58・異常

 トリストでディックがマザー・コンピューターにアクセスしてから二時間が経つ。

 アンリは小さなテーブルと折りたたみの椅子を持ち出し、狭い監視室の中で一人、ティータイムを始めていた。アクセス中、普段は立ち入り禁止にしている場所だが、今回ばかりはそうもいかなかった。

 様子を見守ると言って聞かないハロルドとキースが暇をもてあまし、難しそうな顔でアンリやトリスト内のディックを睨み付け続けているのは、あまり気持ちのいいものではない。とにかく何とか場を和ませようと、水分持込原則禁止エリアにもかかわらず、お気に入りのティーセットを運び入れた。紅茶の甘い香りが漂うと、「工場直送は美味いでしょ」と会話もそれなりに弾むはずだった。

 ところがこの二人、今はそういう気分ではないらしい。せっかくの紅茶にも、一緒に運び入れたクッキーにも手を付けない。おっさん相手にティータイムなんて面白いはずがないとわかっていたはずなのに、アンリは空回りしてしまったのだった。

 困ったことに、アンリの予想よりも、ファイルアクセスに時間がかかっている。せいぜい三十分から一時間だろうと踏んでいたが、実際はその倍以上。

 アンリの問いに対し、マザーはその重要ファイルの容量を明示しなかった。一体どれだけの容量で、どういう内容なのか。アクセス方法としてD-13の生体情報が必要だということ意外、彼女は知らせない。それは彼女の意志なのか、ファイル作成者の意志なのか。世界一のAI、マザー・コンピューターに踊らされている。それは間違いないようだ。

 幼い頃、ドームにいた科学者にトリストの存在とその操作方法を教えられてから、彼は巨大なおもちゃを与えられたことに感激し、実に様々なファイルへと侵入していった。

 それがなんなのか、理解しなかった少年時代。マザーへのアクセスは日常的な冒険だった。少しずつ事態を飲み込み、それが世界の中でいかに重要な存在であるか知ってからは、興味のある事柄に対しどこまでも深く調べるようになった。

 マザーへと繋がった各ドームのメイン・コンピューターのデータベースにまで入り込み、情報を抜き取っては反政府組織に売りさばいたり、彼らの手助けとして使ったりするようになる。偶々その中で政府総統について興味を持ち、ディック・エマードの存在を知った。

 今トリストに乗り込んでいる男が、自分にトリストを与えた科学者の義理の息子なのだということを、アンリは未だ知らずにいる。

 ラムザはEUドームの中で全く違う名前を騙り、二十年前忽然と姿を消した。アンリにトリストを託してから数週間後のことだ。


「あとどれくらいかかる」


 痺れを切らしたキースが、喉の渇きを潤そうと、仕方なく冷え切ったティーカップに手を伸ばした。


「さあ、それがわかれば。普通はこんなに時間はかからないんだけど」


 キースの動きを見て、ハロルドもゆっくりテーブルに歩み寄り、別のティーカップを持ち上げる。


「あれは、寝てるのか、起きてるのか。どういう状態なんだ」


 狭いトリストの内部に腰をかけたまま、ディックは気を失ったように動かなくなっていた。呼吸はしているようだが、こちらの会話や様子には全く反応がない。


「意識はマザーの中に溶け込んでる。夢の中にいるような感覚だよ。五感は働いているはずだけど、意識がそこにないから、ただ単に眠っているように見えるんだ」


「じゃあ、寝てるのか」


「いや、起きてる。脳はちゃんと働いてるよ」


 アンリが説明しても理解できなかったのか、ハロルドはもしゃもしゃっと短い髪の毛をかきむしった。


「とにかく、こんな身動きの取れない状態のときに敵が来なくて良かったと考えるべきか。昨日もしトリストに乗り込んでたとしたらと思うと、ゾッとするな」


 それまで無言だったキースも、ハロルドのセリフに苦笑いしていた。


「ところでアンリ。重要なファイルって、一体何なんだ。ファイルを遺したディックの父親っていうのは、一体何者なんだ。その辺まで調べてるんだろ」


「まあ、調べてるよ」


 ハロルドの問いに、アンリは顔の左半分を歪め、難しそうな顔をして首を傾げた。

 ふうーっと長いため息の後、気に入りの黒い上着の内ポケットから、メモを一枚取り出す。


「ラムザ・エマード、地球歴四一二年六月十二日生まれ。出身ネオ・ニューヨークシティ。平凡な研究者の一人息子。製薬会社にて遺伝子治療について研究し、論文を発表したことがきっかけで政府ビルに招待される。ヒトクローン研究室に所属後は、配属先不明――ここまでが、住民コードデータベースの情報。加えて、政府ビルの独立データベースの中に、彼がD-13なる実験体と共に逃亡した記録があった。このD-13ってのが、言わずと知れたディック・エマード博士のことで、彼自身が政府の実験体だってことはさっきも語ったとおり。その後二人でどこかへ隠れ住んでいたようだけど、そのあたりから一切記録がない」


