60・立ち向かえ
身体がギシギシする。全身の力という力が、全て抜けきってしまっていた。
冷たい床の上に転げた身体に、少しずつ感覚が戻ってくる。
右手を開き、閉じ、神経が通っているのを確認しているうちに、全身が痛み始めた。
うっすらと目を開けると、壊れた機械や投げ出されたコード、ケーブル、ショートした臭い。トリストの後ろ半分がめちゃくちゃに砕かれている。咄嗟に、自分がやったのだと理解し、ディックはギリリと歯を鳴らした。
のっそりと立ち上がり見回すと、被害状況が彼の視界に入ってくる。いくら暴走したからって、これはない。やり過ぎだといわざるを得ない。
足元に転がったヘルメットの残骸、トリスト後部から繋がったケーブルはあちこち千切れていた。背中にビシビシと痛みを感じるのは、力尽くでトリストを破壊し脱出しようとしたからなのだと、現場を見て納得する。
「目、覚ましたか」
ぐったり疲れ切った様子で、ハロルドが壁により掛かっていた。
よく見れば、壁面を囲っていたモニターにはエラーメッセージが並んでいる。政府の攻撃を免れた場所に致命的なダメージを、しかも内側から与えてしまったことに、流石のディックも深く反省する。右手でゴシゴシと、額の脂ぎった汗を拭った。ひん曲った眼鏡はレンズが欠け、役に立たない。両手で外し、目視で壊れたのを確認すると、がっかりしたようにため息をつき、あちこち破れかけた白衣のポケットに突っ込んだ。
「アンリは」
「ああ、すぐに戻ってくる。修理にどれくらいかかるかも含めて、仲間に話さなきゃとかなんとか」
「キースは」
「あいつは精神的ショックが大きくて。軽々しく過去を聞いてしまったことや、お前を侮辱したことについて詫びなければとか言って、頭を冷やしに行ったようだ。まぁ、若いからな」
ただ若いからというわけでもないだろうと、ディックは思ったが口に出さなかった。
キースもNO CODE、つまり欠陥品なのだ。見た目普通の人間と何ら変わらなくても、身体のどこかに異常部があったり、精神的に普通じゃないヤツもいる。表面に出なくても、今回の出来事が何かしらの深いダメージを与えたに違いない。
よろよろと覚束ない足取りで、ディックはハロルドの隣に歩み寄った。崩れるようにして壁に全身を委ねる。
「お前の義父が遺したとかいうファイルはどんなだった。収穫はあったか」
ずり落ち、座り込むディックを見下ろしながら、ハロルドはとりあえずとばかりに聞いてくる。
「まあ、この状態を見ればわかる通り。あり過ぎだ」
「そりゃ、よかった」
「あの男が、ティン・リーが死なない理由もはっきりした。俺が何のために生み出されたのかも。そして、エスターに何が起ころうとしているのかもな」
機械クズの飛び散った監視室を見渡しながら、ディックは悟ったようにそう話した。
どこか吹っ切れたような口調に、ハロルドは胸を撫で下ろす。
一時はどうなるかと思っていた――トリストでの暴れ方は異常ではなかったし、もしかしたら戻ってきても精神異常をきたして、まともに会話さえ出来ないのではないかと思っていたのだ。単なる危惧に終わっただけでも、救われる。
「で、エスターは無事なのか」
「恐らく、今のところは」
「今のところ?」
「ああ、今のところ、だな。リーのヤツ、エスターにマザー・コンピューターそのものをダウンロードさせようとしているらしい。そのためには、何らかの処置が必要なはずだ。今はその準備中なのかも知れない。マザーの人格はまだあの場に残っていたし、彼女は止めてくれと言った。リーの暴走を止めてくれと」
「ダウンロード……、そんなことが可能なのか。じゃあ、エスターはどうなる」
一瞬、ディックは息を止めた。そしてゆっくりと息を吐き、
「今回俺が体験したラムザ・ノートのダウンロードとは、恐らく規模が違う。もしマザーがダウンロードされるようなことになれば、それこそ完全に、エスターの人格は失われるだろうな」
遠くを見つめる彼の目は、どこか物悲しげだ。終いには両手で頭を抱え、そのまま小さく丸まってしまった。
泣くわけでも、嘆くわけでもない。
両手の甲の血管がピリピリと波打ち、無念さや虚無感を伝えてくる。
