97・謀叛

『装着確認。データ移行開始します』


 ローズマリー・グリースの透き通った声が、天井から降りてくる。

 研究室内上部に取り付けられた赤いランプが点滅し、警報が鳴り始めた。

 何が起きているのか全く確認出来ないディックは、半ば覚悟を決め、ぎゅっと両目を固く瞑った。歯を食いしばり、その瞬間を待つ、どれほど辛いことか。

 感情が崩壊していく、心がバラバラになる。

 何を恐れているのか。自分が自分でなくなってしまうことか。

 それとも、大切なものが奪われていくのに何も出来なくなってしまうことなのか。

 差し伸べた手を掴んでくれたラムザのような人間が周囲にいないこと、誰かに守ってもらうということに恥ずかしみを覚えてしまったこと、どうせ何もなくなってしまうなら、早い段階で全てを失っていた方が傷つかずに済んだかも知れない。一瞬の幸せさえなければ、どこまでも闇の中に沈んでいられたというのに。

 脈絡のない言葉や考え、場面が、グルグルとディックの頭を巡っていく。息苦しい、身体から血の気が引いていく。何も、考えたくはない。

 ギュイーンと、隣の部屋からモーターの回る音が聞こえ、とうとう最後が来たと悟る。


『意識データ移行準備完了。これから媒体を転送します。――ケネス、生きてる? 頼むわね』


 “媒体”を、“転送”……何か、様子が違っている。

 ケネスは、生きているのか。致命傷を負わせたつもりだったが、確かに急所は外してしまった。そんな状態で、一体何をしようとしているのだろう。

 ディックの視界の隅が、青白く光った。

 何かがまた、送り込まれてきた。金属の塊のようなそれは、ガシャッと乾いた音を立てる。


「いやぁ、女というものは……、実に、恐ろしい」


 転送されてきた何かに目を向け、ボソッとケネスが呟くのが聞こえた。心なしか、息が荒い。 


「何が起きてる。ケネス、聞いているのか」


「俺が死んでいたら、どうするつもりだったんだ、ローザ。そこの黒い“犬”共に指令を出して事を進めようとでもしていたか。……生憎だが、そこの犬共は、閣下の言葉以外には反応しないように出来ている。結局は自分たちの手でやらなければならなかった。本当に、悪運の強い女だな」


 ケネスは、姿の見えない誰かに話しかけるばかりだ。聞こえているのかどうか、ディックの問いには、全く答えようとしない。足取りも、覚束ない。

 彼は、撃たれた腹部をかばいながら、ジュンヤより幾分かマシな程度の足取りで、ゆっくりと実験台の側へと歩み寄った。腹の左半分がすっかり欠け、大量の血が彼の下半身を濡らしていた。足跡をなぞるようにおびただしい鮮血が床に続き、水槽の生温い臭いと混ざって、ディックの鼻をついた。痛みに堪え、苦痛で顔を歪ませたケネスは、


「D-13へのデータ移行は、中止、します」


とだけ言って、おもむろにディックの頭の装置を外し始めた。

 思いも寄らぬ言葉だった。


「ケネス、どういうつもりだ」


 突然のことに、ディックの頭は真っ白になる。


「どうもこうも……、替わりのものが到着、しましたんでね。……我々は、阻止、したいんです。いくら、……とはいえ、あなたを、閣下と呼ぶなど、と……ても、耐えられるものでは……。――には、申し訳ない、が、この状況で主導権を握れるのは、我々、メンテナンスを……人間だと、そういうことです」


 ケネスは息苦しそうに肩で息をしながら懸命に言葉を繋ぎ、小気味よくニヤッと笑ってみせる。本来ならば立っていることさえ辛いはずだ。

 ヘルメットがはぎ取られ、視界が明るくなったディックの目には、青白い顔で大量の汗をかくケネスの顔がはっきりと映っていた。


「勘違い、しないでいただきたい。あなたを、助け……じゃない。残念ながら、私の尊敬していた人物は、とうの昔にいなくなっ……。オーリン女史や、……と一緒に……、私の中では、良い思い出でした」


