25・ラボ襲撃

 真っ白な研究施設の壁に、夕暮れ時を告げるオレンジ色の人工太陽光が照りつける。

 一キロ四方の敷地を囲う高く白い塀まで建物の影がぐっと伸び、住居や施設の陰に潜む何者かを体良く隠している。

 エマードは椅子にもたれかかり、机にドンと資料の山を置いたまま、ぼんやりと半開きの窓の隙間から外を眺めていた。

 塀のむこうから、住民の話し声、笑い声がかすかに聞こえる。買い物帰りの母子の楽しそうに弾む会話。優しい声。

 エマードは恨めしそうに耳をそばだて、目を細めた。心が次第に安らかになっていく。うとうとと、いつの間にか居眠りをしてしまっていた。

 誰かが大事そうに自分を抱きしめ、『ここを出たら君は自由だ』と、ささやいた夢を見た。

 小さな手を引く大きく暖かい手に、安らぎを感じていた。顔さえまともに思い出せなかったが、白衣を着た痩せた男を『おとうさん』と呼んでいた。男は一緒に歩いていた幼いエマードの手を離し、一人、遠くへ遠くへ歩いてゆく。


『置いていかないで!』


 小さなエマードが叫んだ。


『おとうさん、どこにいくの! 僕はこれからどうなるの?』


 男の背中がどんどん小さくなっていく。追いかけるが、追いつけない。不安、絶望。あれは……。


 **


 カチカチと時計の進む音で目が覚めると、夜の十時を回ったところだった。


「寝過ごした……」


 エマードはすっかり暗くなった所長室に取り残されていた。

 彼はのっそり立ち上がり、懐中電灯を手にした。見回りの時間だった。眠い目を擦り、暗い廊下をたどる。


「あんな夢を見るなんて、最近の俺はどうかしている」


 足取りが重かった。考え事をしながらやり損ねていた戸締りチェックをし、機械やパソコンの動作チェックを行う。

 しかし駄目だ。集中力が続かない。

 自分が何をしたいのか、何の目的で所長として居座っているのか、そんなことまで考え始める。

 わからない、何もかも。

 精神を病んだエマードは、自分の身体を動かすので精一杯だった。

 誰かが、何かが、自分の背中を押してくれればきっと楽になるのに。そう思いながら、フラフラと歩いていた。

 長い廊下の奥で、懐中電灯の明かりに反応して、ふいに何かが動いた。

 エマードは目を凝らして、それを見た。──人影。誰だ。

 見たことのない人物がそこに立っている。黒髪の、青年。年恰好は自分と同じくらいの、二十代の男。


「……何をしている」


 彼の顔を見ようと手元の明かりを動かしながら、エマードは尋ねた。男は眩しそうに腕で顔を隠しながら、後ろへ、後ろへと足を擦った。


「侵入者? 警報が鳴らないということは、コードのないアナーキストか」


 エマードは懐中電灯を左手に持ち替え、懐から銃を取り出して身構えた。正体不明の男ににじり寄り、どういう経緯でここに忍び込んだのか問い詰めるつもりで。

 ――突然、大きな鈍い物音がした。

 頭が割れるように痛い。ふらふらする。液体がつうっと頬をたどり、あごまで流れ落ちているのに気がつき拭き取ると、鉄分を含んだ血の臭いが鼻先をかすめた。


「シロウ、逃げろ!」


 聞き覚えのある声。

 懐中電灯がエマードの左手から床に零れ落ち、くるくると回る。その明かりが、自分を襲った犯人を一瞬、捕らえた。


「ジャン・ウェイ……貴様……ッ」


 背後に、血のついた鉄パイプを持つウェイの姿が見えた。荒い息、血走った目。怒りと憎しみを込めて、もう一度ウェイはエマードに殴りかかった。

 エマードは両腕で頭を抱え、痛みに耐えながら壁に寄りかかる。頭の骨が砕けそうだ、出血も激しい。意識が朦朧とする。


「シロウ! 早く!」 


 シロウと呼ばれた青年は我に返り、駆け出す。苦しむエマードを横目に、ウェイも別の方向へ走り出す。

 どこかで聞いたことのある“シロウ”という名前。それが誰か、必死に思い出そうと記憶を探る。

 思考を遮るたくさんの足音。

 フッと、研究所内のすべての電源が落ちた。

 非常電源に切り替わり、煙たい匂いがあたりに立ち込める。

 煙にむせ、窓に寄りかかった。酸素を確保せねばと窓を開けた、――その向こうに何十もの人影。塀の外めがけて走っている。


「……裏切り者めがぁ……!」 


 ようやく、事態が呑み込めた。

 ジャン・ウェイはアナーキストの“シロウ”と手を組み、施設を襲撃した。

 他の研究員やその家族とともにこの施設から、エマードから逃れるために。

 彼は転げていた懐中電灯を持ち直すと、一階の廊下の窓から外へと飛び出した。

 人工芝に降り立ったエマードの足音が、大きく響く。影はその音に反応して、怯み、すくみあがる。転びながらも、必死に逃げ惑う人々。


「逃しはしない」


 ディック・エマードの裏の人格が、彼を完全に支配した。

 命の重みなど、今のエマードには理解できない。自分の秘密を守るためではなく、人を殺す事が目的。冷静さを完全に失い、目の前の人間という人間を撃ち落とす。確実に息の根を止めるため、彼は死体に駆け寄り、更に心臓を撃った。

