24・絶望
「今からインターホンを押す。その後、ドアを開けて出てきた人間の命を貰う。それで今回のことは見逃してやる」
「は? な、何を言って」
エマードの右手には銃が握られていた。彼の愛用のデザートイーグルだ。所長室で時折大事そうに磨いているのを見かけたことがある。
「秘密を知ってしまったのは私んだから、私を殺せばいいでしょう。家族には何の罪もない!」
必死に食らいつくウェイを、エマードは笑い飛ばした。
ぎらりと見下す視線が、ウェイの身体を硬直させる。
「ウェイ、甘いな。お前が死ねば、お前の恐怖はここで途切れてしまうだろう。私は、私が負っているのと同等の恐怖をお前に負わせたいんだよ。果てしない闇、生きているだけでも辛い、簡単に死んでしまうことも出来ない、そんな、真の恐怖を」
エマードの指がインターホンに触れた。
闇の中に、軽快な音が鳴り響いた。
「こんばんわ、夜分に……」
彼は静かに優しく語りかける。
「や……やめろ……」
ウェイはエマードの腰にしがみつき、そこから遠ざけようと力一杯引っ張った。
ウェイよりずっと若く体力のあるエマードは微動だにしない。
言いようのない怒りと恐ろしさに足の先まで震え上がった。こんなことをするのは人間じゃない。彼は本当の――。
玄関先の明かりが灯りドアが開く。そこにウェイの母親が立っていた。
「エマード所長、うちのジャンが何か」
深夜一時。
寝巻きのまま現れたウェイの母は、遠慮がちにエマードを見上げた。
「母親か」
後ろを振り返り、ボソッと吐き捨てるように言うと、エマードはゆっくりと銃口を彼女に向ける。
「恨むなら息子を恨むがいい。悪魔に触れた祟りだ」
――その音は野獣が獲物を食い尽くすように、無残で、重く重く、ウェイにのしかかった。
放たれた弾丸は胸を貫き、彼女は玄関先に仰向けになってばたりと倒れこんだ。壁のあちこちに鮮血が乱れ飛ぶ。
ウェイはとっさにエマードから離れ、倒れた母親に駆け寄った。声にならない声で呼び続けるが、彼女は答えない。抱きかかえた母親の身体を揺する度、傷口から血がなみなみと溢れ出て、ウェイの白衣は瞬く間に真っ赤に染まった。
前後不覚に叫び続ける息子の声に異変を感じ、今度は彼の父親がやはり寝巻きで駆けつける。彼はエマードの手に握られている銃に気がつき、襲い掛かって奪い取ろうとした。が、エマードは事も無げにウェイの父親を振りほどくと、数発の銃弾で彼を撃ち抜いてしまった。
……すべてが一瞬のうちに終わった。
意識を喪失したウェイは目の前の惨事にどうすることも出来ず、ぐったりとへたり込んだ。
上の階で赤ん坊や子供の泣き声がしている。それを何とか沈めようと、必死になだめているウェイの妻の声も。
「妻と子供は幸運だったな。もし、来るようだったら殺すつもりだったが」
返り血を浴びたエマードは、悪魔そのもの。
真っ黒な世界に、ほんのりと街燈と玄関の明かりで照らし出されたこの空間だけが切り取られ、真紅の衝撃で満たされる。
興味本位の行動が、これほどの大きな代償を必要としようとは。知っていれば触れずに済んだのに。
銃声を聞きつけた警官隊がパトカーを鳴らしながら近づいてくる。赤と青のパトランプが夢ではないことを知らせるかのように。
* *
恐怖の一夜は嵐のように去っていった。
救いの手を差し伸べてくれるはずの警官隊は、現場検証を簡単に済ませると検死のため二人の遺体を警察病院に搬送する手続きをしただけで帰っていってしまい、騒ぎを聞きつけた同じ施設内の研究員たちやその家族、近所の住民たちも、警察がいなくなると一緒にいなくなった。
現場にはジャン・ウェイとディック・エマードだけが残され、夜明け前の薄暗い闇の中に、二つの白衣のシルエットだけが浮かび上がっていた。
ウェイは短い人工芝を両手でむしりとるように、強く手を握り締めた。地面についた、まだがくがくと笑う両膝を感じながら、エマードを睨み付ける。
「なぜ、警察はあなたを捕まえようとしないんだ。これだけ明白なのに……!」
エマードは、薄明るくなったドームの天井とビル群を背景に、薄ら笑った。
「研究員の家族を同じ敷地に住まわせている研究所はたくさんある。何のためにそんなことをしているのか、お前は知らないのだな。家族はいわば人質。研究員が謀反を起こせば始末しても良いというのが政府の方針なんだよ」
「……ひ……人質……、謀反……? “コードが無い”ことを知っただけで、それほどの罪になるのか。それが、私の両親を殺してもいいという理由になるのか」
「世界は、俺を捕まえることを拒んでいる。政府が作った“住民コードシステム”がすべてを支配している限り、コードの無い人間の罪は現行犯で無ければ立証できない。まさか知らなかったのか。いくら罪を犯してもコードのない人間を捕まえることなど出来やしない。反政府組織が暗躍する原因の一つだ。この世界では、俺は何をしたって許されるのさ」
血飛沫を浴びた白衣を剥ぎ取り小脇に抱えて、エマードは去った。街灯に照らされ、長く伸びた影が、ウェイをせせら笑っていた。
* *
──それから三年があっという間に過ぎた。
ディック・エマードの研究は完成に近づいていた。研究熱心な所員のおかげでAIチップは大方理想の形になっていたのだ。遠目には順調な研究所。
一方で、エマードのジャン・ウェイに対する執拗な拷問は未だ続いている。
ウェイは心身とも疲れ果て痩せこけ、生ける骸と化していた。
逃げることなどできなかった。
最愛の妻と娘がいつエマードに殺されるのか、怯えながら生き続けるほかなかった。ウェイが自ら命を絶つことも、その後の妻子のことを考えれば到底無理な話だ。
それでも、彼はその後も隠れてはエマードの正体を探るべく様々な方向から調査した。エマードは事あるごとに、ウェイの家族を次々に殺害していく。拷問、家族殺害の繰り返し。研究者ではない、もう一人のディック・エマードがそこにいた。対象はいつしかウェイに限らず、すべての研究員、その家族にまで及んでいた。
恐怖の館――暗闇に光る眼。閉ざされた感情。何もわからない恐怖。
そんな状況下で一番苦しんでいたのは、ディック・エマード本人であったとは、誰が気が付こうか。
度重なる罪は、エマードの感覚を脆くした。
何が起きても、何も感じない。
人間の命が次々と自らの手で奪われていくのに、命というものの価値が、彼には感じ取れなかった。
何かもやもやしたものが胸を覆いつくし、エマードは研究どころではなくなっていた。
虚しさのような、憤りのような、酷く苦しい灰色の物体が彼の心を占拠した。
そして、何も、見えなくなった。
研究員たちが、チップの最終改良について質問をぶつけても。
ウェイが、以前より外出する機会が増えていても。
見知らぬ男たちが、施設の周りをうろつくようになっても。
エマードはぼんやりと、自分の“感情”について胸が痛くなるほど深く考え込むようになった。深い深い海の底に沈んだ船の中に取り残されたような、重苦しい空気がエマードを包み込んだ。
最早、ウェイの不穏な動きさえ、エマードの目には映らなかった。
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