、大きく膨らんだ腹部。


「あなたが姿を見せない間に、随分とお腹の赤ちゃんも大きくなったのよ」


 様々な機器に囲まれたベッドの上に、彼女は横たわっていた。柔らかい手でエマードの右手を引き、そっと自分のお腹に置く。手のひらから胎動が伝わるのを、彼に感じて欲しかったのだろう。

 胎児の心音と心拍数を計る機械、母体の血圧と脈拍数を計るための機器、点滴の管。エマードにわかるのはそれだけで、他にも用途のわからない機器が、彼女の周囲で様々な音を出していた。たくさんの管やケーブル、大小様々なモニターや計測器は、己の過去の姿と重なる。

 Project.Tと呼ばれた実験で生み出された実験体の一つなのだと、彼は彼女に告げなければならなかった。それが一体何のための実験で、何故自己修復機能などという不可思議な能力を身につけさせられたのか、未だ自身も知らないのだということも。

 どのタイミングで話せば良かったのだろうと、どうにもならなくなってから考えるのは愚かしいとわかっていた。まさか人並みに愛という感情に芽生え溺れていくのだと知らず、リーの罠に上手い具合にかかってしまった、その言い訳にしかならないことも理解していた。

 今にも泣き出しそうに瞳を潤ませるエマード。

 何かがあると察したエレノアは、重い身体をそっと起こして手を伸べた。ベッドの隣、丸椅子に腰掛けた彼の頬に指が触れる。



「本当のことを、言いたいと思う」



 エレノアは静かに微笑み、苦しそうに語り出すエマードの顔をじっと見つめていた。

 彼女はどこかで、彼の秘密を予感していたのかも知れない。

 実験のこと、自分の過去のこと、身体のこと、全て話し終えても眉一つ動かさなかった。


「前にも言ったけど、どんな秘密を持っていたとしても、私はあなたを愛し続けたいと思ってる。あなたはあなたでしかない。私はあなたとの子供が出来たことを感謝しているし、とても喜んでるわ。だからこうして、ドクター・リーから協力を」


「――違う、君は何も理解しちゃいない。俺は結果的に君を傷つけた。後戻りできないところまで追い詰めた。君の身体も、お腹の子供も、最後にどうなってしまうのか俺にもわからない。君は全てを信頼しすぎている」


 必死な訴えが伝わらない、歯がゆさ。

 エマードはまた、苦しそうに頭を抑える。

 話したところで万事解決するようなら、話さなくても良かったのではないかという考えすら頭を過ぎった。それでも、隠し事をしたまま彼女が巻き込まれていくのを見ているのも辛い。板挟み状態から抜け出したかったのだ。

 だのに彼女は彼の気持ちを知ってか知らずか、重い彼の頭を両手でぐいと持ち上げる。そしてゆっくり自分の顔に近づけ、にっこり微笑んだ。



「悲観的な考えは何も産まないわ。前を見ましょう、必ずどこかに出口はある。私もこの子も、あなたと一緒に幸せに暮らせるって、信じないでどうするの」



 強い、女性だった。

 彼女の身体を管理しているリーが、まさか全ての元凶だなどと、とても言うことは出来なかった。

 リーは彼女の性格も考え方も全て把握した上で、エマードに引き合わせたに違いない。最初から堕胎など出来ぬ構図になっていたのだ。

 また来るよと別れのキスをして病室を出ると、廊下で壁にもたれた白衣姿のリーが待っていた。


「久しぶりの面会は楽しんだかな」


 冷たく笑う彼の横顔に、エマードは背筋を凍らせた。


「全部話したようだね。それで彼女がどうにかなるとでも思ったのか、愚かしい。君はつくづく思い通りの行動をしてくれる。これから彼女が無事に子供を産んだとして、君らはどうなると思う。普通の幸せなんて、ない。わかってるんだろ。……そうだ、一ついいことを教えよう。君の子供、性別は女だ。通常妊娠より三ヶ月早く生まれてくる。安心しろ、今のところ外見には何の問題もない。見た目に魔物めいたものは出てこないっていうことだ」


 リーはそう言って、意味深に含み笑いする。


「NCCでも、配属先のラボでも、人の命を無下に扱ってきたディック・エマードともあろう男が、自分の大切な女とその子供には手を下せない。皮肉だな。いつから君はそんなくだらない存在に成り下がったんだ」


 エレノアとの優しい時間から引き戻されたエマードは、怒り心頭にリーの胸ぐらをぐいと掴んだ。引き寄せられたリーの細い身体が、少しだけ宙に浮く。



「どこまで、どこまで仕組んでる」



 低いエマードの声が、二人だけの廊下に響いた。


「お前はどこまで知っていて、どこまで俺を苦しめようとするんだ。本当の目的は何だ。Projectを通じて、お前は研究員たちに何をさせていたんだ」


 ククッと喉を鳴らし、リーはエマードの手を振り払う。靴底が床に付き、カツンと音がした。



「そんなことを、実験体だった君に教える必要はない。私はただ、ラムザ・エマードによって君を失った時間を取り戻したいだけさ。彼があんな行動をしなければ、そもそもこういうことにはならなかった。――恨むなら、君の義父を恨み給え。同情によって自由を失った、あの哀れな男に」



 握りしめたエマードの左手が、小刻みに震えた。

 殴り倒して済むなら、全ての骨を砕くまで殴り尽くしたいとさえ思っていた。

 何もかも、リーの思い通りに動いている。

 彼が本当に全ての指揮権を持つ男なのだとしたら、それこそ、この世界は終わりだ。

 どうにかして状況を打破しなければならない。彼女が子供を産むまで、残された時間は限られているのだから。

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