5・エスター
ネオ・シャンハイの片隅、すぐにも傾きそうな二階建て庭付きの小さな家の前に、一台の白いトラックが停まった。荷台に敷き詰められたクリーム色のクッション材の中にうずくまっていた少女は、泣きはらした目をこすりながらゆっくりと起き上がった。
すっかり日が暮れ、辺りは夜の街に姿を変えていた。住宅地に並ぶ家々には明かりが灯り、夕飯のいい匂いが立ち込めている。
パチパチと切れかかった街灯の明かりがトラックと少女らを照らして哀愁を深めるので、彼女はまたわっと泣いた。
「ホラ、着いたぞ」
運転手は淡々と少女を荷台から下ろし、そのこじんまりとした家の戸口へと向かわせた。
「あ、ありがとう、ハル。それじゃ」
やっと搾り出した彼女の声に安堵の溜め息を漏らし、ハルと呼ばれた運転手は自分の白髪交じりの短い頭をかきむしった。
「ディックには、俺の方からもあとで言っておくよ。もう、こんな茶番は終わりにしようって。『エレノア』のことがどれだけ重要なのか──、結局俺たちにはわからない。こんな状況で続けられるか、ってな」
「うん……」
少女はほんの少しだけ首を傾け、指で涙を拭う。
肩までのストレートの金髪がふわりと揺れて、彼女の涙目を一瞬だけ隠した。
「政府は近頃“エレノア”を躍起になって捜しているらしい。このままじゃエスター、お前の身が危険だ。思うところがあるなら、ディックに自分の気持ちを伝えたらどうだ。父親なんだから、遠慮することもないだろう」
周囲を警戒しながらトラックに乗り込み、ハルは軽く手を振って走り去った。
「遠慮、することもない、か」
年季の入った茶色の玄関ドアの前に立ち、彼女は大きく深呼吸する。
何、臆することはない。この向こうには家族がいるのだと思いつつも、彼女の表情は綻びを許さなかった。家族の顔を、父親の顔を思い出せば出すほど、胸が苦しくなる。それでも、帰る場所は他にはない。
ドアノブに手をかけ、開ける。
「た、ただ今」
玄関と間続きになったリビングに、父親がいた。
少女の声に、父は腰掛けていた合皮のソファから勢いよく立ち上がり、読んでいた本を投げ出した。待っていましたとばかりに少女の元に近付いてくる。一九〇センチ近い大柄な身体に銀縁の眼鏡がギラリと光るので、彼女は思わず足をすくめてしまった。
「エスター」
視界一杯に飛び込む父親の影。そのダークブルーの瞳が眼前に迫り、彼女はがっと両目をつぶって顔をそらした。
「随分遅かったが」
低い声。その先に何があるのか──、またいつものように問い詰められるのかと思うと、身体が自然に震えだした。声が出ない。
ハルが言うように、“遠慮無しに”言えるような、そんな父親ではないのだ。
他人にはわからない、何か真っ黒な部分を隠し持っているような、そんな気配が漂っている。誰も知らない、誰にもわからないそんな雰囲気を、父は自分の前にいるときだけ漂わせる。親子だからか、それともまったく別の理由からなのか。エスターはそんな父の姿が怖くて仕方ない。
どうしたらいいのか、しどろもどろし、行き場のない目線が室内を漂う。誰か、誰か、という彼女の思いが通じたのだろうか。父の背後から、若い男の声がした。
「ディック、今、エスターの声がしたと思ったんだけど」
同居する、ジュンヤだ。エスターより三つ上の、アジア系の青年。その柔らかい声と爽やかな顔が見えると、彼女はほっとしてへたりこんだ。
「何、今帰ってきたところだ」
普段どおりだと不自然に強調させて、ディックは背後の青年に言い放った。
「エスター、大丈夫か。どうかしたのか」
ジュンヤはそうしたディックの声に耳も貸さず、その足元で座り込むエスターの前にするりと滑り込んだ。
泣きはらした赤い目が、いつもと違うことが起こったのだと知らせている。
「何か、あったんだな」
肩を抱き、優しく問いかけるジュンヤに、エスターは思わず、
「わ、私……“エレノア”はもう、やれない……」
ジュンヤに内緒にしていたことを口にしてしまった。はっとして、口を塞いだときにはもう遅かった。ジュンヤはいぶかしげな目でエスターを覗き込んでいた。
「ちょ、ちょっと待って。“エレノア”って? お前、何をやって」
「すまんが」
ジュンヤの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ディックはぐいとエスターの腕を引っ張りあげた。軽い彼女の身体がふわっと浮いて、ディックのそばに引き寄せられた。