こんな状況でなぜ怒り狂わないのか、ハロルドには理解できなかった。ネガティブさに拍車がかかったわけではない、救いの要素があるわけでもないのに。ラムザの遺したファイルにそれほどの情報と価値があったということなのか。それとも、諦めに変わってしまったのか。
「今から何とかして、エスターを取り戻す方法を考えるしかないだろ。いっそのこと、思い切って政府ビルに突っ込むってのはどうだ」
おいしょと声を出してしゃがんだハロルドのセリフに、ディックは吹いた。
思いがけず笑い声を聞いてホッとする反面、真面目に聞いたんだがとハロルドは複雑そうに肩をすくめた。
「この状況じゃ、政府ビルはおろか、ネオ・ニューヨークシティにも入れない。まずはトリストの復旧が先決だな。マザー・コンピューターからの情報がないと下手に動けないんだ。優先的に復旧させよう」
「エスターが最優先じゃないのか」
あまりの冷静っぷりに、思わず本音が出る。しかし、ハロルドの真剣な声を聞いても、ディックの答えは変わらなかった。
「まずはトリストだ。何度も言うが、闇雲に攻めても意味がない。エスターがどうなっていようと、俺たちは手をこまねくしかない。第一、ここから最短でビルに辿り着く方法を探るにも、情報が足りなさすぎる」
じっと黙ってディックが言うのを聞いていたハロルドだったが、次第にその体たらくぶりに嫌気がさした。必死にもがきもがき生きてきたという割に、目の前の男は、真実とやらを垣間見てすっかり役立たずになってしまっていた。単に彼が技術や知識を持っていたからではなく、人を引っ張っていくような魅力を感じていたハロルドにとって、それは耐え難い状況、――我慢の、限界だった。
咄嗟に手が、ディックの胸ぐらを掴んでいた。体勢を崩し、寄りかかっていた壁からずり落ちた男に馬乗りになり、両手でぐいと身体を手前に引き寄せて頭突きを一発、
「ふざけるな。何のために俺たちが必死になってるのか、お前は本当にわかってるのか」
頭にじんじんと痛みが響いたが、ハロルドにとってそんなことは最早どうでもよかった。
「俺たちは、ただ単にお前のワガママに付き合ってきたわけじゃない。勿論、この世界を何とかしたいとも思ってる。でも同時に、お前とエスターのことも気にかけてるんだ。正直、お前らの過去は俺たちにとって空想世界の出来事みたいで現実味がない。実験体? 政府総統の罠? そんなのは正直、どうだっていいんだ。今、助けを求めてる、苦しんでる娘のために何が出来るか真剣に考えろ。前を向け、振り向くな。真実を知ることは大事だが、それ以上に、それを利用して前に進むことを、立ち向かうことを考えろ」
ためていた鬱憤を一気に吐き出した。これでもかというくらい思い切って、ハロルドは大声を出していた。
普段激しい物言いをしないハロルドが、まさかこんな行動に出るとは。
ディックは初めきょとんとしていたが、話を聞いているうちに何を思ったか口元を歪めだした。次第に目を細め、やがて腹を抱えて笑い出す。狭い内部監視室にやたらと声が響き、何重にもなって返ってくると、ハロルドはどんどんのぼせあがり、両手でディックを突き飛ばした。それでもディックは延々と笑い続けている。
「とうとう、イカレちまったか、バカヤロウ」
まだ、笑いはおさまらない。
ヒーヒーと肩で息し、床に転げる大男に、ハロルドは目も当てられないと立ち上がって頭を抱えた。
「やっぱり、脳味噌がヤられたんだな。アンリの野郎、とんでもないことを」
「いや、大丈夫、正常だ、正常」
笑い転げてすっきりしたのか、涙腺に浮かんだ涙を指で拭って、ディックはよっこらしょと身体を起こした。
「いやあ、笑った笑った」
ディックが声を出して笑うのなど、ハロルドは見たことはなかったが、改めて言われるとますます腹が立つものだ。
「前向きに、立ち向かう? 偶にはいいことを言うもんだ。――さて、頭の方には十分情報が供給されたが、肝心の身体の方は栄養不足だ。頭に全然血が回らない。腹ごしらえでもして、落ち着いてから作戦を練ろうじゃないか。腹が減ってはなんとやら、昔の人は良いことを言う」
にやりと、口角を上げるディックには、何か勝算があるのか。
一抹の不安を抱えたまま、彼らは荒れ果てた監視室を後にする。
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