虚空の惑星
天崎 剣
Episode 01 政府ビル
1・逃亡
真紅の回旋灯と警報音が、夜の静寂を裂いた。広い通路に、慌しく駆け回る警備員らの足音が響き渡る。
ほんの少し前まで眠たげに目を擦りながら、「今日もなにごともなく一日が終わるな」と警備員室で談笑していたのだ。世界最高水準のセキュリティを備えているこの巨大ビルでは、事件など起こり様がない──、過信があったのかも知れない。監視カメラと警備用ロボットがくまなく巡回し、不審者を撃退する。人間はあくまで補助、万が一の要員に過ぎないはず、だった。
今夜は警備システムそのものにエラーが発生し、全く役に立たない。
電気経路も全て破壊され、非常用電源が動き出している。
何者かが、悪意を持ってシステムに侵入した。電気室の配電設備で見つかった妙な仕掛けは、タイマーで電源をショートさせる簡単なものだった。ちょっとした知識があれば、誰にだって作れるものをわざと選らんで仕掛けたような違和感があると、誰かが言った。監視カメラに映ることなく、こんなことをやり遂げるとは、警備システムにかなり詳しい人間の犯行なのは明らかだ。
狙われたのは、地下十階にある研究室。政府の最重要機密プロジェクトを推し進める、秘密の場所。その存在を知っていても、簡単に立ち入ることの出来ないエリアなのだ。こうなると、嫌でも生身の人間が駆けつける他ない。
闇の中に、男たちの足音だけがこだまする。警報は止まず、警備員たちの焦りを更にかき立てる。冷や汗が、手に滲んでいた。
地下十階まで続く螺旋状の非常階段は、まるで地獄へ彼らを吸い込んで行くかのような、怪しい空気に包まれていた。不安を振り払おうと、必死に駆けていく男たちの眼光は、獣のように鋭かった。
*
計器ランプが闇に浮かび、電飾となって、静かに研究室を照らす。おびただしく並んだ試験管に小さな光が反射して、闇の色と混ざって不気味な色を醸し出した。静まりかえった室内に水の撥ねる音が広がると、光は一瞬、驚いたように色を滲ませる。
床一面には、緑色に濁った生温かい液体が広がっていた。その蒸気が機械の起動熱と混ざりあうと、人間の胎内にいるような、体液に近い臭いが立ち込めてくる。ただそこにいるだけで気分を害しかねない、不快な臭いだ。
霞むほどに湿った研究室の中央には、そそり立つ、大きな水槽があった。高さ二メートル、直径一メートルほどの円柱の下部には、人為的に作られた、大きな穴。液体は、ここから漏れ、飛び散ったガラス片とま混ざって、行き場を求めてあちこちへと広がっていたのだ。
液体溜まりから抜け出すように、部屋の隅へ、一本の足跡が伸びていた。
実験器具の並んだ棚の陰で、一人の男が、小さな少女を小脇に抱え、息を潜めてうずくまっている。
彼女の、長く美しい金髪は、闇に映えた。男は無造作に、全裸の彼女を厚手の毛布で包んでいたが、吸水率の悪い生地が仇となったのだろう、いつまでも濡れた身体は乾かない。恐怖と寒さで震えた彼女を、男はばつが悪そうに抱きしめ、
「大丈夫だ、俺が救ってやる」
と、無精髭の生えた顔を、彼女の頬に寄せた。
*
闇に沈んだ研究室に、無数の足音が近付いてくる。
停電したビルの中は、まるで複雑な迷路のようにいつもより歪んで見えたのか、保安灯だけではあまりに頼りなかったのか、その足音はどこか迷いを含んでいた。警備員たちの焦りと不安は、先頭の一人が手にした懐中電灯のふらつく軌跡にも表れている。右に左、上に下にと光が交錯する。
地下深く、袋小路の先に作られたこの実験施設は、警備員を含め、一部の人間にしか知らされていない、秘密の場所。そこで事件が起こったとなれば、最悪の事態として受け止めていいに違いない。
研究室の前で、彼らは互いにうなずきあった。大きく深呼吸、息を正して一斉に銃を構え、ドアの向こうの様子を窺う。
水の流れる音、一同、息を呑む。
懐中電灯を持った一人が合図し、ドアを勢いよく蹴り破る。
「誰かいるのか、返事をしろ!」
しかし、反応がない。
男たちは慎重に、濡れた足場を進んだ。ねっとりとまとわり付く緑の液体が、彼らの足取りを更に重くする。むっとして生臭い空気を払いのけるように、左手でおのおの鼻を塞ぐ。
実験台の奥、ふと照らされた部屋の隅で、微かに動く何かを見つけ、
「誰だ、そこにいるのは!」
怒鳴り声が響き渡ると、観念したように、うずくまっていた影が、のっそりと立ち上がった。小さな影がもう一つある。
「私だ……」
低い男の声に、警備員たちはぎょっとした。が、すぐに誰かわかると、緊張の糸を緩ませた。
「エマード博士」
この研究室の責任者、着古した白衣に口髭を蓄えた、四十過ぎの大男だ。
彼らは安堵の溜め息を漏らして、互いに目を合わせると、構えている銃を降ろした。
警備隊長らしい男がおもむろに、エマードに近付こうと、一歩前に出る。
「ご無事でしたか。一体ここで何が」
話しかけるも束の間、
「来るな! 近付くな!」
エマードが大声をあげた。
空気が凍り、電磁波が押し寄せたように警備員たちの背中は、びりびりと震えあがった。そして次の瞬間、男たちが見たのは、自分たちに銃口を向けるエマードと、彼の腰にしがみついた裸の少女の姿だった。