「席をはずさせてもらう」
まだ呼吸の整わぬエスターをぐいぐいと引っ張りながら、ディックは奥の自室へと去っていった。
*
古本のぎっしりと積み重なった部屋。ディックはその中に無造作に置かれた椅子に、エスターを腰掛けさせた。頭をかきむしり、何か思案しているようにブツブツと呟きながらあごを触る。深く考えるときにディックがいつもやってしまう、癖だ。
狭く、照明をつけても十分に明るくならない部屋で、彼は数歩、行ったり来たりした。
「ごめん、パパ。私はもう」
場を何とかしようとエスターはもう一度、同じ言葉を繰り返そうとした。しかし、
「いや、いい。“エレノア”はどちらにしろ、これ以上やらせるつもりじゃなかった。悪くないタイミングなのかも知れん。EPTもエレノアの正体に気が付いてきた頃だし、アレもそろそろ完成する。いっそのこと、奴らを……」
会話の相手がいるのかいないのか。雲を掴むような曖昧な言葉を続けるディックを、エスターは恐る恐る目で追った。
彼女が“エレノア”と名乗って行動するようになったのは、父・ディックに指示されたからだ。金髪の少女“エレノア”の存在を、EPTに知らしめ、印象付けさせる。それが、成功の鍵なのだと。
父が何かの計画を推し進めているのは知っていた。その計画を実行に移すまでの間、“エレノア”として街に繰り出し、EPTを煽るのが彼女の役目。真の狙いなど、誰も知らされない。ただ、言うとおりにすることで“EPTを潰せる”と、ディックは言った。
完全な秘密主義者だ。彼女の父、ディック・エマードという男は。娘にさえ、本当のことを話そうとしない。
彼女が唯一聞き出したのは、名乗れといわれた“エレノア”という名前が自分の母の名前であるということだけ。顔も知らない母の名が、“EPTを潰す”ための鍵になっている。それは、他ならぬ父の過去と繋がりがあるのだということは想像に難くなかったが、それを問い詰めることなど出来ない。
「“エレノア”はEPT煽動の罠だ。奴らが行動を起こすまで、時間がない。数日中にここから引っ越そう」
ディックは突然動きを止め、エスターに向き直った。
そして、ゆっくり屈むと、椅子に掛けたままの彼女を大きな両腕で包み込むように抱きしめた。
「すまない、エスター。辛い思いをさせたな。もう少し、もう少ししたら、本当のことを話す。それまで、待っていてくれ」
「うん、うん──」
数えるほどしか抱きしめてもらえなかった彼女の気持ちを推し量るかのように、ディックは更にきつく彼女の肩を抱いた。
*
リビングに残されたジュンヤが、不満そうに食卓のサラダを摘むのを、彼の母、メイシィは不機嫌そうに眺めた。
「あら、随分お行儀が悪いんじゃないの」
台所から料理を運びこみ、テーブルに並べるのに、息子の大きな身体が邪魔だった。
それでも、母はお構い無しに、どんどんと皿を並べていく。
「今日の夜は少し奮発して肉料理を作ったの。物価の高騰でなかなか手が出せなかったけど、特売日に手ごろな値段で買えたのよ。あなたもエスターも、こういうの好きでしょ。若いんだし、栄養つけないとね」
息子の機嫌の悪いのを知りながら、彼女はいつもどおりに接してくる。ジュンヤは少し、居心地が悪かった。
「なぁ、知ってた?」
レタスをしゃきしゃきと口の中で刻みながら、ジュンヤは続けた。
「エスターが、“エレノア”って名乗ってたこと」
「知ってたわよ? どうして?」
「──そうか。俺には、言ってくれなかったんだな」
不満そうに、ジュンヤは溜め息を吐いた。同じ屋根の下に居ながら、自分だけが疎外されていたような気分だ。
「秘密は誰にだってあるわよ。全部話せるほど、人間は単純じゃない。人によって、話せることが違うのは、当たり前よ。私だって、ジュンヤに話せないこと、ディックやエスターにも話せないこと、たくさんあるもの。そうやって、秘密をたくさん持って、人は成長するのよ」
もっともらしい母の言葉は、共通の秘密を持っていた人間の言い訳にしか聞こえない。
「信頼、されてないのかな」
ぽつり、呟きながら、ジュンヤはまた、レタスを頬張った。
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