77・焼失

 ガラス戸が砕かれ、一瞬にして廃墟同然になりはてた天文台まで、あと少し。

 心なしか雨は勢いを弱めたように思えるが、ぬかるんだ足元は更に悪くなるばかりで、状況が好転してきているとはとても言い難かった。


「ハロルド、もっと、もっと早く!」


 ウッドが急く。

 わかってる、そんな単純な言葉さえ口から出すのを惜しむくらい、彼は追い詰められていた。

 背後から熱気と共に近付いてくる二つの銀色の巨体が、唸り声を上げながら重い足を引きずるように進む二人を追い立てる。早く、いち早く建物に逃げ込まなければ。先に向かったキースが、きっと上手くやって待っているはずなのだ。

 油圧式スペアリングの鈍い音が迫る中、何とか建物の中に滑り込んだ。濡れた靴底が床を滑り、体勢を崩して転げる、立ち上がる、そしてまた前に進む。

 来る、来る。急がなければ焼かれてしまう、アレックスのように。

 地下から上がってくる煙の臭いが少しずつ館内に立ちこめつつあった。同時に炎の熱気も階段室を通って廊下を伝い、間違いなく建物全体を熱し始めている。

 時間がない。

 このままでは施設もろとも転移装置が燃え尽きてしまう。

 奥へ続く通路を必死に駆けた。壁を伝うように、一歩一歩、踏みしめるようにして走っていく。装備など、最早どうでもいい。最終的に転移装置に滑り込み助かるなら、少しでも身体を軽くして、早く走れた方がいい。二人とも無意識にそう感じたのか、走りながら上着を脱ぎ捨て、銃を捨て、空になった両手を必死に前に振った。

 狭い通路の先に、転移装置がある。その前に必ず、ベンが殺された一室の横を通ることになる。

 廊下に落ちる血液の赤は、何度も擦られたように荒く伸びていた。部屋に近付けば近付くほど濃くなる赤から目を反らし、奥の部屋を目指した。

 背後からガシャンガシャンと、明らかにロボットたちがまた建物の中に舞い戻ったような音が聞こえ、二人は顔を青くする。プシューと動きを止めたような音、そしてまた、動作を開始する音。

 逃げ切れるか。

 このままでは戻るどころか、生き残ることだって難しい。

 互いに顔を見合わせ、無言でうなずき合った。とにかく今は、前に進むしかない。

 転移装置のある奥の部屋まで、あと数メートル。今度は別の音が前方から響いてきた。まさかあれ以上敵が残ってはいまいと、危険な断定を無意識にしていたハロルドは、胸を潰されるような圧迫感に、思わず足を止めた。


「どうした、何してる、急いで!」


 ウッドが慌てて数歩戻り、彼の腕をむんずと掴む。


「待て、敵が、敵が転移装置の側にもいる」


「何だって」


 後方から迫る軽快な金属音でかき消されそうな、ギギギという鈍い音、耳を澄ませば確かに前方から聞こえてくる。


「キースが修正プログラムをインストールさせてるはずだろ」


「そこに、敵が転送されてきたのだとしたら」


 考えたくはなかったが、あり得ないことではない。


「だからって、立ち止まってちゃ、ヤツらに殺されるだけだ」


 言い放ち、ウッドは歩を速めてハロルドを押しのけ、転移装置のある一室へと足を踏み入れた。――そして、そのまま動けなくなった。

 ウッドの様子がおかしい。

 その背中に違和感を持ったハロルドは、そろりと足を前に出し、ゆっくりと彼の前に出る。

 開け放たれたままのドアの向こうから見えたのは、火を吐く銀色の恐竜型ロボットだ。

 敵は三体だけでは無かったのだ。しかし、今更キースを一人で戻したことに後悔したところで、どうにもならない。


「キース、キースはどこだ」


 思わず叫ぶハロルドの声に、返事はない。


「キースは……あそこだ」


 ガチガチと大きく震える指先を伸ばすウッドの視線の先――、人型のようなものが横たわっている。

 一足、遅かった。

 視界は赤く染まっていた。炎の赤と、血の赤。

 まるで血の海になりはてた埋め込み型の転移装置、焼け焦げたモニターや監視装置、くすぶる炎。恐れていた事態が既に起こっていたのだ。

 ハロルドたちは思わず息を止めた。

 辛うじてあのロボットたちから逃れただけだ。キースの左半身が、完全になくなってしまっている。喰い千切られたのか、砕かれたのか。散らばる肉片や骨、肉塊、踏みつぶされた銃。だがまだ生きていた。小さな呻き声、必死に伸ばす指先、視線を辿れば転移装置の操作パネルがインストール中と表示している。表情が見えない。それはもう、人間の顔をしていないのだ。

 どう返事をしたらいいのか、果たして応えたところで聞こえるのか、見えるのか。

 気が、おかしくなる。

 ゴウと炎が眼前に迫り、慌てて腰を落とした。キースの身体を喰い千切った猛獣が、今度は自分たちを狙っている。

 足のすくむハロルドに、ウッドは何度も呼びかけた。

 だが、ハロルドの耳には、もうどんな音も届かなくなっていた。


「床が光ってる……転移装置が再起動したんだ。飛び込むぞ、ハル! 聞いてるのか!」


 隆々とした筋肉で、ウッドは無理矢理、ハロルドの疲労した身体を引き寄せる。床下に埋め込まれた転移装置の円内までハロルドを引き摺り、パネル上に映し出された数字と共にカウントを始める。