「記録がない、死んだってことか」と、ハロルド。


「いや、それがね、そうとも言い切れないんだ。政府を脱走した科学者の中には、コードによって居場所が知れるのを恐れて、貼り付けてある部位を切り落としたりえぐったりする人がいた一方で、効率的に逃れることを研究した人もいたらしい。小さい頃のことだから曖昧なんだけど、確か“コード・キャンセラー”とか言ったかな、コードのスキャンを免れるために、微弱な相殺電波を流し続ける腕輪状の端末があるんだ。このドーム群にいた何人かの科学者が、身につけてたのを見たことがある。ディック・エマード博士の場合は、元々NO CODEだから関係なかったわけだけど。ただ、キャンセラーを持ってたからと言って、寿命が変わる訳じゃない。四一二年生まれってことは、今年で八十七ってことだろ。生きているかどうか、微妙な年頃だよな」


 延命治療やアンチエイジング手術で長命で若々しい老人がいる一方、健康状態が安定せず早死にしてしまう中年も多い。長いドーム生活が人間の身体を少しずつ変化させ、一部退化させているのだという研究結果もある。人工太陽光の弊害なのか、バイオ作物の摂取過多が原因なのか。肉体労働量が著しく減ったことも原因かも知れないし、基礎代謝に必要なエネルギーをドームという環境下では摂取しきれないからかも知れない。学会では今も、因果関係について議論が続いているほどだ。八十まで生きることが出来たら大往生というこのご時世、ラムザがもし生きていればというのがほぼ絶望に近いことを、ハロルドもキースもすぐに納得した。


「ラムザ・エマード博士がどんな経歴を持った人物なのか、ざっとわかったところで、ファイルの中身が何なのかまでは、推測できないな。ディックがあの中でどんなデータを閲覧しているのか、結局は見守ることしかないってことか」


 残念そうに間延びした声を出して、ハロルドは大きく背伸びした。

 あとどれくらいかかるのだろうと、腕時計とトリストを交互に見ていた彼は、ふと、ディックの様子がおかしいのに気がつく。それまでだらんと力なく垂れていた腕に力が入り、手を握りしめている。フルフェイスのヘルメット下にも、だらだらと不自然に汗を流し始めていた。

 見間違いかと目を凝らし、耳を澄ます。監視室自体が囲まれた機械の起動音でうるさく、よく聞き取れなかったが、何となく唸り声のようなものが混じっている。


「何か、おかしいぞ」


 ハロルドの一声に、くつろいでいたアンリもキースも慌てて立ち上がり、トリストに走り寄った。

 ディックを囲むように三人、それぞれの角度からトリストの内側を覗き込む。


「さっき言ってたろ、現実との境がどうの、暴れたらどうの。……これは、その予兆か」


 ハロルドが言っても、アンリは即答しなかった。唇を噛みしめ、トリスト内部の様子を確かめる。どこに異常箇所があるのか、パネル表示は通常と変わらないか、ぐるっと見回すが、特に問題はない。首を傾げ、アンリはそっとディックの手首を掴み、脈をとった。脈拍が上昇しているのを確認し、


「いや、わからない」


と首を振る。


「確かに言ったけど、ちょっと違う。僕は、マザーに入り込んだ直後に起きるかも知れない発作のことを言ったまでで――、二時間も経過してからこんなんになるってことは、恐らく、データの内容に問題が」


 セリフが寸断された。

 ディックが一段と強く唸り始めたのだ。

 身体を屈ませ、胸をかきむしる。焦り、背中を擦ろうとするハロルドやキースの腕を、凄まじい力で払いのける。うなり声は叫びに変わり、ついに狭いトリストの中で立ち上がろうと――。

 アンリはただ、腰を抜かし床に転げた。あんぐりと口を開け、目を白黒させている。


「なんてことだ!」


 ハロルドは言って、ギリリと歯を鳴らす。

 ディックはトリストの天井部に背中を押し当て、無理矢理立ち上がっていた。

 ネジが外れてはじけ飛び、背もたれが剥がれ、シートの後部からヘルメットに繋がれていたコードがむき出しになる。巨体が天井部を壊して突き破り、細かい部品があちこちに乱れ飛んだ。

 滴り落ちたディックの汗が丸裸になった回路に触れると、バチバチと電流が走る。それでもなお、ヘルメットに繋がれたコードを介し、データは注ぎ込まれ続けているのか――時折かがみ、時折頭を抱えて叫び――、とうとうトリストから滑り落ち、床に倒れ込んだ。


「い、異常だ。こんなの」


 地に響くような恐ろしい叫び声を上げ、のたうち回る暴れるディックの姿は、まるでNCC実験棟で見た失敗作のなれの果てのようだと、キースは不謹慎にも姿を重ねてしまう。

 目の前の男の頭の中で、一体何が起きているのか想像すらつかない。ヘルメットを外した形相を思い描き、キースはブルッと背筋を振るわす。どうすることも出来ない彼は、壁に背中を押しつけて、ただただ呆然と事態を見守るしかなかった。

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