51・何も、残らない

 全て言わなれなくても、わかっていた。当然すぎるくらい、エマードには何の希望も残されてはいなかったのだ。

 郊外のラボ、塀の向こうから聞こえていた主婦たちの会話や子供の遊ぶ声、それらは全てどこか遠く、彼とは一切縁のない場所で起きている出来事だった。日常など、どこにもない。試験管の中、研究室の水槽、そしてNCC。ラボに配属され、政府ビルにやってきても、彼の運命は変わらなかった。結局はどこかで誰かが、彼を不幸にしていく。それがティン・リーという男なのだとわかったくらいで、そこから何の進展もない。

 体中の細胞が砕けてしまいそうな、だがそれは決してあり得ない現象なのだ。どうにも出来ない身体を呪ったところで、ティン・リーを恨んだところで、今この状況が打開できるわけではない。手に入れたと思っていた幸せが音を立てて崩れていくのを、ただ傍観するしかない。

 顔中、汗や涙と鼻汁で濡れ、興奮して真っ赤になっていた。リーの能面を目一杯睨み付ける。怒りをどこにぶつけたらいいのか、悲しみをどうすれば払拭できるのか。混乱していく、混濁していく意識の中で自我を保とうとする。

 地下研究室に来たことで、ディック・エマードの身体は次々に異常をきたした。血圧が上がり、身体が火照った。震えも止まらない。視界が定まらず、ガクガクと歯が鳴る。

 幼児期から少年期、自我の形成されるべき最も重要な時期を、彼は地下で過ごしたのだ。忘れたくても忘れられなかった恐怖が、瞬く間にエマードを過去の世界へ引きずり込んでいく。たくさんの大人たちの目、そして手。注射針、メス、聴診器、手術台と緑色の水槽。


――『……が足りない、数値を上げるために――から採取した……を』


――『それは生命維持に関わる。再生能力を向上させるなら寧ろ』


――『――博士、13の心拍数が』


――『構わん、このまま――を』


 記憶からは、大事な言葉が抜けている。ただ、何種類もの声が頭の上で響いていた。



「君が居なくなって、それでProjectが終わってしまったとでも思っていたのか。D-13、君はあくまでProjectの副産物でしかない。君以前にもたくさんの実験体がいた、これからも実験体を用意して続けられていく。Projectが終了するのは、その目的が達せた場合のみ。――まだ、途中段階なんだよ」



 薄暗い照明を背に、リーは鋭い目をエマードに向けた。逆光ではっきりと表情は見えないが、切れ長の目と白い歯が僅かな光を反射している。清潔な白衣を着て医師の格好はしていたが、闇にたたずむ姿はまるで死の世界の番人のよう。

 配管がむき出しになった冷たい実験室の天井は、エマードの懐かしい屈辱を蘇らせる。同じことが繰り返されていくのかと思うと、彼の息は次第に荒くなっていった。


「まるで、あの水槽の中にいた少年の頃に戻ったみたいじゃないか。怯えて。その――」


 リーの腕が不意に、床に倒れたエマードのジャケット内側に潜り込んだ。固い黒い物体がスッとリーの手の中に移動し、少しだけ腹の辺りが軽くなったところでハッとする。


「――大事な銃で僕の頭を撃ち抜いてしまえば、一瞬で解決するはずなのに。愚かしい」


 男は引き金の間に指を入れ、クルクルと器用に回してみせた。数回転させた後、持ち直してデザートイーグルの銃口をエマードの額に向ける。

 安全装置を外す仕草に、エマードは思わず腰を浮かせて息を飲んだ。


「君は、結局怖いだけだ。大切なものが奪われていくのも、自分自身がなくなってしまうのも。どうにかして生き続けたい理由でもあるのかな。そうでないなら、いっそのこと、この銃で君の脳天を撃ち抜いたらどうだ。砕けてしまえばきっと、再生能力など発動せずに終わる。一瞬で死ねる。それをしないのは何故。やっぱり、彼女のことを愛しているからか。それとも、彼女の腹の中にいる、君の遺伝子を受け継いだ生命体に未練でも。君の行動は不可解極まりない。私の頭では到底理解できそうにない。私は君を逃したことを後悔したが、君を知れば知るほど、君は失敗作だったのだと思わざるを得ないよ」


