12・遭遇
「ジュンヤだけならまだしも、エスターまで姿を消したとはどういうことだ」
それまでエアバイクのエンジン音だけが聞こえていた風除エリアに、ディックの低い声が響き渡った。
静かな凄味にハロルドの血の気が引いた。心臓に悪い。銀縁眼鏡の奥で見開いた青い瞳は、その中に全てを飲み込もうとしているかのような黒いものを潜ませていた。ただでさえ約二メートルの巨漢、白衣の下に隠した筋肉がぴくりぴくりと音を出すのが聞こえてくる。
「す、すまん。あんまりにも突然なことで」
ここまで言ったあとでハロルドは、怒号がくるのを確信した。
「言い訳など聞きたくもない」
やはり、思った通りの台詞だ。これでゲンコツの一つでも飛んできたらすっきりするようなものの、そこで敢えて何もしないのが彼流なのか。ディックは怒りで震えるのをぐっとこらえ、大きく一つ唾を飲み込んだ。
「幸い、エアバイクには追跡装置が付いてる。エスターも操作パネルを確認して、ジュンヤのいる北方角へ向かっているようだ。俺たちもそこへ向かう。――但し、微弱電波追跡の後でだが」
「ディック、その、電波の発信源は特定できたのか」
話題が変わったのにホッとして、ハロルドは一歩後ずさりした。
「――まぁ、大体の位置はな。ここから東方向へ二キロ程度直線で向かった先に、何かがあるようだ。行ってみないと何とも言えないが。四台あったエアバイクも今は二台きり。俺とお前、二人で行くしかないようだな」
*
野菜畑を抜けた先、森の少し手前に古い小屋が建っていた。ドームにはない建物だ。
その殆どが木で造られ、雨風に打たれて所々朽ちかけている。屋根瓦は特に印象的で、強い日差しを跳ね返し、黒光りしていた。そんなに大きな建物ではない。ネオ・シャンハイでジュンヤたちが住んでいた家より、一回り小さいくらいだ。
柱に手を掛けると、建物全体がぎいと鳴った。ジュンヤは慌てて手を離す。
酷いあばら家だ。
築何年、そんなことを考えてしまうほど古めかしい。木の匂いをかぎながら、恐る恐る辺りを見回す。家の周りに生えた腰丈ほどの立派な垣根。内側には背の高い木が何本か散在し、その根本にひっそりと咲く小さな色とりどりの花たちは、突然の来訪者を警戒するようにじっとジュンヤに花弁を向けていた。
「確か、ここで間違いないはずだけど」
ジュンヤは右手に握りしめていた何かを覗き込み、目の前の小屋と見比べた。四角い紙切れのようなもの。きつく握りすぎて角までシワになっている。
家の裏側から表側に向かって互い違いに埋められた平べったい石は、細かい砂利の上に浮き出てまるでジュンヤを庭へと誘導するかのように続いていた。
「誰か住んでるのか……」
思わず口から出てしまうほど庭は手入れが行き届いている。一歩、また一歩。主の分からない庭に足を踏み入れる。
「まさか、こんな所に人なんて」
そこまで言ったとき、ジュンヤの肩に何かが触れた。とっさに手を振りほどき、半分振り返って身構える。すぅーっと汗が引いた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
若い男の声。
立っていたのは、自分より少し年上の青年だった。黒いスーツを着込み、長めの黒髪が風に揺れている。
彼はきりりとした瞳を細くして、優しく微笑むと、ジュンヤにこう言ったのだ。
「ようこそいらっしゃい。君、そのメモの通りここに来たんだね」
淡々とした台詞に、ジュンヤの心臓が大きく反応した。脈拍が上がる、顔が火照る。ジュンヤの右手は、思わず四角い紙をくしゃくしゃに潰した。無意識に右手を隠す。
「何で、メモのこと知ってるんだよ。お前……何者だ」
「何者? ――そうだね」
黒い男は少し思案し目をそらすと、やがてにっこりと笑ってジュンヤに向き直った。
「君の、お父さんの知り合いさ。ESのジュンヤ・ウメモト君」
予想だにしない応えに、ジュンヤの胸は更に高ぶった。紳士的なその男の正体も知らず、ジュンヤは招き入れられるがままに、彼の後について行った。
キラキラと木々から漏れる日差しが、古めかしい小屋の縁側を照らしている。黒いスーツを着た正体不明の青年を警戒しながらも、ジュンヤは台詞の意味を知りたくて、誘導されるまま縁側の座布団に腰をかけた。
男は靴を脱ぎ、そこから奥へ進んでお茶道具を運んできた。
「どうぞ」
と客人に緑茶を差し出す。
「あの」