エマードはその鋭く切れた目で、じっと男たちを見据えた。色さえわからない真っ暗闇の中でも、彼の深い青色の瞳は、鈍く光っている。右手に銃を構えたまま、左手で着ている白衣のポケットをまさぐった。
「ひぃ、ふぅ、みぃ、……。なるほど、思った通りだ」
ポケットから顔を出したのは、カードサイズの小型リモコン。目で位置を確認することもなく、慣れた手つきで次々とボタンを押し始めた。表情が見る見る冷たくなっていく。
「案外簡単だったな。ここで事件を起こせば、警備員が全員来るだろうと思ったんだ。これでお前らに逃げ場はない」
男たちが、しまったと思ったときには、もう遅かった。蹴り破ったドアの跡に、重厚なシャッターが轟音をたてて降りてきたのだ。
「この扉だけは別電源。忘れたのか。システムに異常が起きたとしても、絶対にここだけは守らなきゃいけないらしいからな。政府の秘密、規律、この私の存在意義。くそ食らえだ」
吐き捨てたエマードの言葉に、男たちは動揺した。それでも抵抗するように、握り締めていた拳銃をそれぞれエマードに向けて構えだす。
「一体、何故こんなことを」
警備隊長は、恐怖で震える身体を必死に抑えながら、エマードに尋ねた。
「私が誰なのか、よく知っているはずだ。だが、どんな人間かまでは、知られていなかったようだな」
ほくそえむエマード。
「エマード博士……、あなたは狂っている」
「狂う……、果たしてそうかな。本当に狂っているのは、お前等ではないのか。……狂人に狂うの意味を訊いても、答えを得ることはできんか」
エマード右手の人差し指が、銃の引き金に触れた。それは、警備員なら誰もが目にしたことのある、彼の愛用のデザートイーグル。最高レベルの破壊力を持ったその銃口が、今まさに向けられている。政府の一科学者としては、異例の命中率を誇る彼の腕前は、警備員の中でも話題だった。彼に銃を教わった者だっているくらいだ。
退路も絶たれたこの状況で、逃げる、あるいは生き延びることは、不可能に近い。
「The Endだ。死ね」
エマードの口が、少し笑った。
*
夜が明け、騒ぎが明るみに出る。
地下十階研究室の研究員の一人、ケネス・クレパスが朝出勤してくると、ビルの中は既に騒ぎでごった返していた。システムダウンした警備システム、随所の停電もそのまま。今まで想定したことのなかった事態に、ビル全体が揺れているようにさえ思えた。
「警備員がいない」
「システムにハッキングして、故意に停電させた跡がある」
復旧作業のざわめきの中、口々から出る情報を耳に入れつつ、彼は懐中電灯を持って、研究室へと駆けた。
もやもやと胸に浮かんでは消える不安をかき消すように、走り、走り、長い非常階段を下りていく。足元に、濡れた足跡が見えてきた。足跡は次第にはっきりとした形を持ち、繋がり、鮮明な緑の水溜りへと姿を変えていく。血の混じったそれは、階段を下りて長い地下通路になると、更に色を濃くし、研究室の入り口まで続いていた。
独特の生臭さを感じながら、ケネスは慎重に、半開きになったドアから、非常灯に照らされた薄暗い研究室を覗き込んだ。
懐中電灯で中を覗うと、部屋の中央にある水槽が破壊され、液体が全て流れ出てしまっているのが見えた。実験体がない。視界を奪われ、大きく乗り出したケネスの右足が何かに引っかかった。
「──アッ!」
思わず奇声が上がる。
人だ。顔のない人の死体が転がっている。
足元全体に、体の組織らしいものが小さな塊になって飛び散り、緑と赤のまだらを作り上げていたのだ。壁、床、実験台、実験器具、棚……、ありとあらゆるものに小さな赤が飛散していた。
途端に吐き気がし、ケネスは懐中電灯を放り出して自分の胸倉を掴み、嗚咽した。何が起きたのか──、すぐには理解できない。しかし、死体の身に付けていた服装からして、
「け、警備員が殺されてるのか……!」
もはや誰が誰であるのか、見た目では判別できない。
「一体誰が、こんなことを」
投げ出した懐中電灯の光が何かを照らし、金色に光らせた。すくんだ足を叩き、無理やり立ち上がってそれを拾う。
「44マグナムの薬莢……。ま、まさか」
見覚えのあるそれに、ケネスは全身を震わせた。生温い床に尻を着いてへたりこみ、呆然と天井を仰ぎ見る。それは、この地下研究室の責任者、デザートイーグル所持者である、研究員ディック・エマードの犯行であることを示唆していたのだ。
*
後日、辛うじて残っていた研究室の防犯カメラ記録から、システムダウン直前に、エマードが研究室の水槽を金属棒で破壊していたことが判明した。
さらに、彼の足跡と思われるものが緑の液体を靴底につけたまま、地下通路を通って地上へ向かっていたこと、薬莢が彼のものだと断定されるべき証拠が見つかったことなどから、ビルとそれを管理する政府は、エマードを全世界に指名手配した。
地球暦四九二年のことである。
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