59・第三段階へ
意識がマザーに溶け、五感と完全に切り離されたはずだのに、ディックの頭には割れるような激痛が襲っていた。
ラムザの警告通りに、凄まじい容量のデータが散弾銃のように撃ち込まれ、その全てを受け止めねばならないことに耐えきれなくなってきている。
データの流れには波があり、ほんの少しだけ勢いの緩んだところでフッと気を抜くと、全身汗だくで叫び、監視室の床でうずくまっている自分の身体へと意識が戻りそうになる。抜け殻になった身体が、処理限度を超えたデータを懸命に受け容れようとする脳を拒絶しているようだ。
装着されたデータ転送用ヘルメットを両手で鷲づかみにし、脱ぎ捨てようとコードを引っ張る感触がはっきりと感じられる。
『ディック、まだ終わってない。逃げるのか』
ラムザの声が全身に伝わり、意識をマザーに戻す。手足の感覚がなくなり、再び意識だけの世界へ連れ戻された。
**
「私は、何者なのだと思う」
リーの声が響く。また、若き日のラムザの記憶だ。
そこは総統の執務室か、大きなデスクにゆったりとした椅子、リーが片肘をついてこちらを見ている。
「おっしゃる意味がよく……」
「嘘だな」
東洋系の女顔はにやっと、いやらしく笑った。
「論文は読んだ。遺伝子レベルから寿命を考える、細胞の寿命と再生……だったかな。中でヒトクローンについても語っていた。クローン牛や豚、羊と同じように生み出された人間のクローンは、やはり生殖能力に欠ける。となれば、例えクローンを利用して細胞の長命化を図ったとしても、それを普通の人間に適用するのは難しいのではないか。そういう内容だった。私が君を呼んだのは、君の研究に興味があったからだ。私の求めるものに近いものを研究している君自身にも」
「どういうことです」
「ここまで言えば、いや、賢明な君は、もしかしたら最初から感づいていたかも知れない。私のこの身体は、クローン体なのだ。オリジナルはとうの昔に朽ちた。今は、研究の成果として生み出された身体に、記憶データをダウンロードさせているに過ぎない。私は私として生きながらえることが出来るようになったが――、残念ながら、この身体は脆すぎる。替わりが欲しい。わかるな」
ストレートの黒髪をサッとかき上げ、ティン・リーは目を細くした。
**
次に浮かんだのは、ネオ・ニューヨークシティの政府ビルにほど近い巨大なライブラリの画像。
目線の人物は、データディスクの並んだ棚を一つずつ、目視で検索している。ラベルを指で辿り、気になるタイトルがあれば取り出して携帯端末で読み込ませ、ロード後「違う」と呟き元に戻す、の繰り返し。不毛な作業を立ちっぱなしで進めている。
時に「検索端末、空いてますよ」と司書が話しかけても、「いや、結構」とぶっきらぼうな返事。取り憑かれたかのようにデータを漁りまくる。
「政府が作られた、そもそもの目的は何だ。それに結びつくような出来事は」
誰にも聞こえないように、ラムザは声を発していた。
焦りと不安めいた息づかいが伝わってくる。
求めているものが、そこにあるとは限らない。全て綺麗に消し去られたかも知れない。彼はそれでも、データを漁り続けた。そうして、数日後――、一枚の画像データを見つけ出す。データの作成日に間違いがなければ、それは、先史の。
*
ディックの身体が、また悲鳴を上げ始めた。叫び声が一段と強まり、両腕でヘルメットを被ったままの頭をもぎ取ろうとしている。
目の前の出来事に動転したキースは、慌ててヘルメットの安全具を外そうと、ディックに手を伸ばした。
「やめろ! 今そんなことをしたら、博士の中で意識が壊れる。マザーに浸っている状態でダウンロードを中止させるんなら、端末で元からデータの供給を止めないと」
アンリの手が、キースの視界を塞いだ。
チッと舌打ちし、キースはアンリを鋭く睨み付る。
「だったら早く、こんなことやめた方がいい。いくらNO CODEだからって、あまりに容赦しなさ過ぎだ」
ハロルドは慌てて二人の間に割って入り、力尽くで二人を引きはがした。
「お前らは今、そんなことをしてる場合じゃないだろ。本当に重要なのは、ディックの意志だ。途中でやめたら、後でもっと噛みつかれる。アンリの忠告を聞いて了解した上でアクセスしてるなら、最後までやらせるのが筋ってもんだろ。キース、お前は何か勘違いしてる。俺たちは別に、ディックをNO CODEだからと区別してるわけじゃない。やりたいようにさせてやれ。身体が限界を超えても、本人が諦めたくないなら続けなきゃダメだ」
「そんな、勝手な」
――また、ディックの叫び声が強くなった。
三人の顔が一気に青ざめる。
「アンリ、どうなんだ、あとどれくらいで終わるのか確認できないのか」
