109・囮
身体中すすだらけのディックの目は、心なしか赤かった。まぶたが厚ぼったく腫れ、涙の跡が頬に残る。“泣いていたのか”などと訊くのは野暮だ。彼だって父親なのだ。娘の変わり果てた姿を目の前に、正気で居られるはずはない。
それでも、彼は気丈に顔を上げていた。まだやれることがあると、希望を抱いているような表情で。
「命を捨てに来たのか」
「まさか。エスターを救いに来たんだよ」
ニヒルな笑いは、普段のままだ。ジュンヤは安心して、ゆっくりと息を吐いた。
政府ビルが倒れずに残っているのは、ある意味奇跡に等しい。ビルの地上付近はすっかり焼かれ、あちこち崩れ落ちている。二階が一階を押し潰し、三階が二階を押し潰しの繰り返しが起き、バランスが少しずつ崩れて傾きかけているが、まだ倒れる気配は無い。ドームの上空でエネルギーを放射し続けるマザーに向かうには、ここから飛び立つしかないようだ。
「アンリとレナで、取り急ぎ、破壊プログラムを打ち消すものを作ってくれたんだ。効果の程は期待しないでくれって言われたけど、これをどうにかしてエスターに飲み込ませようと思ってる」
腰にくくりつけた布鞄から、液体の入ったボトルと、錠剤・カプセルの入った小さな銀ケースを取り出して、ディックに見せる。
「飲み込ませるってことは、口から? 無茶だな」
「口以外に、あの身体に隙がない。一応、液体を打ち込めるよう、エネルギー銃を改良したヤツも持たせられたけど、エスターの身体に浸透させなきゃ意味が無いってさ。どっちにしろ、至近距離まで近付かないと、話が先に進まない。改造エアバイクで彼女に近付いて……ってのは、どうかなと」
「で、操縦させるためにバースを連れてきたというわけか。お前の折れた足では上手く操縦できそうにないからな」
「違う、俺が勝手に名乗り出たんだ。ジュンヤに頼まれたわけじゃないよ」
バースは反論したが、ディックは彼と目を合わせようとはしなかった。
「まあ、いい。お前らのやりたいことは大体わかった。ただ、現実的だとは思えない。空中戦で全ての決着をつけようとするのは無理だ。せめて地に足が付くところで動いた方がいい。――さっき、瓦礫の中を散策して、使えそうな武器や破損を免れたエネルギーボトルを回収した。これを使って、マザーをここに誘い込み、取り押さえた後飲み込ませる、でどうだ」
「そんな簡単に、誘い込めるのか」
「……それこそ、やってみなきゃわからんが」
空に舞い上がり、手の届かなくなった天使を、ディックはギッと睨み付けた。
「ジュンヤ、携帯端末は持ってるな」
「あ、ああ」
「全部終わったら、それを使って、ここから脱出する。絶対になくすなよ」
「わかってる」
*
ジュンヤ一人を崩れかけた政府ビルの最上階に残し、バースの運転する改造エアバイクは、後部座席にディックを乗せて走り出した。
天辺まで昇った太陽の光がドームの天井に開いた穴から容赦無しに降り注ぎ、まぶしさに目を細める。いくら滞空時間が長くなるよう改良したとはいえ、エアバイクで高度を保ちながら進むのは難しい。落下しないよう、目一杯アクセルを踏み込んだ。
「……で、どうすんの。誘い込むったって、話を聞いてくれるような状態じゃないみたいだし」
ディックに言われるまま、宙に浮かんだ天使目指して運転していたバースは、まともな答えが返ってこないだろうことを覚悟の上で、後部座席のディックに尋ねた。
さっきから、手持ちの武器を調整するような音や、マガジンを装填しているような音が聞こえている。それだけで、嫌な予感がぷんぷんする。
「危険だからヘルメット被って」
バースが言っても、ディックはそれすら拒否した。
「俺の顔は見えていた方がいい。その方が、効率が良い」
囮になる気なんだろうが、含みを感じる。とんでもないことを考えていなければ良いのだが。
「いいから、至近距離まで近づけ」
白銀の天使は、目に見えない何かを身体に取り込むよう、大きく手足を広げていた。風の流れが変わり、彼女に空気が吸い込まれたかと思うと、フッと流れが止まり、エネルギーを放出する。彼女に近付くタイミングは、放出直後。その僅かな時間だけ、彼女の身体に隙が出来るのだ。
「タイミング、見逃すなよ」
背後からのプレッシャーに負けぬよう、バースは歯を食いしばった。
「わかってるよ!」
放出された電流にぶつからぬよう、間を縫いながら進む。
右へ左へ車体がぶれると、
「ちゃんと運転しろ」
ディックの怒号が飛ぶ。
