4・記憶
歳の離れた二人の男が、将棋盤を囲う。古い盤の上に整然と並んだ五角形の駒は、使い込まれ愛用されていることをうかがわせる。時折、パチン、パチンと景気よく鳴る音は、指し手もまた、将棋に慣れ親しんでいる証拠。年上の髭の男が銀縁の眼鏡の奥を光らせて、すっと王手を指した。
「畜生、負けだ。完敗だ」
相手の若い男は、両手をぐいと頭の後ろで組み、「降参しました」と身体を屈めた。硬いコンクリの地下室、切れ掛かった白熱灯の光がチラチラと点滅する中、数十分駒とにらめっこした結果、自分の実力が明らかに下であることがわかったのだ。
アジア大陸、東シナ海に面したこのネオ・シャンハイのドームは、アメリカ大陸のネオ・ニューヨークシティドームに続いて二番目の規模を誇る。中華の町並みは殆ど残っていないが、どことなくアジアンテイストを感じるのは、そこにアジア系民族が多く存在しているからだろう。文化の淘汰されたこの世界においても、彼らの身体から滲み出るアジアの魂や思想は、決して廃れることはない。政府により禁止された旧史の文化も、ひっそりとなりを潜めながら、脈々と受け継がれ、今日まで続いている。
彼らの扱っている将棋盤もまた、そういった代物だ。本来ならば政府の政策により存在自体消え去っているはずのそれを、若い男の父親は後生大事にしていた。──彼の、形見だ。
青年は、ジュンヤという。今年二十歳になったばかり、日系と中国系の混血児だ。
この地下室のある二階建ての窮屈な家で、母親と目の前の男、その娘とともに、四人で生活している。
ネオ・シャンハイの住宅街の隅、スラムと隣り合わせの治安の悪い立地ではあるが、彼らにとってはそこが案外心地いい。監視システムの強化された裕福な住宅街や集合住宅では、アナーキストと呼ばれる彼らは安心して暮らすことが出来ないからだ。
反社会運動をしていたジュンヤの父、シロウ・ウメモトの設立したES(Earth Saver)という反政府組織の根城として、この家はある。目の前にいるこの男もまた、その一員だ。
ジュンヤは汗で濡れた額と短い前髪を腕で拭った。目の前の男が涼しげな顔で胡坐をかき、指し終わった将棋の駒を一手ずつ元に戻しながら確認するのを、彼は恨めしそうに覗き込む。そのダークブルーの瞳は、どこか暗い影を落としていた。目じりのしわも、眉間のしわも深く刻まれ、黒髪と口髭の中にも白いものが混じって見える。
出会ったばかりの頃、彼はもっと若かった。いつの間にこんなに更けてしまったのか──、七年前、我が家に現れた彼は、もっともっと危険で恐ろしい男だったのにと、ジュンヤは思い返した。
*
その日、十二歳のジュンヤは父とこの部屋で将棋を指していた。
優しい父は、自分の宝物だった将棋盤を誇らしげに見せ、よくジュンヤに指し方を教えてくれたものだ。
「将棋はなぁ、こういう静かなところで指すのが一番いいんだ。精神が安定して冷静になれる、最高の精神鍛練の場だと俺は思う。それに、このパチンて音がこの上なくいい」
そんな口癖も、今ではいい思い出だ。
思えばあの日、母が買い物で外出している隙に、事件は起こったのだ。
仕事の非番日、一緒に将棋を指そうとシロウはジュンヤを地下室に誘った。二人だけの緩い時間。親子らしい会話を紡いでいると、突如、それを遮るように何度もけたたましくインターホンが鳴った。尋常ならざる音に痺れを切らして、二人は急いで階段を駆け上がる。
反政府組織のリーダーをしていた父が、政府やその追っ手から逃れた人物を匿うことはよくあった。
自宅は実質、逃亡者たちの駆け込み所と化していた。闇の情報として、暗に知られていたのだ。彼らの訪問は、昼夜問わない。夜中叩き起こされることも決して少なくはなかった。数日間見慣れぬ大人と暮らす羽目になったことも、一度ではない。父に「宜しく頼む」とにっこり笑われると、母もジュンヤも断りきれず、彼らが暮らす場所を見つけるまでの間家族同然に過ごすのだ。
そのときもやはり、そんな気配がしていた。
「私はEPTの科学者だ。ディック・エマード……、一度は聞いたことがあろう」