その一言がジュンヤの精一杯だった。
男は彼の心を見透かしたようにまた薄く笑い、ジュンヤの少し後ろに正座すると、おどけたように話し始めた。
「ごめんごめん、名乗りもせずに。僕はリー。ティン・リー。初めまして、ここにはお客なんてめったに来ないもんだから、つい面白くて勝手にこんなこと。あつかましくて申し訳ない」
出されたお茶を軽く会釈をして啜る。……うまい。ドーム大量生産品の安い茶じゃないなとすぐにわかる。
「まさか本当に来てくれるとは思わなかったよ。シロウの息子さんがさ。ところでお父さん、元気?」
「――父は、三年前に亡くなりました」
ジュンヤの一言に、リーの言葉が詰まった。気まずそうにため息をつき、
「彼と最後に出会ったのは、僕がまだ君より少し若かった頃だからね。……そうか、亡くなったのか。世話になったんだけどな」
白々しく話し続けるのを、ジュンヤは不審に思った。湯飲みをそっと縁側に置き、身体を少しひねってリーの正面を向いた。
「あなたみたいな若い人が、父と知り合いだなんておかしくないですか。第一、こんな所に家を持ってるような人と、父が関わり合っていたとは思えない。知り合いだなんて言い出すから一体どんな人間なんだろうと思って付いてきたけど、本当は何者なの。何で俺が写真裏のメモを見てここに来たこと知ってんの。――なんか、おかしいよ」
「なあに、おかしくなんてないさ。そのメモを渡したのは、僕なんだからね」
――一瞬、心臓の音が止まりそうになった。
聞き直そうとしたジュンヤを無視するように、リーはふと立ち上がると、庭へ降りた。小屋の陰へと向かっていく。ジュンヤは彼を目で追った。どこか得体の知れない寒気のようなものが感じられ、無意識に半袖から出た両の二の腕を擦っていた。
*
数分、リーは戻らなかった。その間にジュンヤは、悶々とリーの正体を考えていた。無理矢理ポケットに隠した紙切れをもう一度取り出し、色あせた山の写真とその裏の手書きメモを何度も見直す。
山の形は紛れもなく、この小屋から撮ったものだ。風景と重ね合わせて間違いなかった。部屋に残してきた数枚の写真にも、この小屋が写っていた。一枚だけ、しっかりと書かれたメモ。全ての写真裏にサインが残されていたが、これにだけ手紙のようなものが添えてあった。
≪もし、君がドームを抜け出す手段を得たら、僕と島で会おう。写真に写したあの小屋で待っている。自由を勝ち取るんだ≫
この下にサインのようなものがあるが、ボロボロで見えない。
写真は、シロウの形見。誰にも見せず、隠してきた宝物。将棋とともに、父が残してくれた自分の祖先“日本人”とやらに繋がっている、大事なもの。今まで誰にも話したことがない。
砂利を踏む音がした。リーが戻ってきたのだ。
ジュンヤは慌てて写真をズボンのポケットに押し込んだ。
「何だよ、連れがいるなら最初からそう言ってくれよ、ジュンヤ。もう一人分用意しなくちゃ」
……エスターだった。リーに手を引かれて恥ずかしそうにうつむきながらこっちにやってくる。ジュンヤの中に、少し、もやもやしたものが渦巻いた。
「ごめん、ついて来ちゃった」
彼女の顔が、風に揺られた金髪の影で火照っている。それは自分に対しての申し訳なさから来るのか、それとも、年上のいい男に手を握られたからなのか。そんなこと、訊かなくても分かっている。だって、リーは自分の何倍も紳士で、カッコいい。ジュンヤは勝手に自分の中で結論付けた。
エスターは促され、リーとジュンヤの間に腰を掛けた。小さな小屋の縁側で、更に居場所がなくなったと、ジュンヤは思う。
「はは、大丈夫、彼女をとったりはしないよ」
あどけなく笑うリーが恨めしい。
更に、更に気まずくなった。
「もしかしたらと思うけど、一つ聞きたいことがある」
ジュンヤは気まずいついでに、一番訊きたかったことを――最も恐ろしい質問を、リーにふっかけた。
「もしかして、いや、まさかと思うけど、あなたは“政府の人間”、じゃないのか」
エスターを挟んで左側、ちらと目を向け反応を見る。
「おかしなことを言う」
そしてリーはまた笑った。
「政府、政府とはちょっと違う。かといって、君達みたいなアナーキストってわけでもない。そういう存在だよ、僕は」
リーの曖昧な答えに、ますます不信感が募った。
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