84・信じるということ

 ローテーブルに散らばった書類を空いた箱に移して場所を確保すると、ようやく遅めの朝食が始まる。あまり清潔感はないが、この研究室内で食事が取れそうなのはそこだけだった。

 ソファや事務用の椅子に各々掛けて警備員の運んできた弁当箱を開けると、卵サンドに野菜ジュース、少しだが生野菜のサラダにナゲットも入っていた。


「思ったよりまともな食事なんだな」


 おしぼりで手を拭きながらジュンヤが言うと、


「身体が資本だからね。ビルの外で食べるよりも健康的だと思うよ。私はこういうのより、ガッツリ肉系の方が好きなんだけどさ」


 と、レナ。

 確かに、腹はある程度満たされるかも知れないが、量も味も、どこか物足りない。それでも、ジュンヤの傷ついた身体を癒すには十分だ。野菜を頬張ると、心なしかさっきまで渦巻いていた混乱も少しだけ収まったような気がしてくる。


「荷物を受け取りに行くのは、ダニーがいいと思うよ。あそこにジュンヤが行くのは、危険過ぎるでしょ」


「最初からそのつもり。荷物には何か表示がしてあるのかな。こう、目印みたいな」


「さあ、そこまでは」


 モグモグと口に詰め込みながら、三人思い思いに喋る。

 島での事件以来、ずっと自室に引き籠もっていたジュンヤにとって、誰かと一緒にとる食事は久しぶりだった。ネオ・シャンハイにいたときだって、飛空挺にいたときだって、いつもエスターや仲間が一緒にいた。あの、正体不明のひげ男だって、飯時は“普通の中年男”だった。だのに、どこかで歯車が狂ってしまった。

 リーの言いなりになり、ESでの居場所を完全に失ったのだ。気付けば孤立し、あんなことを。

 後悔してもどうにもならないことを、またジュンヤはねちねちと頭に巡らせていた。


「十三の荷物って言っても、実際該当するのはたったひとつなわけでしょ。普通箱には中身のわかるような表示がしてあるはずだから、その中から消去法で当たっていくしかないよ。まさか露骨に“from Emard”なんて書いてるわけないしさ」


「……あ、でも、よく自分の持ち物には“D”ってサインを残してた。アルファベットのDを丸で囲った、単純なものだけど」


「じゃあ、それを探すしかないか」


 ボトルのジュースをぐびぐびっと飲み干し、ぷはっと思いきりのいい音を出して、ダニーは空になった弁当箱もろとも要分別と走り書きされたゴミ箱に突っ込んだ。ソファから立ち上がり、ぐいっと背伸びする。未だ完全に脳味噌は起きていないのか、生あくびも一つ。


「そんじゃ、ちょっくら行ってくるよ。レナ、引換券くれ」


「あいよ」


 ダニーはレナから受け取った十三枚のバーコード用紙を、白衣の右ポケットに無造作に突っ込んだ。行ってくるわと後ろ手に合図して研究室を出る。相変わらず、掴み所の無い彼だが、状況を楽しみながらもしっかりと協力してくれるのはジュンヤにとってありがたいことだった。


「行ったねぇ。幸い、今日は締切ないから、ある程度は自由に動けるよ。荷物が来たら来たでやることがあるんだろうし、博士からまた連絡があるとも限らない。私たちはここで待機ね」


 最後のナゲットを口に咥えながら、レナは手早くジュンヤの食い終えた弁当の空を片付ける。よいこらしょと、またいつもの指定席、端末の前に腰を据えると、彼女はギイと椅子を鳴らして深く息をついた。

 時計の針は午前八時を回ったばかりだ。


「さぁて、ねぇ。もっと詳しく状況を知りたいけど、回線が分断されるんじゃどうしようもないか。マザー経由でアクセスしてくれるのはよくわかったけど、それじゃこっちから連絡取りようがない。アンリって人、またアクセスしてくんないかな。――ジュンヤ、博士は他に何か言ってなかった?」


 暇を持て余しているわけではないのだろう、壁に貼られたメモには締切の日時が多い。数日後、数週間後、時間単位で依頼元と併せて書いてある。それでも付き合ってくれるのは、ある程度状況を把握してくれているからなのだろうか。それとも、あくまで研究対象のウメモト博士の孫だからなのか。