玄関から顔を覗かせた無精髭の男に、物陰で様子を見ていたジュンヤの心臓は潰れそうだった。
殺気をぷんぷんと漂わせ、汗でぐっちょりと全身を濡らし、大事そうに何かを抱いている。政府から逃れてきたと言う割りに怯えた様子もなく、シロウに身の確保を懇願するでもない。今までにない異質な訪問者は、ジュンヤの自己防衛本能を刺激した。
ジュンヤの耳にはっきりした会話は届かず、その経緯は定かではないが、父は「話を聞こう」とドアを開け、彼を招き入れたのだった。
汚れた白衣、しわだらけのワイシャツと泥まみれのスラックス。さっきまでの気丈さが嘘のように、放たれた玄関先で男は倒れこんだ。
「頼む、こいつを……」
抱えていた毛布をかばうように転がり気を失う。
「“こいつ”って……、女の子じゃないか!」
毛布の中から長い金髪の髪の毛が見え隠れしていた。
*
この正体不明の男ディック・エマードが何者なのか、ジュンヤは未だ知らない。
彼が科学者であること、政府の研究施設にいたことだけが告げられた事実。彼の抱えてきた美しい金髪の少女も──、果たして、彼の本当の娘であるのかどうかさえ疑わしい。しかし、二人の醸し出す空気や共通する深い青色の瞳は、きっと親子なのだろうと信じずにはいられないくらい似通っている。
存在していたはずの少女の母親の話も、逃げてきた本当の理由も告げぬまま、彼は七年をこの家で過ごした。徹底した秘密主義は、彼への不信感を募らせたが──、彼はそれを、ESへの技術協力という形で返してくる。いつしか男は、ESにとって必要不可欠な存在になっていた。
彼を信頼し、彼を慕う。
自分の死んだ父がそうしたように、ジュンヤもまた、知らず知らずのうちにこの不審な男に心を開いていった。
用の済んだ将棋盤を一つにまとめ、地下室の棚に保管する。くくりつけの棚の隣に、小さな写真が飾ってあるのを、ジュンヤは横目でちらと見た。
今の自分と同じくらいの背丈のアジア系の中年男性と、ほんの少し子供だった自分、そして母。その脇に少し離れて大柄の眼鏡の男と、金髪の少女。三年前、父が死ぬ少し前に庭先で撮影したものだ。
嫌々ながら何とかしてフレームに収まってくれたディックに、シロウは不必要なくらい大げさに感謝していた。
「写真を撮ろう」とシロウが言い出したあの頃、ネオ・シャンハイではアナーキストの掃討作戦が各地で行われ始めていた。反政府組織の構成員、幹部を狙った大規模な作戦に、彼自身危険を感じていたに違いない。
遺影代わりと笑いながら無理やり撮ったその写真を大事そうに胸に抱いたまま、彼は結局政府軍の標的となり、銃弾で蜂の巣にされ、死んだ。
路地の奥、ひっそりと亡くなったシロウを探し出し、目を塞ぎたくなるような悲惨な遺体を手厚く葬ってくれたのは、ほかならぬディックだった。
血は見慣れていると静かに笑った彼のあの潤んだ瞳が、目に焼きついて離れない。
父シロウに対する彼の敬意と誠実さは、ジュンヤの不信感をなぎ払った。
父の死後、もう一人の父親として自分を支えてくれたディック。口数は少なく、優しさを感じるわけじゃない。ぶっきらぼうで無遠慮な言葉も彼なりの配慮なのだろうと、少しずつわかるようになってきた。だからこそ、こうして父との思い出の将棋を指すことが出来る。将棋は、ジュンヤからディックへ向けた、信頼の証なのだ。
「時間が経つのって、残酷だな。いつの間にかこうやって、形見の将棋さえ普通に指せるようになった。親父が死んでから三年……、俺は成長してるんだろうか」
ジュンヤは溜め息交じりにそんなことを呟いた。
「そういうのは、自分で考えることじゃない。客観的に見てどうかということ。少なくとも、お前は少しずつ、シロウに似てきているよ。そのまっすぐさは、特にな」
顔を向けるでもない、ジュンヤに直接言い聞かせようとするでもない。捨て台詞のように言い放ち、ディックは一人で階段を上がっていった。くたびれた白いワイシャツの背中が、どことなく物悲しさを醸し出していた。
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