Episode 10 束の間の幸せ

44・記憶の

 一日の間にあまりにもいろんなことが起きすぎた。

 EUドームに到着し、内部に案内されてアンリと会い、そのまま戦闘に巻き込まれた。合間にエスターをジュンヤが連れ去る。――考えてもみない展開だった。

 ディックは精神的に打ちのめされていた。

 全ての責任を負う覚悟で直走ってきたが、全て水の泡と消えてしまったような虚しい感覚が全身を駆け巡る。

 誰がどんな慰めの言葉を言ったところで、それは気休めに過ぎない。よりによってシロウの息子であるジュンヤが政府側に寝返っていたとは予想も付かなかった。誰がそう言ったのかは知らないが、自分について回る“天才”という肩書きが邪魔でならない。

 生き延びるために必死だった、それだけなのに。

 何故どんどん泥沼にはまっていくのか。

 塞ぎ込み、また自室に籠もった。

 大丈夫かと、妻と同じ笑顔で尋ねてくる娘はもういない。何も受け付けない。窓際の机、頭を抱えて伏した。

 額に滲む脂汗を手の腹で拭いながら髪の毛をかきむしっていると、またぐるぐる記憶の奥にしまっておいたものが這い出てくる。

 真っ暗い底なし沼の奥の奥、誰にも話したことのない、黒い記憶がひとつ、またひとつと溢れ出て、ディックを再び過去の世界へ誘っていった。



 *



 ラボ襲撃事件から一週間ほど過ぎた頃、二十七歳のディック・エマードは政府ビルの研究室に配属されることになる。

 政府の本部ビルは研究者にとっての聖地。そこに足を踏み入れることは人生最大の喜びだと少し昔の科学者が言っていた。それほど偉大な場所だった。

 彼は興奮し武者震いしていた。

 NCC出身者の回収をしているというティン・リー医師曰く、NCCの存在そのものを隠すためにその秘密を知ったものを全て殺した、その行為自体は罪に問われないらしい。決定的な証拠があったとしても、現行犯でない限り、コードのない彼が警察に捕まること自体ないのだが。

 精神を病みどうやって次の日を生き延びようか、死ぬことの許されない身体でゆらゆらと考えていた日から比べれば、何かしらの目的が与えられその場で生きることを許される方がいい。少なくとも完全に回復するまでのこの数日間、ベッドの上に縛り付けられてはいたが、リーの言葉はエマードのテンションを少しだけハイにした。

 ビル内の診療所から出ることを許され、リーに案内されて辿り着いた研究室エリア。各階毎に並ぶ様々研究室を、リーは事細かに解説した。それらはエマードの理解を超える範囲のものもあったし、当然彼がそれまで携わってきたものもあった。

 例のラボで続けてきたAIチップの試作品が引き継がれた研究室も存在し、彼はそれまでの功績が無駄にはならなかったのだと顔を綻ばせる。


「君の研究室はここだよ」


 配属先、ドア横のプレートには“空間転移システム研究室”とある。


「転移システム?」


 専門外だというセリフは口から出なかった。

 リーはいつものように静かに笑い、黙って彼を室内に通す。

 扉の向こうにあったのは、穴の空いた大きな四角い箱だった。何本もの太いケーブルがその箱から外へと伸び、床いっぱいに広がっていた。踏み場のない足元を避けるように歩くのを、カラカラと通る声で笑う女がいる。


「あなたが話題のディック・エマードね。結構素敵な青年じゃない」


 箱の裏からひょっこり顔を出した金髪の女性は、軽い足取りでケーブルの束を乗り越え、エマードとリーの元へと近付いてきた。白衣の下から覗く薄紅色のシャツと白いタイトスカート。あどけない笑顔は、彼の接してきた様々な異性とは少し違って見えた。


「エレノアよ。エレノア・オーリン。あなたと一緒に研究が出来るなんて光栄だわ」


 世辞ついでに出された右手を握り返す。小さなか細い手は、エマードの厳つい右手の中にすっぽりと収まった。


「ありがとう、ドクター・リー。素敵な研究員を見つけてくれて。これでここの研究も幾分かはかどるんじゃないかしら」


「礼には及ばないよ。研究が上手くいくのを祈ってるからね」


 軽く手を振り立ち去るリーを、二人は手を握り合ったまま見送っていた。いつまでその手をと彼女が言いかけたとき、エマードの口から意外な言葉が漏れる。


「綺麗な人だ」


 ためらいのない一言に驚き、彼女は強く握りかえされていた右手を勢いよく引き寄せた。顔を赤らめ、右手を胸元に当てながら、エレノアは背中まで伸びた長い金髪を左手でそっと掻き上げる。


「無口だって聞いてたけど。お世辞が上手いのね」


「いや、そんなことは」


「これから、末永くよろしくね。前の助手がすぐに辞めちゃって困ってたのよ。今日は他の研究員は出払ってて、私ともう一人、軍からの出向で来てるケネスしかこの研究室にはいないの。――ケネス、いる?」


 エレノアの声を待っていましたとばかりに、奥の扉から一人の青年が顔を出した。

 金髪混じりの茶系統の頭は、育ちがいいのか丁寧に撫でつけられたように整っていて、とても軍人のそれとは思えない。まだ幼さを漂わせた十代の少年だ。

 着慣れない白衣を無理矢理着させられたような彼は、やはりケーブルをぎこちない足取りで乗り越えながら彼らの元へと何とか辿り着いてきた。


「今丁度試作機を作ってるところなの。かなりのエネルギーを必要とするもんだから、あちこちからケーブルを引っ張ってるのよ。歩きにくいのは諦めてねって、人が来る度に言ってるんだけど、どうもみんな慣れなくて。ケネスも最近ここに来たばっかりで、まだ足元が怪しいのよね」

 軍と言っても、国という概念の存在しなくなった現代においては、反政府組織の一掃以外に確固たる目的を持たぬ組織。ドームに囲まれた世界では他勢力からの侵略なども有り得ず、単純にその権威を維持させているだけに過ぎない。今や警察に取って代わられるまでの落ち込み方を見せる組織の送ってきた助手、まさか右も左もわからぬような未成年とは、鼻で笑ってしまう。

 ほら挨拶なさいとエレノアに急かされ、ケネスはそのあどけない笑顔をエマードに向けた。


「ケネス・クレパスです。俺、あなたを尊敬してるんだ。政府のために全てを捧ぐ――わかっていても、そうそう出来るもんじゃない。あなたは科学者の鑑だよ」


 握手を求めるケネスに、仕方なく手を差し出した。

 どこまで話が美化されているのだ。研究員と家族を嬲り殺し、反感を買って反政府組織に襲撃され、全てを焼き払ったというのに。

 密閉されたドームの中、最大の罪とされる火災、爆発事件。それを上手い具合に誤魔化した誰かがいる。一体何の目的でそんなことをしたのか。ケネスは熱く自分の思いをぶつけてくるが、一切エマードの耳には入らない。

 昨日までは、政府ビルの研究室で働けることを楽しみにしてきたのだ。しかし現実は歪んでいた。純粋に喜べないのかも知れないと、エマードは思い始める。

 どこかで誰かが自分の手を引いて、知らないうちに情報を修正している。

 誰が、何の目的で。

 ――生かされている。

 今まで感じたことのない、見えないものに対する畏怖をエマードは少しずつ感じ始めていた。

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