Episode 17 同化
88・繰(く)り人形
薄暗い研究室、モニターに表示されるグラフの波を見つめる男。青白い光に照らされ、その艶めかしい顔に出来た影は、いっそう彼の妖しさを際立たせる。肩まで伸びた黒髪を一つに束ね、白衣に身を包んだ姿は、まるきり一人の若い科学者にしか見えないが、彼こそ、この世界の全てを握る男“ティン・リー”に他ならない。データを蓄積させたコンピューターと計器がぐるっと辺りを囲む中、リーはレポートとモニターを睨むように見つめていた。
入り口から垣間見える実験室奥の巨大水槽には、一人の少女が生まれたままの姿で漂っている。たくさんのコードが身体中に繋がれ、マリオネットのように項垂れている。治癒促進剤と酸素を含んだ特殊溶液は、優しく少女を包んでいた。金髪はざわめくように溶液の中で揺れ、水槽の底から吹き出る酸素のあぶくは、幻想的に彼女を撫ぜた。マザー・コンピューターとの同化を成すため脳外科手術を施され、体内に潜めたナノマシンを活性化させるため水槽に沈められた少女は、悪い夢でも見ているのか、時折水中でもがいた。その都度脳波に異常が出て、鎮静剤が投与される。手術から二日ほどはこうした不安定な状態が続いたが、今日になってようやく容態が安定してきたのだった。
水槽の側でずっと監視していたロイ・グレイは、数値に極端な変化がないことを確認して、実験室から研究室側へおもむろに足を踏み入れる。特徴的な銀縁の丸眼鏡を光らせ金髪をかき上げながら、
「閣下、“E”の最新データはご覧になりましたか」
リーに声をかけると、
「ああ、今見てるよ」
彼は深々と椅子に腰掛けたまま口角を上げた。
「手術から三日、想定していたより急速に回復してる。これは父親の“D-13”に勝るとも劣らない結果だ。素晴らしい。――問題は、今後データをダウンロードしていく中で、どういった副作用が現れるかということ。私のように、真っさらな脳に全てを書き込むわけではない。“E”として生きていた十七年がどう関わっていくのか、そこだけが気がかりだ。シミュレーションではどういう結果に?」
「九九%情報は上書きされると出ましたが、残りの一%、……実際は一%にも満たない値でしたが、外部から深層心理に影響を及ぼす何らかの事象が発生した場合は、ダウンロード後に人格崩壊を起こす恐れもあると。時間までに、この値をゼロに持っていくことが出来れば、全てが上手くいくのではないかと考えます」
「一%? “何らかの事例”とは、つまり何だと?」
「例えば、“E”の意志決定に重要な鍵となっている人物からの助言であるとか、その人物の発言、行動、ですかね。あのジュンヤという男、閣下は野放しにされているようですが、彼こそ“鍵”になり得るのでは」
言われてリーは、「ジュンヤねぇ」と細く長く息をつく。肘掛けに身体を委ねて脚を組み替えると、彼はゆっくりとロイに視線を向けた。
「パメラには始末しろと言ったんだ。結果、返り討ちに遭った。一筋縄でいく男じゃなかったわけだ。流石はシロウ・ウメモトの息子、キョウイチロウの孫と言うべきか。なに、イレギュラー要素があるのも、悪くない。――勿論、不要なものは排除するに越したことはないが」
「閣下の、そういう所が甘いんです。そうやって七年前エマード博士を放置したことが、今日までの苦しみに繋がっている。ジュンヤを放置しておくのは危険です。分析結果として一%でも不確定要素があるならば、排除すべきです」
「排除すべき、か」
リーはまた少しだけ口角を上げ、目を細める。
「排除するのは確かに難しいことじゃない。武力行使すればすぐにでも捕まえられる、殺せる。……が、ロイ、そんな単純な問題ではない。エマードが隠れたのはビルの外、ジュンヤはビルの中にいる。この入り組んだビルの中でたった一匹の鼠を駆除するのは難しい。尻尾を出したらそのときに息の根を止めればいいじゃないか。彼は確実に“E”を奪い返しに来るはずなんだから。恐れているのか、あの、小僧を」
愚かしいなと見下され、ロイは眉間にしわを寄せた。
――確かに、頼りの無い男に見えた。ES創始者の息子、言われて納得するほど育ちが良さそうな優男だ。ロイが直接話をしたことなど無かったが、自分と同世代だとはとても思えぬほど、無知で、非力な男。Eが想いを寄せている、それだけでも馬鹿げていると感じた。愛だの恋だの言えるくらい生温い場所で生きてきたに違いない。そんな人間を、総統であるティン・リー本人がビルに招き入れたのだ。無性に腹立たしかった。しかも、その非力な男がパメラを亡き者にした。リーに忠誠を誓っていたスウィフトもエドも、死んだ。全てがあのジュンヤという男の仕業とは言わないが、リーが彼を招き入れたことによって、全てが狂い始めている。そう思えばこそ、ロイはジュンヤという存在に耐えきれなかったのだ。
リーの挑発に乗らぬよう、ロイはギッと奥歯を噛みしめた。
「私は、排除すべきだと訴えます。しかし、閣下には閣下の考えがおありなのでしょう。私には、それ以上何も。……ところで、妙な噂を耳にしました」
「噂?」
「“この世界は、もうじき崩壊するのだ”と。ソースは明らかではありません。同時多発的に、全世界でこの噂が流れているようです。このビルの中でも、何人かがそう話しているのを耳にしました。これは、どういう事態なのだと考えます?」
「その件に関してはローザに調査依頼済みだが、出所なんて、調査する前から知れてる。エマードに違いない。あの男、どういうつもりでそんな下らない噂を流してるのか。まさか、救いたいだなんて無駄なことを考えているわけではあるまい。……世界は、本当に崩壊してしまうというのに」
「えっ、今何と」
「ロイ、君はEの経過観察に戻り給え。また何かあれば報告を」
「はい……」
一歩、二歩と後ろに下がり、一礼してその場を去る。ロイの心臓は高鳴っていた。確かに聞こえたのだ。『世界は、本当に崩壊してしまう』と。
どういうことなのか、マザーとEを同化させることで、この世界の規律を正すのではなかったのか。“崩壊”、まるで全く違う方向に進もうとしている。
総統ティン・リーの目には何が見えているのか――。味方にも手の内は見せない。本当のことを知っているのは、恐らくリーと秘書のローザだけだと、ロイは悟る。ケネスだって、理想の世界へ導くために尽力しているはずだ。それがまさか、世界を壊すためだなんて知ったらどう思うのか。
何が正しくて、何が悪いのか。
科学で全てが豊かになるなら。それが、このビルで行われている実験の目的ではなかったのか。
リーは語った。マザー・コンピューターとEが同化すれば、“神”が現れると。それは、失われた宗教のように、全てを導く光となるのだと。
――何かが間違っている。
そもそも“神”とは何か。その絶対的存在の向こうに何があるのか。
ロイの頭は混濁していった。
暗く沈んだ研究室の中、計器の明かりが闇の色と混ざって押し寄せてくる。水槽に浮かんだ少女の死んだような目が、じっとロイを見下ろしていた。物言うわけでもない、意識も無い状態で、それでもこちらを見つめている。
哀れんでいるのか、いや、彼女の感情など、既に消えてしまっているはずなのに。
まるで憐れな繰り人形だとでも思っているのか。彼は少女に、思わず自分の姿を重ねるのだった。
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