 掛けていたソファから立ち上がり、ズボンの後ろポケットに入りっぱなしだった赤い端末を取り出してレナの側まで来ると、ジュンヤはそれを彼女の前にぐいと突き出した。


「これ。データを寄越せって言われたんだ。それだけで何をしたいか、わかるかな」


「何これ」


「“携帯型の空間転移装置”、らしい。端末を開くと――画面に現地点が表示される。通信機も兼ねてる。リーが寄越したこの機械を使って、俺はビルに来たんだ」


「なるほどねぇ。見して」


 女性の小さな手の中にもすっぽりと入る赤い端末を受け取ったレナは、側面や背面、ボタンの形式や液晶画面の表示まで、食い入るように見つめていた。爪を引っかけ、背面カバーをこじ開けて、製造番号を確認、ふふんと笑う。


「あー、これ、通信用端末を改造してあるんだ。EUドーム内で大量生産されてるものに手を加えて、転移機能を組み込んでるみたいだね。転移装置自体、小型化が難しいはずだけど、これでホントに飛んだわけ?」


「ああ、飛んだ。確か特殊任務隊のヤツらもこれを使用してるはずだ。地点登録した一箇所にしか飛べないのが難点だけど、あるのとないのじゃ全然違う」


「だよね。通常転移する場合は、あの大がかりな転移装置まで移動しなくちゃならない。装置間転送だってかなりのエネルギー必要とするわけだし、地点指定転送だって出来ないことはないけど、複雑なプログラム変更が必要だから、どのドームでも実際利用してないのが実状だもんね。それを考えれば、例え一箇所にしか飛べないにしても、いわゆる瞬間移動ってのが簡単に出来るんだもん。こりゃ便利だわ」


 精密ドライバーを机上の道具箱から取り出し、ネジを緩めて保護カバーを外す。基盤が露わになると、彼女はますます興奮して頬を緩めた。

 ジュンヤも一緒になって内側を覗き込むが、機械に疎い彼にとって、目の前にあるそれがどのくらい素晴らしいかなど、さっぱりわからない。小さな部品一つ一つ、レナが丁寧に解説してくれるのだが、とても頭には入らなかった。


「市場には出回らないし、ビルの中でもこんなもの見たことない。恐らく、本当に上部の人間だけが持ってる装置だね。エマード博士は確か、今主流の埋め込み型転移装置の開発に関わってたはずだから、チップに内臓されたプログラムは全部理解出来るんだろうし、ジュンヤの持ってる小型転移装置の図面を見せれば、同じもの、作れると思うよ。基本は埋め込み型と一緒だもん。データを寄越せって、そういうことじゃないかな。……じゃあ、このレナ様が図面に起こしてあげようじゃないの」


 それからのレナは、実に頼もしかった。

 散らかしていたデスクから必要なもの以外を余所に移し、白い紙を敷いて丁寧に端末を分解していく。部品の箇所と説明を細かな字で、一心不乱にギッシリと書き込んでいる。レナによれば、細かい部品の殆どは家電製品などの回路にも使われているため、入手するのは簡単なんだとか。レアな部品に関しても、EUドーム内で製造されているものが多く、ビルの中で同等なものを製作するより、はるかに入手しやすいらしい。


「ここではまず不可能だけど、EUドームでなら手に入るもの、案外多いんだ。あそこは“アナーキストの聖地”、エマード博士のためなら誰だって、無償で物資を提供してくれると思うよ」


「ディックのためなら、無償で?」


「そう、無償で。そのくらい、彼は偉大なの。わかってる?」


 ――わかるわけない。

 いきなり秘密とやらを一方的に突きつけられ、“自分が思っている彼と本質とは違う”んだと理解できるようにはなってきたが、それでも、ジュンヤはまだどこかでディックを信じ切れていなかった。

 今は、誰かを信じなければいけない状況なのに。

 同居していたディックに何一つ話してもらえなかったこと、エスターがエレノアとして動き回っていたのを教えてくれなかったこと、母メイシィが自分の過去やディックとの関係をずっと隠していたこと――たくさんのことが絡み合って、ジュンヤの心をかき乱した。

