10・予定外

 昔、富士と呼ばれた山の麓。今もひっそり建つ一軒の古めかしい小屋の縁側に、その男は座っていた。

 古い民話を思わせるレトロな景色にそぐわぬ黒いスーツ、整った美しい顔立ち。三十手前の若い男だ。何かを思い詰めたような気難しい表情で、山の稜線を見つめている。

 広くどこまでも続く畑と少し時期の早いトンボの群れ、きれいに咲き誇る庭の花たちも、彼の心を満たしてはいない。一匹のトンボが縁側に座っている男の肩を掠めて飛んでいくが、目もくれない。


「来るのか、エマード。私と闘うつもりか」


 ぽつり、呟く。そして静かに笑う。


「閣下、ここで本当によろしいのですか。彼らがここに向かう確証は――ないに等しいのでは」


 庭先に、彼を見守るようにして立つ眼鏡の女。大事そうに抱えた書類をめくりながら助言するが、男は自信たっぷりに言い放った。


「来るさ。何のために昔、あんな罠を張ったと思ってるんだ。奴らは来る。そして、絶望を味わうのだ。――ローザ、いざとなったら君が頼りだ。うまく……やってくれるね」


「私は……、反対です。閣下の身が穢れるようなことは」


 女はやりきれなさそうに視線を斜めに落とした。高い位置から注がれる日の光が彼女の顔全体にはっきりした影を作り、更に深刻さをかき立てた。


「君だけが頼りなのだ」


 立ち上がり、延びてくる男の手。歩み寄り、女の清楚な白いスーツごと抱きかかえる彼の優しいぬくもり。ローザの口からは、「おおせのままに」という言葉が自然とついて出る。男の指がそっと彼女の肩を撫で、首筋、そして頬まで伝い、耳の裏まで来て止まる。


「いい子だ」


 赤子を騙すように静かに、そして妖しく、男は目を細めた。



 *



 列島の殆どは、確かに海に沈んでいた――。

 古い地図を頼りに進んだ先、小さな小島の群れになってしまったのは、昔“日本”と呼ばれていた場所。高い山を中心に浮島のように連なってはいるが、かつての領土の全ては見えない。地球温暖化で起きた海面上昇により、透き通りそうなほど青い海の中に全て飲み込まれてしまったのだろう。

 ESの球状飛空挺は小さな生命反応の集中する、列島の中心に着陸した。そこはちょうど大きな山の麓。付近から何らかの微弱電波も発信されている。

 大戦以降核の冬が訪れ、全ての生物が死に絶えて死の大地になったと伝えられたが、現実は違っていた。美しく広がる大自然、原始世界のような無垢な姿で自分たちを出迎えてくれたのだ。

 その驚愕は、ドームから脱出し初めて星の姿を目の当たりにしたときから始まっていた。飛空挺の乗組員全員が違和感を覚えたこの事態には、普段は鉄仮面を決め込んでいるディックも驚きを隠せなかったようだ。自身を中心に調査隊を組み、島に降り立とうと、着陸前から準備を進めていた。

 ドーム脱出の際、どんな環境でも船外活動できるようにと予め用意しておいた調査用の機器をハッチへと運ぶ。

 防護服、小型酸素ボンベを身につけ、計測機器やサンプリングのためのキットをエアバイクの座席下、収納部へと詰め込んでいく。

 まるで宇宙にでも突入しそうなその装備は、見た目で安全そうに見えても数値的にどうなのか、はっきりとした確約がとれないための予防措置。ドームや飛空挺の中で保たれている酸素濃度との差、放射能や危険物質残留の有無など、安全性に問題がないかわからなければ活動できないためだ。念には念を――、数人の男たちがディックの指示で装備のチェックをする。

 ハッチから搬入路へ抜けるドアが閉められ、ハッチ開放の警告アナウンスが廷内に響き渡った。

 外気遮断のための風除エリアで、静かな起動音とともに空気中の酸素を取り込むバイクのモーターがぐるぐると回り始めた。調査に向かうのはディックとハロルド、整備士のロックとバースの四人。


