Episode 04 孤島の幻影

9・蒼

 眼前に眩しいほどの青が広がった。

 エスターは思わず目を瞑り、両手で顔を覆う。それは、彼女のこれまでの人生にはない量の光だった。

 体中を光が付け抜けていくような感覚さえある。透き通る青色――。

 ネオ・シャンハイドーム上空。ESの“船”はドーム内の造船場から出航後、転移システムを起動させてドームからの脱出を図っていた。ドーム間移動の際EPT政府が利用している手法を船全体に使用する。莫大なエネルギーと経費を必要とするため何度も使えないのが玉に瑕だが、安全にドームから脱出するには都合がよい。また、ドーム内の管理はそれなりに行き届いていても、想定外の事項に対する警戒心が薄い。本拠地ネオ・ニューヨークのドームに外部から攻撃を仕掛けるという政府の裏をかいた作戦だった。

 球状の飛空挺が風船のように漂う。雲の中を進む船の上部、操縦室の窓にひっつくようにして外界を眺めるエスターに、ゆっくりと澱みのない足音が近づいてくる。


「パパ」


 彼女は久方ぶりに、明るめの声で父親を呼んだ。

 振り返ったエスターの金髪が跳ねるのを見て、ディックは目を細める。


「こんなところにいたのか」


 出航後、軌道が落ち着くと操縦室に集まっていた面々はそれぞれの持ち場へと散ったのに、彼女はどこへ行くでもない、ずっとこの場所で眼下を眺めていたのだ。呼吸をするのも忘れるくらいに、ずっとずっと。空気抵抗で少し揺れるが、そんなのはすぐに慣れた。地上とは違うふわふわとした感覚が心地いいとさえ、エスターは思ってしまっていた。


「だって、空がこんなに青くて」


 濁って見えていた空、閉鎖されていた空間、当然だと思っていたそれらの景色が実は偽りであったということをまじまじと感じる。初めて見るはずなのにどこか懐かしいと思ってしまうこの気持ちは何なのだろうと、思ってはみるが口に出さず、エスターはまた窓の外を眺めなおした。

 頬と両手をべったりと窓につけて食い入るように見つめる姿を、ディックは鼻で笑う。


「バカだな、エスター。なんて格好なんだ。まるで、子供だ」


「子供よ」


 彼女はすかさず答えた。


「ねぇ、星がこんなに大きい。本当に、この星に、私達は、いたんだよね……」


「そうだな」と、その父はぶっきらぼうに言い放ち、彼女とは逆に向いて窓にもたれかかった。


「こんな大きい星の中、あんな狭苦しいところに閉じ込められていたのかと思うと、空しささえ覚える」


 ドームの外壁が視界に入っていた。錆付いた巨大な卵形の鉄の上を這うように蔦や蔦状の植物が絡みつき、その中に何らかの秘密を大事に隠し持っているかのようにさえ見える。その中に町がありビルが建ち並び、ひしめき合って沢山の人間が暮らしていようとは。外界からは想像も付かない。

 ドームを取り囲むようにして広がる緑の大地、更にその向こうには海が。緑と青のコントラストが眩しすぎた。まるでその光を避けるかのように窓から目を背ける父の姿に、エスターは気づかなかった。青色に浸り、心を澄ました。いつまでもこの景色が続けばいいのにと、記憶に焼き付けるようにじっと眺め続ける。


「平和なのは今だけだ」


 静寂を絶つように、ぼそりとディックが呟く。


「こんなゆったりした時間なんて、今になくなる。俺たちの行動に気づいた政府が追跡を開始するまで、時間的余裕なんてないに等しいはずだ。態勢が整うのが先か、奴らに見つかるのが先か。――それより、政府発表とは自然環境が……。やはり、思った通りなのかもしれない。実地調査の必要性が」


「そういえば」


 エスターの高い声がディックの言葉を遮った。


「ジュンヤ、どうしてるか、知ってる? なんだか様子がおかしかったけど」


 どのタイミングで思い出したのか、エスターが突然話題を変える。覗き込むように背の高い父親を見上げる青い無垢な瞳に、ディックは一瞬言葉を詰まらせた。


「気にするな。――あの程度で」


 そこまでは口にしたが、彼はそのまま口を噤んでしまう。


「ああ見えて、ジュンヤ、パパのことものすごく尊敬してるのよ。いつだったか、大真面目に話してくれたことがあって」


 そういって少し振り返ったエスターの視界に、ジュンヤの逞しいシルエットが映った。開け放したままのドアからこちらに近づいてくる。彼女は慌てて口を塞ぐ。一瞬体温が上がり、汗が手のひらに滲んだ。たった今あなたの話を、そう思うと更に恥ずかしさが募り、彼女の顔はみるみる赤くなっていった。

 何か思い詰めたような表情で現れたジュンヤにかける言葉が見つからない。エスターは焦りで思わず息を止め、ゴクリと大きく唾を飲んだ。


「あ、あのさ」


 しかし、身構えた彼女の手前に来ることなく、ジュンヤはディックの前で立ち止まった。どこかしらそわそわしたジュンヤの態度は明らかにおかしかったが、そのときのエスターは全く気づかず、ただ彼の発した言葉にだけ興味を注いだのだった。


「もしかして、この近くに“ニッポン”……とか言う場所が、ある?」


 恐る恐る、目を少し泳がせて彼は小さな声でそう言った。

 ディックは何を感じたのかにやりと薄く笑い、「そんな単語をどこで」と眼鏡を光らせる。


「確かに、この大陸の東にそのような国があったようだな。大戦後、国土の殆どが海に沈んだと聞いた覚えもあるが。それが、どうした」


「い、いや。あの……そこへって、行くことが出来るのかなと思って。ホラ、昔父さんが生きていた頃、俺は数少ない日系だって聞いたことがあったから。その……、もし……行けるのなら、と言うか」


「興味本位に行けるほど、安い事業じゃない」


「だ、だよな」


 目も合わさず腕組みを崩さないディックの態度に、彼は意気消沈し、押し黙った。大きなジュンヤのため息が静かな操縦室の中で増幅した。


「――だが」


 それまでもたれていた窓から、ディックは徐に背を離す。口の中で何か呟き、


「行ってみるのは悪くない」


 ジュンヤとエスターは目を丸くした。唐突に何かが浮かんだのか。

 ディックの巨体がゆらりと視界を塞いだ。歩を早め、操縦室を去ろうとする父に、エスターは慌てて駆け寄った。


「環境……データ……、目的は何なんだ。早急に準備を。ハロルドに行ってくる」


 もはや娘は眼中になかった。文章にならない言葉とともに、古い白衣を翻して彼は進む。

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