110・最後の手段
“エスターの記憶がまだ残っている”とマザーが示唆していたのを、ディックはずっと気にかけていた。
脳内データを消去して書き換えたわけではなく、共有化している状態なのかもしれない。彼女の脳の中で二つの意識が混ざり合っている可能性も、ないとは言い切れない。
不安定で、時折意識を無くす、それが破壊行動に出ているのだとしたら、破壊プログラム停止が何らかの糸口となって、エスターとマザーの意識を切り離すことができるかもしれないなどと、ディックは自分に都合の良いよう解釈してしまう。
あの身体は、元には戻ることはないだろう。機械化した肉体は、遺伝子構造そのものを変えてしまったはずだ。外見的なものはどうにかなるかも知れないが、きっと真っさらな人間には戻れない。
マザーは、ディックが娘の身体を取り戻したがっていることを知っていて、あの時、わざと“撃ち抜け”と言ったのだ。恐らくは“何もかもが元通りになることなどあり得ない、だから、希望のあるうちに全てを終わらせろ”という意味だったのだろう。
それは、彼女なりの優しさだったのか。AIに過ぎないマザーに、そもそも優しさなどという概念があるのかどうか。
ディックには、まだエスターがあの身体の中で眠っているような気がしてならなかった。根拠はと聞かれても、恐らく答えられない。トリストで出会ったときのマザーと比べ、違和感があった、その程度のことだ。
“私の中で何かがうごめき始めた”という彼女の台詞から推測するに、ティン・リーの流し込んだ破壊プログラムには、波がある。
エスターとの同化後、極めて早い段階からエスターの意識は消え、マザーの意識が身体を動かしていたのだろう。
生身の肉体に慣れない彼女の意識が途切れたときに破壊行動が起き、正気に戻ればそれを止める。この繰り返しなのではないだろうか。
マザーの言うように、すぐに止めるべきだった、撃つべきだった、そんなことはわかっている。
だが、娘を自ら傷つけることは、あの時点では出来なかった。
“心臓”を撃てば死ぬ身体じゃない、殺す気なら、撃つのは“脳天”。
トリストの中と違い、思考を読まれなかったのは幸いだった。頭だけ無事なら、“自己修復機能”で何とかなるかも知れない。その考えに辿り着くまで、どうしても葛藤が必要だった。
彼女は苦しそうに悶えていた。エスターの声で唸っていた。
――『次は、街が破壊される程度のことでは済まされない』
目に見えないところで、更なる被害が拡大している恐れがある。ためらっている場合では、なくなってしまっていたのだ。
「“E”を復元できると、未だ思っているのか。甘いな、D-13。……私は、この意識を保つことさえ、容易ではない状態なのだぞ」
マザーは言いながら、背中の羽を広げようと、必死にもがいてくる。ディックは大きな両腕で、彼女の身体を掴んで離さない。腕がピリピリと痙攣し始めた。不安定な足元が崩れかけ、バランスを失いそうになっていた。それでも、ぐっと力を入れ、彼女を後ろから抱え込んだ。
銃声が止まる。とうとう、液体が底を突いたのだ。
「錠剤とカプセルも、いまのうちに突っ込んでしまえ」
「い、言われなくても」
左足を引き摺りながら、瓦礫を越えていく。
治癒促進剤の副作用と、燃えていく街から発生するガスで、ジュンヤの意識は朦朧としてきていた。
一刻も早く、彼女の口に投与しなければ。
布鞄から銀ケースを取り出し、中身を左の手のひらに取り出した。手の中から零れないよう、慎重に運ぶ。じっとりとかいた汗で、何粒ずつかのそれが溶けてしまわないか。そもそも、彼女が口を開けてくれるかどうか。
天使の真ん前に来ると、ジュンヤの緊張感は更に増した。
時間が無いとわかっていながら、彼女の変わり果てた姿を、しっかりと目に焼き付けようとしている。攻撃によって剥がされた装甲の下は、やはりエスターの白い肌。小さな身体をピッタリと包み込んだ鎧を全部引っぺがしてしまえば、簡単に彼女に戻るのではないかと、錯覚してしまう。顔半分覆ったマスクの下、彼女はどんな目で自分を見上げているのか。自分を誰だか認識しているのか。
「早く……してくれ。身が持たない」
ディックが急かした。
嫌がる彼女の頬に手を当て、指で口をこじ開けようとする……が、歯を食いしばり、それ以上開けてくれそうにない。それどころか、親指の肉を噛まれた。喰い、千切られる、血が、彼女の口に注がれていく。
どうにかして、上手いこと口の中に投与する方法、彼女が嫌がらずに受け容れる方法は、ないのか。
――ジュンヤの中に、一つの方法が浮かぶ。
彼はおもむろに、左手の錠剤とカプセルを全部、自分の口に含んだ。
「おい、何を」
焦って声を上げるディック。だが、今は四の五の言ってられない。
そのまま、ジュンヤは両手で彼女の顔を押さえ、自分の唇を、ぐっと、彼女の唇に押し当てた。
驚いた彼女が、噛んでいたジュンヤの指を離す。その隙に、ジュンヤは舌で歯をこじ開けていく。柔らかなエスターの唇と、舌の感触。舌をくねらせて、自分の口から彼女の口へ、錠剤とカプセルを送り出した。喉の、奥へ。飲み込めと願いを込めて。
天使から、力がフッと抜けた。
だらんと腕を垂れ、次第に身体が後ろに傾く。背中のディックに、彼女の全体重がのしかかった。力の抜けた天使の身体は、成人男性より重く感じられた。その上、ジュンヤは彼女から唇を離そうとしない。
ただでさえ崩れそうだった足元に、新たな亀裂が入り、身体が沈み始めた。
「重い……、流石に、苦し……」
グラッと、全身が後ろに持って行かれるような感覚の後、ついに床が崩れ落ちた。ガクンガクンと激しく揺さぶられながら、落ちていく最上階の床と共に、三人は階下に放り投げられた。容赦なく下の階の床に叩き付けられ、身もだえしている間に、今度はビル全体が大きく揺れ始める。
「ディック、ヤバい、変な揺れ方してる」
落ちた穴の上から、バースが覗き込んでいた。どこに隠れていたのか、ずっと姿を見せていなかったロボット犬のフレディも。
「こっちへ来るんだ。転移装置、……ジュンヤ、転移装置は」
肝心のジュンヤは、天使と一緒に気を失っている。落下の衝撃で、どこかに頭をぶつけたらしい。
天使の身体の下から上半身だけ抜けだし、すぐ側で倒れているジュンヤの身体を揺らす。激しく何度か揺らすと、やっとジュンヤは薄目を開けた。
「バースとフレディがこっちに来たらすぐに、転移装置で飛ぶんだ。でなきゃ、ビルもろとも崩れ落ちて、火の海に真っ逆さまだ」
ディックの声に飛び起きて、懐から転移装置を取り出すジュンヤ、
「ざ、座標は」
「そんなのはどうでもいい。ここじゃなかったら、どこだって構わない」
赤い端末を開いて操作していると、上からバースとフレディが、瓦礫伝いに降りてきた。
ドームの中、たった一つだけせせり立って残っていた政府ビルが、ついに大きく傾き、根元から倒れていく――。
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