「中年二人と若者二人、バランスは微妙だが、お互いカバーして早めに調査を終わらせないとな」


 ハロルドの声かけで少し場が和み、緊張しきりの整備士の二人が引きつり加減で少し笑う。

「調査なんて、ムダじゃないかって思うくらい、気持ちよさそうな緑色ですけどね」

 普段はあまり聞こえてこないバースの丁寧語は、ディックが目の前にいるからだろう。ハロルドやロックの前ではもっとざっくばらんな年少者も、流石に気が引けているようだ。


「バースがそう思ってても、数値として示されてみないと何とも言えないぜ。放射線は特に目に見えないから。何もなさそうだ、大丈夫だろうってのが、一番怪しい。だから行くんだろうが」


 先輩整備士のロックが赤い髪をメットに収めながらバースを睨み付けた。言われたら、


「まぁ、そうっすけどね」


 と顔をひん曲げて誤魔化すしかない。


「さて、準備は出来たか」


 互いに目で合図し、バイクに跨ろうとしていたときだった。

 封鎖していたはずの風除エリアのドアが、突如左右に開き始めた。


「おい、誰だ、勝手にドアを開けたのは」


 ディックが声を荒げる。搬入路側のドアの隙間に人影が。


「今、ハッチを開ける警告アナウンスが流れただろう。危険だ、早く封鎖しろ」


 怒鳴り声に、最年少のバースが慌ててドアに駆け寄った。風除ドアの開閉ボタンは搬入路側と風除エリア側、それぞれの壁にあるのだ。全部開ききる前にと、重たい防具ごとバースは必死に身体を動かした。彼の手が開閉ボタンに届くか届かないのうち、今度は操縦室からの遠隔操作でハッチが少しずつ上方向に開き始めた。


「ちょっと待て、操縦室、ハッチを閉めろ……って、聞こえないか。――ディック、ハッチと風除ドアは連動してないのか」


 ハッチから船内に吹き込む風、それは吸い込んでもよいものなのか。成分調査も終わってないのに勢いを増して流れ込んでくる。四人は防護服を着ているから良いものの、他の乗組員は、そしてそこに立っている人影はと思考が巡る。汗を滲ませ、伸ばしたハロルドの手がハッチ横に設置された緊急封鎖ボタンに触れる。


「事故防止のために、わざと連動させなかったんだよ」


 防護服のメットの上からもしゃくしゃと頭をかきむしる動き、悔しそうにハッチを睨み付けるディックの視界の外で、バースのエアバイクが突如動き出した。


「あ、ちょっと、ちょっと待ってよ」


 風除ドアのボタンのそばで慌てるバースの少し高い声。知らぬ間に、黒い人影が風除ドアの隙間をすり抜けていた。


「誰だ」


 防具で視界の塞がったディックにはその影の正体は見抜けなかったが、


「待て、ジュンヤ!」


 ロックの叫び声で誰だか承知する。

 ジュンヤと思しき影はそのままバイクに跨り、締めかかったハッチの隙間を滑るようにして抜けた。一瞬の出来事に目を奪われ息を呑むうちに、ハッチが閉じていく。

 ジュンヤはそのまま、森の中へと消えていった。


「あンの馬鹿野郎!」


 再度閉ざされた風除エリアで四人は頭を抱えた。防護服のヘルメットを投げ捨て、ハロルドはただただ悔しそうに頭を両手でかきむしっていた。

 俺がバイクから離れたばっかりにとバースは嘆いたが、多分、そこにいたら誰だってそうしていた。彼だけを責めることは出来ない。


「いや、悪いのはこの俺だ。ドア連動もそうだが、あそこであんな話をしたばっかりに」


 ディックはむさ苦しい防護服の襟を軽く外し、メットをバイクに置いて壁により掛かり思案していた。相も変わらず難しそうな顔で偶にあごをさすり、何かを呟く。と、エアバイクのハンドル横にあるパネルを覗き込み、なにやら操作を始めた。


「何か思いついたのか」


 ハロルドが尋ねると、


「――ああ、互いの位置が把握できるように追跡装置を装備していたことを思い出してな」


 彼はそこに浮かび上がった画面を指でタッチする。方位のみを表した単純な地図、そこに光る赤い点が四つ。うち一つが徐々に北へと動いていく。


「移動している。呼吸するには十分な酸素があると言うことか。だが、汚染の程度が把握できなくては意味がない」


「しかしこのままジュンヤを放っておくわけにもいかないだろう。ディック、成分検査を早急に済ませてジュンヤを追おう」

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