「五……四……三……」


 放心状態のハロルドは、宙を見つめたまま、ぴくりとも動かなかった。

 ギリリと奥歯を噛むウッドの気も知らず、装置の稼働に安堵したのか、だらんと手首を下げたキースの息が細くなっていくのも知らず、室内にいた一体と外から追いかけてきた二体のロボットが、それぞれ炎を噴いて暴れ狂うのも知らぬまま――青白い光が、二人を包んだ。



 *



 島の天文台にある転移装置の稼働を知らせるサインが、ローズマリーの目に映る。総統執務室横の監視室にて、騒ぎが静まるのを待っていた彼女は、ギリリと監視モニターを睨み付けた。

 天文台からの画像は完全に届かなくなり、送られてくる最低限の情報だけが監視モニター上でスクロールしていく。静かに回る機械のファンが、空気の張り詰めた室内で唯一音を鳴らしていた。

 ローズマリーは虚し気に深く息を吐き、右隣に座ったティン・リーにゆっくりと身体を向けた。


「閣下、残念ながら、敵は一部逃亡を図った様子。装置の座標はここではなく、もっと東を指しています。恐らくはEUドームへ戻るよう、プログラムを改編させたのかと」


「まあ、そうであろうな」


 彼女の隣に回転椅子を持ち込み、悠々と足を組んで事態を傍観していた黒スーツの彼は、ため息の交じったような、力の抜けた声で応えた。


「施設爆破は」


「そちらはご心配なく。S-204型は当初目的通り、敵を追い詰めた直後に自爆装置を作動させた模様です。――敵の転移が幾分早かったのは明らかな誤算ですが」


「そこにエマードがいなかったのであれば、それで十分だ。ヤツを始末するのはこの私、機械の自爆などに巻き込まれて粉々になったなど、私は認めない」


 リーは言い放ち、ニヤッと口角を上げる。

 その横顔に女は顔を赤らめ、照れ隠しをするように長い金髪をかき上げた。


「それで閣下、どうなさるおつもりですか。TYPE-Cは焼失、この先、閣下にもしものことがあったとき、私にはどうすることも出来なくなってしまいました。この、最後のお身体も、どれだけ保つのでしょう。保存された身体の中で最も頑丈なものをあつらえたつもりですが、如何せん、度重なる複製でTYPE-Cの耐久度は急速に低下しています。以前は三十年以上使用出来たと記録にありますが、昨今では五年、二年と、徐々に更改の頻度が増していました。そんなことはないと断言出来ないのが残念でならないのですが、恐らくは一年と待たないうちに、身体は急速に老いていくのではないかと」


 ギシーッと椅子の背を鳴らし、リーは意味ありげにまた、ため息をついた。左手でぐいと髪をかき上げ、


「そうかもしれないね」


 それは悲しいようにも、投げやりにも聞こえた。


「ではローザ、私から一つ問う」


 女の両肩を抱き、自分の側に引き寄せて向き合う。彼女の赤らんだ顔が眼前に迫るも、リーは表情を変えぬまま、じっと彼女の目を見つめ続けた。


「私が、私たる所以は何か。私はこの身体を以て私たるのか。それとも、私という意識が私を成すのか。君ならばどう答える」


 まるで作り物のような端正な顔。男の物とは思えないきめ細やかな肌。ほんの少し高いが、よく通る声。

 ローズマリーにとって、それはティン・リーを好く確かな理由の一つだった。

 しかしながら、彼女は同時に、リーが常に身体を交換し続けなければ生きられないことも知っていた。

 秘書という立場になってからというもの、何度となく繰り返してきた行為。例え科学が発達し、アンチエイジング出来るようになったところで、TYPE-Cの細胞の衰えを止める術はない。彼女自身、外見年齢よりも長く生きる選択をした一人ではあったが、リーという存在と運命を共にし続ける中で、果たして生きていくとは何か、命とは何なのかを考えなかったわけではない。

 冗談にしろ何にしろ、彼が自分の存在を否定しかねないこのような疑問を持つに至ったというのは、彼女にとってあまり好ましいことではなかった。その疑問をずっと心に秘めていたのだとしても、彼の口から突いて出たのは、恐らく、いや間違いなく、ディック・エマードの存在が確実に大きくなっている証拠。

 二人の関係を考えれば不自然ではないのだが、だからといって軽視出来るはずもなく。

 何と応えるべきか。いっそのこと、聞かなかったことにしたい。

 思っても、リーの目線は射るように彼女を捕らえて放さなかった。


「君は私のこの姿しか知らないが、以前は全く違う姿形をしていたし、その前もまた、別の姿を借りていた。本当の自分がどんなだったかなど、最早忘れてしまった。君は私の身体の交換を身近で見続けた唯一の人間だ。君にはわかるはずだ。私とは何か、私の私たる所以は」


「それは……」


 言葉に詰まり、目線をずらしても、リーはそれを追うようにして、彼女の顔を覗き込んだ。


「私は、閣下がどのようなお姿になったとしても、お慕い申し上げるつもりです」


 誤魔化しのつもりで咄嗟に出た一言、後悔する間もなく、リーは顔を綻ばせた。

 肩に付いた両手にぐっと力が入ったかと思えば、次の瞬間ストレートの黒髪がわっとローズマリーの眼前に迫る。

 頬にキス。


「流石ローザ。君は、私の心は何でもお見通しなのだな」


 そうして彼は、彼女の口を優しく唇で塞いだ。

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