 だから尚更、何も知らない癖にディックを信用するだの尊敬するだの豪語するレナとダニーが不可解で、同時に羨ましくもあった。


「……ところでさ、どうしてレナはディックのこと、そんなに信じられるんだ。いくら研究対象の縁者とはいえ、見ず知らずの人間、なんだろ」


 思っていたことがとうとう、口を突いて出た。

 自分の台詞にびっくりして息を飲むジュンヤに、レナは首を傾げた。彼女はしばらく、ジュンヤの言葉を噛みしめるようにして宙を見つめていたが、やがてゆっくりと長い黒髪を揺らし、身体ごとジュンヤに向き直った。


「ねぇ、逆に、訊いてもいい?」


「な、何を」


「長い間一緒に過ごしていたのに、あなたが博士を信じきれない理由」


 唐突な質問にどぎまぎし、心音が大きく耳元で響く。

 一番、訊かれたくないことだ。

 無意識にレナから目を反らした。

 ダニーのデスク、診察道具やら医学書やらがまとまりなく置かれているのをぼやっと見ていると、レナが椅子から立ち上がり、無理矢理視界に割り込んでくる。


「ジュンヤ、あんた、私たちのことも信用してないんでしょ」


 レナの真っ直ぐな瞳が、ジュンヤの心に突き刺さった。

 言葉に詰まり、息を飲む彼を見つめ、レナは虚しそうに顔をしかめていた。


「……人を、信じるのが、怖いんだ。だからそうやって、疑ってかかる。疑って疑って、幾重にも防壁を張ることで、裏切られたときのための保険にしようとしてる。そうやって生きていくのって、辛くない?」


 うつむくジュンヤの横顔を離すまいとして、レナはぐっと彼の両肩を掴んだ。細く弱々しい指が、ジュンヤの肩に食い込んでいく。


「私たちがあんたを見つけたことや、成り行きでとんでもない事実を知らされたことに関しては、正直“縁”だと思ってる。あんたを匿うことを快く了承したのも、別に何かしらこちらに得があるからじゃない。でもさ、人間ってのは面白いもんで、損得関係無しに力になりたいとか、信じたいとか思ってしまうわけよ。――ビルに来たばかりの頃、とある研究室に配属されて、エマード博士の功績を知った。彼の人柄が滲み出るような、丁寧でしっかりした仕事に、私は心打たれた。彼は信頼に足る人物だよ。私がそう感じた。理由なんて、そんなもんで十分なんじゃないの。ジュンヤはそういうの、博士には感じなかったの?」


 反らした目は、元には戻らなかった。弱い力で握られた肩は、震えていた。僅かな沈黙が重荷になって、ジュンヤにのしかかってくる。


「無条件で信頼するには、ディックの存在は、あまりに重すぎたんだよ」


 渇ききった喉から弱音が出た。

 情けなさで隠れてしまいたいのをレナに悟られまいと、ジュンヤは歯を食いしばった。


「その、重たい壁を打ち破るには、今しか機会、ないんじゃない。ね? ――私は、自分のことを“信じろ”だとか、“ついて来い”だとか言って信頼させる人間の方が、信用できないと思ってる。彼はそういう人間じゃないんでしょ。何迷ってんのよ。本当に信頼するべき人間は誰か、判断できない歳じゃないでしょうに」


「……簡単に言うんだな、レナは」


 ふうっと大きくため息をついた。

 目を上げると、レナもまた、寂しそうな顔をしてジュンヤを見つめている。何を言わんとしているのか、ただ深い深い悲しみがそこにあるように思えてならない。


「ここにいる人間みんなが“政府の犬”だ、なんて思ってない?」


「え?」


「“犬”なんかじゃない。私もダニーも、大切な人を、生活を、全て失ってる。ここしか居場所がないから、ここにいるだけ。……この苦しみから解放されるなら、協力だって惜しまない。目には見えないけど、このビルの中、そういうヤツはごまんといるはずだよ」


 彼女はそう言って、静かに笑った。潤んだ瞳には、一点の曇りもなかった。

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