 彼はそのままコードを引き摺って、ディックの足元にいる何かに装置を取り付け始めた。

 手足が固定されたまま身動きの取れないディックは、首を起こして何とかその様子を見ようとしたが、角度的に殆ど視界に入らない。


「おい、ジュンヤ。ケネスは何をしようとしてる、教えろ」


「お、教えろったって」 


 言葉を詰まらせるジュンヤ、どうやら目の前の出来事に対応できず、腰を抜かしているようだ。実験台の足元からジュンヤの頭が少し見えるが、まるで動こうとしていない――何が彼をそうしてしまったのか。薄暗い実験室、頭上の必要以上に明るい照明、固定された身体、そのどれもが、ディックを妨害している。


『S-206型への装着確認。データ移行開始』


 再び女の声が聞こえた。

 同時に、激しい電流がコードを伝って、何かに注ぎ込まれていく。

 バチバチと弾けるような音に触発され、やっとジュンヤがむくりと立ち上がった。本能的にそこから去らねばとでも思ったのか、ぎこちなく実験台の縁を辿ってディックの側まで寄った彼は、汗だくになって肩で息をしていた。


「い、今、外す。外すから」


 大きな影に怯えるようにして、ジュンヤは必死にディックの枷を外そうとする。留め金を触る手がガタガタと震えていて、単純な作業だのに上手くいかない。


「落ち着け、落ち着くんだ」


「わかってるよ」


 言われれば言われるほど、ジュンヤは焦った。手のひらは汗でじっとり濡れていて、あと少しのところでスルッと指が滑ってしまう。「クソッ」と吐きながらも両手の枷を外し、今度は足。

 やっと上半身を解放されたディックは「よし」と声を出して、ぐんと半身を起こした。

 電圧の凄まじさからか、辺りの計器が軒並み狂い、火花を散らし始めている。照明が全て消え、銀色に光るその物体だけが光を発していた。人間の数倍あろうかというそのシルエットは、獣のようにも、屍のようにも見えた。モンスター、それ以外になんと呼称できようか。

 腰を抜かしたジュンヤの気持ちがわからないでもない。ケネスと声の女は、どうやらD-13ではなく、この物体にリーを……。


「外れた!」


 ジュンヤが歓喜の声を上げた。

 ディックは急いで実験台から飛び降りる。

 二人、サッと身を引いてなるべく壁際へ――、そこでやっと、今起きている全てを見渡す。

 卵型の機械に身を滑り込ませていたリーは、既に息絶えているのか、この騒ぎでも目を瞑ったまま、ぴくりとも動いていない。ディックから外されたヘルメットは、ケネスの手によってコードが外され、床に転げている。ヘルメットから抜き取られたケーブルが、化け物の大きな頭頂部の雌端子に突っ込まれ、不格好にセットされているのが見えた。装置から大量のデータが、銀のロボットへと注ぎ込まれていく。

 火花が散り、あちこちで火の手が上がり始めていた。

 整然と並んでいた棚の薬品やサンプルが砕け、床にこぼれ落ち、反応して引火性の高いガスを発生させる。

 小さな火が、少しずつ大きくなっていくのが随所で確認できた。

 全て終わったとばかりに、ケネスはほくそ笑みながら意識を失い、大の字で倒れている。

 エスターは――、マザーと同化していた彼女は。ディックとジュンヤは、慌てて彼女を探した。実験室の隅から隅まで、必死に眼光を走らせる。


「――消えた」


 かけっぱなしの暗視スコープのスイッチをオンにして、彼女の姿を探していたジュンヤが、ぽつりと呟いた。


「まさか。貸せ」


 ジュンヤからスコープを奪い、ディックは自分の目でそれを確かめる。

 大きなロボ、倒れるケネス、息絶えるリー、その他には、何も。

 ディックは、スコープを覗いたまま動かなくなる。

 ごくりと、ジュンヤにもわかるくらい大きく唾を飲み込んで、震えているのが伝わってきた。



 フッと全ての光と音が消える。



『データ移行完了。意識レベル正常。AI及び動作に異常なし。……閣下、新しいお身体は如何ですか』


 暗闇に響く女の声に反応して、銀色の化け物に付いた赤い二つの目玉がギラッと光った。

 油圧式スペアリングのギシギシという音が狭い室内でこだまし、ギギギッと金属の軋む音がする。プシューッと空気の漏れる音、そしてまた、軋む音。


「――ローザ、謀ッタナ」


 それだけ言うと、ロボットは銀色の触手を伸ばし、ケネスの懐から赤い端末を引っ張り出した。ヒュルッと音を出して触手を縮め、体内に端末を取り込んだロボは、そのまま青白い光に包まれスッと姿を消す。


「最上階だ」


 ディックは言って、自分の端末を手に取った。

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