 鮮血が白衣や顔に何度も飛び散る。

 薬莢が舞う。

 エマードの顔はいつしか鬼のように……、恐ろしい事をすればするほど、快感に震え、目をぎらつかせ、――笑い出す。自分では抑えきれない、彼の中の何かが目を覚ます。それが一体、何故彼の中に巣食っているのか。見るものすべてを殺す事で、彼の心は満たされた。


「裏切り者と逃亡者は抹殺してもいいんだったな……」


 呟き、次の標的を探す。“シロウ”という彼が、走り去った方角へ。

 炎があちこちで上がり、小さな爆発音が断続的に続く。パトカーと消防車、それから救急車のサイレンが近づいてくる。塀の外には野次馬の人だかりが出来始めていた。

 ラボの中央研究室に、エマードはいた。共同研究のAIチップの試作品が置いてある部屋だ。工具や基盤がいつものように無造作に机の上に置かれている。ほんの数時間前まで、ここで数人の研究員が作業をしていた。今は――。


「ウェイ、私のラボでとんでもない事をやらかしてくれたものだな」


 床に散らばる数体の遺体、覆い尽くす白煙。パチパチと火の粉が舞い散る。凄惨な現場。

 エマードはあちこちに火傷を負っていた。白衣はすすで所々黒くなり、血飛沫の跡と混じって斑を作っている。

 所員を撃ち殺した小銃からお気に入りのデザートイーグルに持ち替え、炎でちらちらと画面が揺れる中、怯えるウェイを見下ろしていた。

 目を見開き、眉間にぐっとシワを寄せ、目じりをひくひくと引きつらせている。食いしばった歯と汚れた眼鏡のレンズに炎が映し出され、オレンジ色に光った。百九十センチ近い大柄の彼は、壁際で震えながら鉄パイプを構えるウェイの前に仁王立ちして、威圧する。


「お前は八人いた私の家族を次々に殺した……」


 ウェイは恐怖で奥歯をガチガチと鳴らしながら、目の前の男に必死に訴えた。


「最初は両親……、そして兄弟、子供は生まれる度に殺された。──妻を殺したのはつい三日前。今では娘が一人残るだけだ。失敗や逃亡が続く度に、家族が減っていった。お前は悪魔だ。こんなに殺しを続けても、まだ止めようとしない。殺すのは愉しいか。俺は死んでも恨んでやる。末代まで呪ってやる」


 エマードは一瞬物悲しげな表情を見せた。


「“呪い”“恨み”、そんな非科学的な事は信じない。そして、お前が家族を殺された気持ちというのも、私にはわからない」


 そしてうつむき、ゆっくり首を振る。


「エマード所長、あなたにだって、家族がいたはずだ。あなたを育ててきた家族が。だのに何故そんなにも非情に、躊躇なく殺しを繰り返すんだ。一体何が、あなたを悪魔に変えているんだ」


 髪を振り乱して涙でぐちゃぐちゃになりながらも、ウェイは必死だった。

 エマードはそんなウェイを見下ろし大きく息をつく。

 そしてしっかりと、銃の照準を彼の額に合わせた。


「冥土の土産に、ひとつ、お前が探しきれなかった、私の秘密を教えてやるよ」


 ウェイの震えがぴたっと止まった。


「知っているとおり、私には“コード”がない。“コードのを持たない者”は、この世に二種類しか存在しない。そのひとつは“総統閣下”、もうひとつは“反政府組織で生まれ育った者”。お前は私がその二つ目に分類されるのではないかと思ったのではないか。アナーキストの手先だと。だから、そういう組織に取り入って私の正体を探り、今回の事件を起こそうとしたのだな。だが、そこでも私に関して何も情報を得る事は出来なかった。……違うか?」


「あ、ああ。そうだ……」


 ウェイはこくりと頷く。



「実はもうひとつ、“コードを持たない”非公開の存在がある。政府がひた隠しにする、一般人の知らない、政府の裏の顔。私は……いや、俺は、試験管の中で生まれた。政府の何らかの実験の、ただの副産物だ。生まれたときから、俺は人間ではなく、悪魔だったんだ」



 最後の銃弾が放たれた。

 銃声は大きく響き、ウェイの額目掛けて一直線に進んだ。

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