53・囚われの

 目を覚ますとエスターは、抱きかかえられるようにしてジュンヤの腕の中にいた。彼の温もりを感じつつ仰ぎ見たが、表情はいつもの彼ではなかった。

 見上げた天井には見覚えがなく、凍てつく気配がその場全体に広がっているのを本能で感じる。 

 青色に支配された大きな水槽が視界の半分を占める。悠々と泳ぐ魚たちがキョロキョロと彼女を見下ろすのに驚き、エスターは思わず肩をすくめた。ドーム育ちの彼女は、これほど大量の魚を一度気に目にしたことがないのだ。小さな魚から一メートルを軽く超すサメまで、ありとあらゆる魚たちが彼女を観察している。

 水槽から漂ってくる冷たい風が、エスターの腕や頬を撫でていく。半袖から覗いた白くか細い腕を擦りながら、彼女はゆっくりと身体を起こした。ここはどこなのかと彼女が言葉を発する前に、ジュンヤが口を開く。


「政府ビル、ここは総統閣下のリラックスルームだよ」


 総統閣下――ジュンヤから思ってもみない呼称が出たところで、エスターは更に肩を震わせた。

 改めて室内を見回す。

 彼女は、巨大な水槽が一面を占める、無機質な室内にいた。革製ソファの上、ジュンヤの膝を枕にして横になっていたようだ。視界に白いものが広がり、エスターは目を瞬かせた。いつの間にか、真っ白なドレスに着替えさせられていたのだ。意識を失っている間に何が起きたのかという不安と、誰が自分のTシャツを脱がせたのだという恥ずかしさで、彼女は思わず声を上げる。


「あら、気がついたみたいね、お嬢ちゃん」


 そこにいたのは、ジュンヤとエスターだけではなかった。真っ赤に燃えさかるような髪のグラマラスな女性が、向かいのソファで足を組みながら二人を見ていた。


「心配しなくてもいいのよ。あなたを着飾ったのは、私とローザ。彼は準備が出来た後で、あなたの目が覚めるまで一緒にいただけだから」


 艶っぽい女、その目の輝きがどこか歪んで見えるのは、彼女の片目が義眼だからなのだが、エスターにそんなことはわからない。ただ、何者とも知れぬ女の一言に怯えていた。

 女は目を細め、すっくと立ち上がって彼女の側へと近付いた。身体の線を誇張したような服装は、挑発的で好戦的な彼女の性格を、嫌なくらいに際立たせていた。


「“E”が、こんなにかわいらしいお嬢ちゃんだとは知らなかったわ。あの厳つい口ヒゲ男の娘とは、とても思えない。なるほど、閣下が熱を上げるわけね」


 白い手があごに触れると、エスターは益々嫌悪感をあらわにし、泣きそうな顔をする。

 女は思わず高い声で笑い出した。


「うぶだわ。ウメモトの坊やもだけど、なかなか珍しい存在よね。これから何が起きるか知らされたときの、あなたの顔が拝めないのが、残念でならないわ」


「――それ以上、余計なことは言うな、パメラ」


 部屋の奥から別の男の声がした。目線をずらす。

 壁に反射した青い波線から浮き出るように、黒いスーツ、長い黒髪の男が現れた。少し高い声と甘いマスクに、エスターは激しく見覚えがあった。


「リー、あなた、本当に生きて」


 自分が思うよりも大きい声を出してしまった。慌ててエスターは口を塞ぐ。

 リーの姿を確認して数歩後退りしたパメラ。

 エスターの隣で立ち上がり、恭しく頭を下げるジュンヤ。



――『これから先、リーは間違いなく俺とお前を狙ってくる。どんな手段を使っても、俺達の身体を手に入れようとしてくるはずだ』



 ディックの言葉が、より重々しく感じられる。エスターは止めどなく流れる脂汗を拭うことも出来ず、呆然と黒い男のシルエットを見つめた。

 次第にティン・リーは、彼女の側に寄る。良くやったなとばかりに、リーがジュンヤに目配せすると、また彼はリーに深く頭を下げた。


「探していたよ、君のことを。エスター・エマード、ようこそ政府ビルへ」


 島で見せたのと同じ、優しく穏やかな笑顔は、青白く反射して煌めく背景に融和していた。しかし、彼の中にはどす黒いものが隠れ潜んでいて、何か恐ろしい策略の上でディックやエスター、エレノアやジュンヤをどんどん巻き込んでいる。

 秘密主義の父ディックがようやく教えてくれた、母とリーの関係、つまり、リーがエレノアを殺したということ。ディック自身が政府が行っていた何らかの研究の実験体であり、エスターもまた、何かの実験に利用されてしまっていたこと。彼の情報が全て正しいならば、間違いなくリーはエスターの敵に違いない。

