45・それは幸せなひとときだったに違いない
政府はエマードに、研究室どころか仮住まいまで用意した。全て無くし絶望していた彼にとって、政府の対応は丁寧すぎた。
政府がひた隠しにする、忌むべきNO CODEに対してそこまでする必要があるのか。親切すぎるあの医師ティン・リーのにこやかな笑顔さえ歪んで見えた。
空間転移システム研究室のエレノア・オーリン女史はかたくなに身の上を語ろうとしないエマードに魅力を感じたのか、ことある毎に彼に絡む。
「ねぇ、食事でも」
初日から彼女は彼を誘った。
何度か断っているうちに面倒になり、とうとう彼女の誘うまま高級レストランに招待される。会話などはない。ただ一方的に彼女が話すだけで、それを彼は軽い相づちで返す。
誰かと親しくなるというのは実に居心地が悪い。
語り合い微笑み合うなど、考えたくもない。
根っからのマイナス思考は簡単には変わらないものだ。第一、NCCの施設でどうやって生きてきたのか、彼女が知ったら自分を軽蔑するに違いない。
『コードの無い人間なんてそう珍しくも無い』というリーのセリフを信じたとしても、自分ほど恐ろしい過去を背負ったヤツなどそうそういないはずだ。死ぬことの出来ない恐ろしい身体の秘密を知ったら、誰だって気味悪がる。彼女の笑顔もいずれ凍りつき、醜悪なものでも見るように顔を覆うことは目に見えている。
エレノアのペースに少しずつ巻き込まれながらも、エマードは緊張感を解すことはなかった。
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「転移システムの小型化軽量化が進めば、更に少ないエネルギーで物資の移動が出来るようになるわ。今の大型転移装置じゃ一回の転送毎にかかる電力が多すぎて、物資に対するエネルギー費の割合が極端に高すぎるじゃない。これを何とかして今の半分以下、出来るなら一〇分の一以下に抑えたいの。何度か手伝ってもらった実験でわかったと思うけど、多分回路そのものから見直さなきゃいけないんじゃないかしら」
設計図と基盤が無造作に広げられたテーブルの上、問題だと思われる箇所に赤丸を付けながら彼女は言った。
月と火星、各ドームへの物資移動に欠かせない空間転移装置。離れた二つの地点を時間差無しで移動できるこの装置は、長い間地下通路を通して物資輸送を行っていたそれまでの流通を一気に変えた。
各ドームで生産されたものを大量に安全に即座に移動できるとあって、装置完成後すぐに政府はこの方法を取り入れた。工業製品から生鮮食品まで様々な物資がこの装置により毎日各ドーム・基地へと運ばれていく。
同時に地下通路は完全閉鎖された。
初号機が開発されたのが百年ほど前、それから何度か改良をえて今の形になっているものの、未だ巨大な装置と使用される莫大な電力に、政府は頭を抱えていたのだった。
研究室に集った研究員らに目配せし、エレノアは最後に目線をエマードの元へ向ける。
「どう、エマード博士。何かいい案は。博士のいたラボではかなり性能のいいAIチップを作ってたって聞いたけど、それを応用することは出来ないかしら」
「まぁ、やろうと思えば出来なくもない。引き継ぎ先の研究室がそれを許せばだろうが」
「掛け合ってみるわ。許可が出たら、改良に入るわよ」
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――二人の距離が縮まるのは時間の問題だった。
例えエマードが拒んでも、彼女とは仕事をしなければならない。一緒にいる時間が長くなればなるほど、彼女を拒み続ける理由もなくなる。
NO CODEであることを彼女は了承していたし、それによって態度が変わることもない。初対面につい口から出た『綺麗だ』のセリフが尾を引く。彼女は外見のみならず心まで純粋で美しかった。荒んでいた彼の心を彼女は静かに癒していった。
「エマード博士はエレノアとそういう関係なの」
ケネス・クレパスの安易な一言がなければ、親密な仲になっていたことすら確信できないほどに、彼は溺れていた。
相変わらずケーブルだらけの研究室にもう何週間も泊まり込んでいたある日、休憩中のエマードに飲み物を差し出しながら、ケネスは囁いた。
「みんな言ってますよ。二人、かなり親しくなってきてるねって。エレノアがあなたを見るときの目が、最近違うんだもん。あれは完全に恋する乙女の目だってね」
「乙女も何も、彼女は俺より年上だ。何より、そういう対象にはならないよ、俺は」
椅子の背にもたれかかりため息をつくエマードの隣に屈み込んだケネスは、まさかと声を出して笑った。
「博士は自分が思っているよりも男前ですよ。自分のことに無頓着だから気づかないだけで。そのストイックさが受けてるって、なんでわからないかな」
まだ十八歳のケネスは他人の色恋沙汰にばかり夢中で、助手と呼ぶにはまだまだ未熟すぎる。専門教育を受け、特殊装置開発のノウハウを学ぶために軍から出向してきたのだと聞かされたが、それにしても緊張感に欠けていた。
頼んでもいないのに人の世話をしたがり、周りをチョロチョロと小動物のように駆け回る。人に取り入るのが上手く、他の研究員とも親しかった。
どこでされていたかもわからない噂話を本人にしたところで一体何が楽しいのだろうと、エマードは目を伏せた。
例え心を奪われたとしても、彼女と身体の関係を持つようなことにはならない。
自分を支配する悪魔の遺伝子が引き継がれるようなことは、あってはならない。
数年、近いような遠いような関係を引きずった。
彼女と二人きりの時間がなかったわけではないし、彼女の気持ちに気づかなかったわけでもない。ただ、自分という存在を呪うあまり、エマードは常に自分の周りにシールドを張って彼女と一定の距離を取ることを忘れなかった。
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引き直した図面を基に、それまで研究室の一部屋を丸々使用していた装置やケーブルを整理して床下に埋め込み、強化アクリル板で覆う。集積回路がうっすらと透ける足下の装置の中心には、エマードがかつて開発に携わっていたAIチップが形を変えて収まっていた。
エネルギー量を目標の一〇分の一以下に抑え、それまでの大きな操作パネルを改良してノートサイズにまで縮めることに成功する。埋め込み型の装置は大量生産には向かないが、性能を考えればこれまでの転移装置に代わり、政府で広く使われるようになるはずだ。
研究が完成に近付くと、それまで寄り添うように仕事をしていたエレノアの態度が少し変わったことに気づく。お互いそういう気持ちでいたのを知っていても、決して愛を語ることのなかった二人の時間は終わろうとしていた。
世話焼きのケネスが無責任に言う。
「エレノアと離ればなれになることになって、それでいいの」
窓のない締め切った研究室が息苦しくなかったのは、確かに彼女がいたせいかもしれなかった。
エマードの中で彼女の笑顔の占める割合がどんどん大きくなり、研究と共に別れが訪れることを知った彼女も同時に苦しみ始めているのだと隣で感じていた。
自分がもし普通の人間であるのなら抱え込まずにすんだ気持ちをどう整理すればいいのか。いつまでも彼女のことを想い続けているわけにはいかない。
暗く沈んでいく。彼女のことを想えば想うほど。
昔からわかっていたことだ。自分には一生幸せというものは訪れない。全てどこかでコントロールされていて、動けば動くほど事態は悪化する。
だからこそ、エマードは彼女に自分の気持ちをさらけ出そうとはしなかったのだ。……その日までは。
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