下から吹き付ける熱風で、汗が滝のように流れ出た。ハンドルを握るバースの手は濡れ、滑りそうになる。
天使の顔が、徐々にバースにも見えてきた。
彼女がエスターであるとは、とても思えない。遙か昔の物語に出てきそうな、白銀の鎧に身を包んだ天使だ。大きな翼も、鎧も、空から降り注ぐ光に照らされて、神々しく光っている。
背中でディックが、座席を両足で挟み込んだまま急に立ち上がった。ドンと、軽い振動がして車体が左右に揺れた。
「な、何してんだよ」
慌てて振り向いて唖然とする。ディックは、天使目掛けてエネルギー銃を撃っていたのだ。
銃弾が天使の羽をかすめると、彼女はバースらの存在に気付き、ぐっと身体をこちらに向けてきた。
「何してるって。見たまんまだ」
続けて数発撃ち込む。彼女の左翼に当たり、バチッと火花が散る。
「アレって、エスターなんだろ。何で撃つんだよ! 気でも狂ったのか!」
「ハンドルを左に大きく切って、Uターンしろ。そのまま政府ビルまでマザーを誘導する」
「ちょ……」
「急げ!」
天使が動き始めた。スピードを上げてこちらに向かってくる。
ディックは攻撃の手を止めない。終いには懐からエネルギーボトルを取り出して、接近してくる天使目掛けて放り投げた。今度は本体に当たり、小さな爆発が起きる。装甲を破って肉を傷つけ、血が流れ出てたが、躊躇する様子もない。次から次へ、攻撃を繰り返す。持っている武器を全部消化する勢いだ。
天使との距離が縮まる。このままでは、追いつかれてしまう。あと少し、少しでジュンヤの待つ政府ビルの最上階に辿り着くのに。
瓦礫の中で、ジュンヤは痛む足で懸命に立っていた。エネルギー銃に例の液体を充填し、いつでも撃てるよう構えている。
「頼むぞ、ジュンヤ!」
ディックはバースの上に覆い被さってハンドルを奪うと、車体を右に傾けてジュンヤの視界を広げた。そのままズザザッと瓦礫に突っ込み、エアバイクを急停止させる。
傷ついた天使がジュンヤの真ん前に迫った。
「『エスターの身体に浸透させなきゃ意味が無い』……つまり、こういうことか」
腹の真ん中に出来た傷口に照準を合わせ、数発。命中し、天使は動きを止める。
しかし、油断は出来ない。
続けて更に数発撃ち込む。
瓦礫に転げ、悶え始めた天使の姿に、心が痛んだ。それでも、完全に液体が浸透し、破壊プログラムが停止するまで、攻撃の手を緩めるわけにはいかなかった。
エネルギーボトルの爆発で傷ついた彼女の腹部からは、血が止めどなく溢れ出ていた。ベースは間違いなくエスターだ。
痛みを堪え、上げる悲鳴も、唸り声も、エスターそのものなのに、何故こんなことをしなければならないのか。大好きだと、守ってあげたいと、初めて出会った時からずっと思っていたのに、だ。
「ためらうな、撃ちまくれ!」
エアバイクを乗り捨てたディックが、よろよろと立ち上がった。ボサボサになった髪を揺らし、瓦礫を乗り越えてマザーの元へと歩いて行く。
ビル風がぷうっと吹き、身体から熱を奪った。
ジュンヤもディックも、エアバイクを運転していたバースも、体力の限界をとうに超えていた。
おもむろに天使の背後に回ろうとするディックを、ジュンヤとバースが止める。しかし、彼は言う。
「死なない、俺は死なない。こいつも、俺の血を引いてるんだから、死にはしない。早いとこ終わらせて、さっさと帰るんだ。早くしなきゃ、このビルも崩れ落ちる。迷うな!」
ボトルの残量が、目に見えて少なくなった。それでも、最後の一発まで、撃ち続ける。
マザーの息が、荒い。マスクの下で、苦しそうに顔を歪めている。
背後からディックが翼ごと胴体を抱え込むと、彼女は身をよじって激しく抵抗した。
「は……なせ、D-13」
「ようやっと、正気に戻ったか、マザー」
いつの間にか、彼女の腹の傷が塞がっている。自己修復機能が確実に受け継がれていた証拠だ。
問題は、破壊プログラム停止ソフトが、彼女の中でまともに起動したかどうか。
「腹や胸を撃ち抜いたくらいじゃ、死なないんだよ……、その身体は。残念だったな」
肩で息をしながら、ディックは更に強く、マザーの身体を抱きしめる。
「エスターは、まだ、その身体の中で生きてるんだろ。破壊行動なんかやめて、さっさとエスターの意識を戻してくれ。落ち着いたら俺が、お前を電子の海の中に帰してやる」
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