ハロルドの声に我を取り戻したアンリは、破壊を免れたトリスト内部の操作パネルをいじり始めた。座席と天井部分は破壊されているが、幸い前面に故障はない。
「待って、モード……残りタイム……、いや、やっぱりわからない。マザーはこのファイルに関して、僕の問いに答えようとしなかった。だけど、博士の体力的なことも考えて、あと十分、この様子が続くようなら強制終了させよう。それで異議は」
ありまくりだというセリフを、ハロルドはゴクンと飲み込んだ。
苦しむディックや頭を抱えるキース、トリストと監視用端末を交互に見ながらブツブツと難しい用語を呟き続けるアンリの姿を見ていれば、自分の考えだけを押し通すことも出来ない。
「十分、だな」
大きくうなずき、ハロルドはディックのそばにかがみ込んだ。
「負けるな、信じてるからな」
しかし彼の声は、ディックには届きそうもない。
*
ラムザによって流し込まれた大量のデータは、やっとその出力を終えた。ビリビリと余波が残った手足、頭、身体。まだ意識はマザーの中だというのに、リアルに戻ったかのような錯覚がある。バラバラに散っていたディック・エマードという意識の塊が寄り集まって、元の人間の姿を形作っていく。
意識が戻っても、衝撃の余韻が残る。ぼうっとしてはっきりしない頭、フラフラとして息苦しい身体。その空間に居続けるので精一杯だ。
『戻ったか。何が起こっているのか、理解できたか』
太いラムザの声が、ディックを完全に引き戻した。
『リーが何者なのか、俺が何の目的で作られたか、おぼろげだが理解できた』
ぼんやりとした真っ白な空間に少しずつアンティークな室内が戻ってくる。
ラムザの姿も、ディックの目にはっきりと見えるようになっていた。
『つまり、劣化したクローンである今のCタイプの身体を捨て、再生機能を備えた完全な人間を目指して作られたDタイプ、つまり俺の身体に、リーは意識を移そうとしていたということか。俺は、ヤツの新たな器として生まれたと。……滑稽だ、滑稽すぎる』
リーの異常な執着の理由がようやくわかる。
個人的な嫉妬などではない。ただ単に、彼は自分の所有物が逃げ出したことに腹を立てていたのだ。
あくまでも彼にとって、D-13は物に過ぎなかった。それは、重い過去を引きずりながら必死に生きていたディックにとって虚しすぎる事実だった。
『問題はこの先、全てを理解した上で臨む第三段階にある。リアルの世界へ戻り、お前は様々なことに立ち向かわねばならないのだ』
ラムザは相変わらず自然体で椅子に腰掛け、じっとこちらを見つめている。
『データである私は、お前がいつこのファイルにアクセスしているのかがわからない。私が知るお前の最後の姿は、NCCへ連行された十歳の少年。あれから約二十年、お前が何をしてきたかは、マザーにアクセスしながら身近に感じてきたつもりだ。政府ビルに戻ってきたお前が、これからどのような人生を送るのか、私にはわからない。だが、一つ言えるのは、事件の後採取したお前の遺伝子を使ってあの男が何かをしでかそうとしていることだ。なぜ戻ってきたお前の身体を、あの男がすぐに利用しなかったのか、考える必要がある。それに、一緒に働いているエレノア・オーリンの存在も気になる。――残念だが、私は結末を知らないまま、人生を終えるだろう。人間には寿命があるのだ。お前にはもう、出会うことはない。このファイルは閲覧後自動的に消去される。私の願いは伝わったと、信じている。お前が私の思うとおりの人物となって、このファイルにアクセスし、あの恐ろしい男を倒す糸口を見つけ出すことを、切に……祈る』
痩けた頬に小さなえくぼを浮かべ、ラムザは目を細めた。
緩やかに足元が崩れ始め、懐かしい部屋の家具や装飾品が下に下に吸い込まれていく。ラムザの身体そのものも、液体に沈殿していく異物のように崩れて溶け、見えなくなっていく。
『父さん!』
思わず叫んでいた。
会話などではない、ただプログラムが呼応しているだけだというのはわかっている。
それでもディックは、過去に自分をほんの少しの間だが抱きしめてくれていた男と、もっと一緒にいたいと思ってしまっていた。
割り切れない。現実との境がわからなくなる、それでもいいと思った。
手を伸ばせば届くのではないか、崩れていく画像はフェイクじゃないのか。
ディックの意識はまた、十歳の少年に戻り、ラムザの元へと懸命に走っていた。崩れゆく画像を足場に、前へ前へ。
何とかラムザと最後に手を――。
ラムザは静かに笑っていた。
その画像も静かに崩れ、やがて、消えた。
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