 氷のようなリーの視線、感じたことのない恐怖がエマードの身体を突き抜けていく。


「君は実験体としては成長しすぎた。有用なのは遺伝子。だが、その採取も終わった。つまり用済みだと言うことだ。だのに、何故君を殺さないのだと思う」


 追い込まれた鼠のように、エマードは研究室の床に両腕を付け、肩をすくませる。視界が定まらない。顔はリーの方を向いていたが、目はキョロキョロと、逃げ場を探してさまよってしまう。

 逃れなければ、早くこの空間から逃れなければ。

 焦りが、ますます鼓動を早くした。


「エレノアには無事に子供を産んでもらわなければならない。そして、Projectを完成させる。君には協力してもらうよ。残念ながら君の頭の良さは、僕の計算外だったんだからね」


「嫌だ、と言ったら」


 渇いた喉に無理矢理唾を流し込み、一言。

 それが、逆鱗に触れた。

 引き金が引かれ、轟音と共に激痛が走る。エマードの左肩、鎖骨から上腕筋までビリビリと電気が走ったように凄まじい振動を起こしたかと思うと、大量の血が辺り一面に噴き出した。肩を銃弾が貫通し、骨と肉が砕けて飛び散る。薄暗闇が赤いまだらに染まった。

 悶絶、呻き声を上げ、のたうち回るエマードに、リーはブンと銃を投げつけた。彼にはもう、鈍い音を立て床を滑っていく銃を拾い上げるだけの体力は残っていなかった。死んでいく左腕の感覚。



「君も、エレノアも、その子供も、粉々に砕いて二度と再生できないようにするしかない。最悪、エレノアの腹を割いて子供を取り出し、その細胞からクローンを作り出せばいいだけのこと。君がProjectに協力するなら、そんな恐ろしい真似はしないよ。かつての君とラムザ・エマードのように、この研究室の中で二人過ごせるんだ。最も優しい選択肢だと思わないか」



 ――視界が暗転していく。

 傷を治そうとしているのか、身体が熱を帯び始めていた。息苦しい、頭がぼうっとする。

 意識を失えば、リーの思うままだ。何とか意識を保たなければ。だが、身体は言うことを聞かない。遠のいていく、遠のいていく。


「しばらくそこで過ごすがいい。覚悟を決めるんだ。彼女の出産までYESの返事がなければ、僕は容赦なく君らを殺す。エレノアが子供を産むまでの間、君には存分に苦しんでもらうよ」


 遠くで言い放つリーの声が、かろうじてエマードの耳に届いた。

 悲鳴を上げそうだった。精神まで壊れてしまいそうな痛みを、彼は意識の片隅で感じていた。体中の神経が敏感になり、忌々しく冷たい研究室の感触が彼の脳を針のように突き刺してくる。

 左肩の骨や筋肉の断片があちこちに飛び散った床の上で大の字になり、彼はしばらく呆けた。

 体中の欠陥がうねり、傷を治そうと血小板がうごめいているのが感じられるほど、彼は過敏になっていた。

 ゆっくりと呼吸を整え、眼前から幻影を取り除こうとする。

 通気口から僅かな空気が流れる音、そしてエマード自身の呼吸音。誰も居ないとわかっていても、冷静になろうとしても、耳の奥で常に誰かが囁いていた。その中で一際はっきりと聞こえるのが、あのティン・リーの高い声だ。嫌みったらしく“D-13”と呼ぶその声を、確かに彼は子供の頃に聞いていた。

『銃で頭を撃ち抜いてしまえば』と言われた、その通りなのだ。

 このまま生き続けるのが嫌いなら、いっそのこと頭をぶっ飛ばせばいいのだ。まさか脳味噌の欠片になってまで再生などするまい。再生不能なまでに強烈な爆弾を抱え、点火すればよかったのだ。

 自分の身体に必要以上の再生能力が備わっているのだと知った日から、どうやって生きていったらいいのか、それだけを考えていた。

 死なない、死ねない。

 ならば、どう自分という存在を繋いでいくのか。

 それが、いつの間にか“どうにかして生き続けたい理由”を持ってしまった。

 ――エレノアだ。ティン・リーの画策通り、エマードは彼女と愛し合ってしまった。大切なものなど手に入れなければ、あっさりと死ねたのに。

 どうしようもない虚無感に襲われた。このまま朽ちるなら、朽ちていまえばいい。

 しばらくの間、彼は仰向けになって、冷たい天井を見つめていた。

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