26・NO CODE
目の前が朦朧とした。
酸素が足りず、胸が息苦しいのを感じて意識を取り戻す。
エマードがいたのは、真っ赤な炎に包まれた研究所だった。
彼のいる部屋にはそれほど炎は回っていなかったが、真っ黒い煙が渦巻いていた。締め切られた窓の外に赤や青のランプが見えている。消防、救急車、それに警察。
明らかに異常なこの現場を見たら、一体何が原因なのかと彼らは不審に思うだろう。自分以外は全て死んでいる。足元には壁にもたれかかったまま額を撃ち抜かれた死体、ジャン・ウェイ。
何もここまでしなくてもよかったのではないか。
自分を抑えきれない。
どうしたらいいのか、どうするべきだったのか、わからない。
秘密を、ほんの些細な秘密を守るために、自分に与えられたはずの空間を無くしてしまった。
自分自身が憎い。いっそ、このまま死んでしまえるなら、そのほうがいい。
精神力を使い果たし、全身火傷で一酸化炭素中毒になりかけている。それでも彼は、まだ立っていた。
クラッとめまいがし、実験机のひとつに倒れ掛かった。カタカタッと、何か丸いものが肘に当たる。彼はぼんやりしたまま、それを手に取った。
「シャーレ?」
蓋付きのシャーレに、血文字で何か書いてある。
彼は煙に侵され視界の定まらない目を擦って、必死に字を読んだ。
「YOU……LOSE……。ど、どういうことだ」
中をこじ開ける。
小さな肉片がひとつ。さらによく見る。
「な、何だこれは!」
住民コードのチップが付いた、人間の皮膚。柔らかなきめ細かい子供の皮膚。
全身が震えた。
子供……、ラボの研究員たちの中で小さな子供のいる家庭は少なかった。一人一人、殺した人間の顔を思い出す。
「──ウェイの、娘」
たった一人だけ、思い当たる人物がいた。たしか、十三か十四の子供だ。
ほかの兄弟よりちょっと年上のウェイ似の娘。目に入れても痛くないとよく話していた。面倒見のいい、芯のしっかりした子だと。
エマードはその皮膚をじっと見つめ、ふと『負け』だと書かれた血文字について考える。考えていくうちに恐ろしい仮定が浮かび上がり、彼は息を呑んだ。
ウェイの愛娘だけ、殺していないことに気がついたのだ。
ウェイは彼から永遠に娘を遠ざけるために、枷となるコードを切り取った、そしてあの“シロウ”というアナーキストと共に逃亡を。
「そうか、そういうことか。確かに、俺の負けだ! そうか、そうだったのか」
最早表情の読み取れない、砕かれたウェイの死に顔。炎に包まれぷすぷすと焼けていく死体を横目に、エマードは笑い出す。
エマードに隠れ、たった一人殺されずに残っていた自分の娘から刃物でコードを削ぎ取り、シャーレに入れて血文字を書いたウェイの姿が頭に浮かんだ。エマードが研究員たちを次々に撃ち落としている間に、“シロウ”と共に娘が逃げていく姿も。
ディック・エマードは狂ったように笑い続けた。笑い声は外にまで響き渡っていた。
**
救護隊が消防隊と共に施設の内部へと向かう。放水しながらどんどん奥に進んでいく。ラボの通路にバラバラと死体があるのをひとつずつ、回収する。
回収された遺体が、流れ作業のように次々に運び出されていく。それらは淡々と単純作業のように続けられ、辺りに群がる野次馬の間を損傷が激しく身元不明の死体たちを乗せた救急車が何度も往来した。
炎は収まらず、いつまでもくすぶり続ける。
施設を取り囲む特殊車両、荷台に積んだ大型のファンで煙を吸い込み、火災で発生した有毒ガスを中和させていく。閉じられたドームの中で最も恐ろしいのが大気汚染。鎮火と有害物質の拡散防止のため、ありとあらゆる方法がとられていた。
ラボの周囲を取り囲む特殊車両の中に、明らかに用途が違うと思われる大型のトラックが一台。大掛かりな医療器具が積み込まれている。救急車ではない。その中で待機する、医者らしき人物。真新しい白衣に、少し長めの黒髪を後ろで結った、若い男。
『先生、NO CODEです。まだ生きていますが、意識がありません。どうなされますか』
無線で男に連絡が入る。
「気を失っているだけだろう。こちらへ連れて来られそうか」
『イエス。回収します』
男はフッと静かに笑う。
やがてその特殊トラックに、担架で大柄な男が運び込まれた。所々火傷を負って皮膚がただれ、黒焦げの白衣をまとっている。ヒビの入った眼鏡。そして、気を失ってもなおしっかりと右手に握られたデザートイーグル。
彼を乗せると、トラックは無言でドームの中心部に向かってゆっくりと走り出した。
担架からトラックの荷台のベッドへと移された男に、救急措置が行われる。看護士か医師のような数人のスタッフが、彼を取り囲んだ。患部を冷やし、消毒、包帯、点滴、酸素マスクを当てる。
合間に、長髪の若い男が手のひらサイズの小さな計器を取り出し、そこから発する緑色の光線で患者の体をスキャンした。計器に付いた大きめの液晶画面、人体の絵とそこに重なる“NO CODE”の赤い文字。
「間違いない、“D-13”だ。患部はどうだ。治癒速度は」
患者を診ていた看護士の一人が、
「先生のおっしゃるとおりです。治療を始めたところから、恐ろしいスピードで傷が治っていきます」
トラックに乗ってから十五分、重傷だった患者の傷は殆ど治りかけていた。
『先生、ビルに到着しています。このままここで治療を続けますか』
運転士からの無線。
「いや、集中治療室へ。みんな、ご苦労だった」
男の合図で患者はビルの中の集中治療室へ。
スタッフが入れ替わり、患者の精密検査が行われる。
「頭部の出血の痕も、骨折の痕も、きれいになくなっている……! 治癒能力は目に見える部位だけではないのか……。素晴らしい……!!」
レントゲン写真を手に、感動を隠せない男。
「探したぞ……、この十何年か、ずっと探していた……。私の手から離れて、あんな辺境のラボにいたとはな。私の勘も、なかなかのものだ……」
**
エマードが目を覚ましたのは、それから数日後。
寝ていたベッドは、明らかに自分には必要無さそうな最新の医療設備に埋もれていた。身体のほうはというと、手足に軽い痺れはあるものの、火傷は殆ど治っていたし、ウェイに殴られ血を流したはずの後頭部にも、別段異常はなかった。
まるであの出来事が嘘だったかのように取り戻した体力。だのにエマードの気持ちは暗く沈んでいた。
「また、生き延びてしまった……。どうすれば、俺は死ねるんだ……」
エマードはぐったりと肩を落とした。
怪我は治っても、彼の精神的な部分には回復の兆しが無い。犯した罪の重さに潰される。
点滴も、酸素マスクも、今の彼には不要だった。自分に繋がれた管を抜く。ガシャガシャと医療器具が床に落ちる音。
その時だ。
「君、目を覚ましたのか! まだ安静にしていないとだめじゃないか!」
エマードより少し年上、二十代後半か三十代前半と思われる若い白衣の男が病室に怒鳴り込んできた。顔立ちのいいその男は、立ち上がり部屋を出ようとしていたエマードを無理やりベッドへと押し戻した。
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