『探していた』――逃亡してESに逃れていた間も、リーは二人を捜し続けていて、ディックの仕掛けた“エレノア作戦”により表舞台へと引きずり出されたことは濃厚なようだ。

 父曰く、作戦上彼がリーを撃ち殺すところで全てが終わるはずだったが、明らかに事態は思わぬ方向へ動いている。リーは生きているし、ジュンヤは政府側に寝返った。連れ去られ、身動きの取れない状況をどう打開すればいいのか、エスターは恐怖と戦いながら、必死に考えを巡らせた。


「手荒な真似をして悪かった。君を確実に招き入れるため、色々思案した結果、このようになってしまった。エスター、君をあの男から解放できたことを喜ばしく思うよ」


 遠回しな物言い。

 エスターはそっと腰を浮かせ、ソファーからゆっくり立ち上がった。


「人がたくさん居た所じゃ、話したいことも話せないか。パメラ、悪いがジュンヤを連れてってくれないか」


 リーに言われ、パメラはジュンヤに目で合図を送る。

 小さく頷いたジュンヤは、そっと目線を横にずらし、


「俺は、自分のしたことを後悔してないからな」


 捨て台詞を残して部屋から出て行った。

 リーと二人きり、真っ青な水槽を背景にしてたたずんだ。

 最早自分を失ってしまったジュンヤは、頼りに出来ない。守ってくれる父親も居ない。もしものときにと、与えられたロボット犬のフレディも、一緒に転移することが出来なかった。

 ティン・リーがどんな人物なのか、一度きりでは分析すら出来ず、与えられた情報の乏しさに愕然とする。

 一体、リーと二人で何を話せば良いというのか。

 エスターの胸は異常に高鳴っていた。


「君が、どこまでの情報を掴んでいるのか知りたい。――まあ、座って」


 言われるがままソファーに座り直すと、リーは彼女の右隣に一人分隙間を空けて腰を下ろした。少し斜めに身体を向けて、彼女の膝の上にそっと手を伸ばす。


「私が政府総統だってことは、もう知ってるね」


 彼女はこくんとうなずく。


「じゃあ、君ら親子が実験体だったってことは」


 今度はゆっくりと、リーの目を見てうなずく。

 リーはうんうんとうなずき返しながら、エスターの目の動きをじっと観察していた。まるで子供を相手にしているような彼の仕草。そして何かを確信したように、にやりと笑う。


「あなたは、ママを殺したのだと聞いたわ」


 じっと口を噤んでいたエスターだったが、リーの態度に我慢できず、とうとう口を開いた。憎しみを込めてリーを睨み付ける。


「あなたが何をしたいのか、私にはわからない。リー、何故あなたは、パパや私を執拗に追うの。一体、私たちは何の実験に利用されていたの」


「……なるほど、肝心のところは、あの男も知らなかったのだな」


 エスターの言葉に、リーは答えない。またニヤニヤと含み笑いし、彼女ではなく、どこか違う場所を見つめて細かく何度も頭を上下した。

 相手が何を考えているのか全く想像すら出来ない事態に、普段は温和なエスターも苛々を募らせていた。二人っきりの状況も、政府ビルに連れ去られてしまったことも、ジュンヤが態度を豹変させてしまったことも、何もかもが苛々の原因だ。

 逃げたい、帰りたい、誰かに助けてもらいたい。思えば思うほど、胸がもやもやしていく。

 ふいにリーは、エスターの手を取って立ち上がった。ドレスとハイヒールで動きづらい彼女を、ブンと乱暴に引っ張る。状況が飲み込めず絡まる足を何とか動かして、彼女は必死にリーの後を追いかけていく。


「こっちだ」


 ズンズンと歩く。リラックスルームを飛び出し、廊下、執務室の横、機械の並んだ一室へ連れ込まれる。ドアが閉じ、狭苦しい空間にまた二人きり。


「な、なんなの」


 床に円形の模様、その下に透ける回路。壁一面の計器ランプと大小様々なモニターが鈍く光る。

 リーはエスターを無視して、壁面から取り出した薄型の操作パネルに向かっていた。


「ねえ、何をしてるの」


 心臓が壊れそうなほど、激しく鼓動する。

 足元がにわかに青白く光り始めた。円形に沿うようにせせり出た光の柱が、彼女を包み始めた。

 ――見覚えがある。あの島の、民家の庭先で見た光だ。

 後でハロルドに聞いた、“空間転移装置”の仕業なのだと。ESの飛空要塞をドームの外へ転移したときも、確かに同じような青白い光を放っていた。

 どこかへ、連れて行かれる。

 すくんだ足をどうすることも出来ずに立ち尽くす彼女の側に、操作を終えたリーがゆっくりと近付いてくる。下方向から照らされその表情は、まるで想像世界のモンスターのように怪しく歪んでいた。 

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