第64話 色石の正体は…
*
柔らかな毛糸の手足を、もそもそと動かしてみる。
両手のひらを広げれば、すっぽりおさまるくらいの『オオカミ公爵』。
鏡台の丸椅子に浅く腰をかけ、鏡の前で『オオカミ公爵』の毛糸の髪に指先を絡めてくしゃくしゃっと遊んでみても、このモヤっとした気持ちはおさまらない。
「はぁぁ……」
————ディートフリート様っ。
ぎゅうううぅ。
力一杯抱きしめられて、『オオカミ公爵』が私の胸のなかで苦しそうに潰れている。
焼きたてほわほわのパン、湯気を立てる檸檬色のスープ、
テーブルの上に朝食をととのえ終えたユリスが、鏡台からから動かない私の両肩をぽん!とたたいた。
「今更感がありますけれど。リリアナ様がほだされているのは、恋の病ですね!ささ、朝ごはんですよっ。お腹を満たせば元気になります」
「ユリス……もう言わないで?自分でもちゃんと、わかっているのよ……」
のろのろと足を動かしてテーブルに着けば、甘い匂いに刺激されてお腹が鳴った。ティーカップに注がれる紅茶が、こぽこぽと軽快な音を立てている。
昨日の深夜。公爵の唇が触れた場所に手をやれば、背中がそわりと波打った。
「ご心配なさらなくても。どこも赤くなってはいませんよ?」
「 ぇ ?!」
ユリスに、見透かされてるっ———!
頭にぶわっと血がのぼった。
「ユリスっ!あの……あのねっ、首筋に……その……。ちょっと、キス……されただけなのよ?!他は何もっ、ないんだから」
「ふふっ、そうでしたか。お熱が下がるまで、旦那様がついてくださっていたそうですものね」
「そう……そうなの。昨夜の私の熱のこと、あなたも知っていたのね?」
「ええ、今朝になってリュシアン様からお聞きして。慌ててお部屋に伺えば、リリアナ様はすやすやとお休みになっていましたから」
「え……!リュシアンが来てるの?!」
聞きずてならない名前に、必要以上に反応してしまう。いつでも不機嫌なあの面差しを思い起こせば、公爵とのあまい時間の余韻がふっ飛んでしまった。
せっかくモリスの地まで来たというのに、リュシアンと遭遇して嫌味のひとつも言われるのではと、心そぞろに過ごさねばならないのだろうか。
「朝食のあとは、旦那様と桟橋にお散歩なのでしょう?楽しみですねっ!」
そんな私の気持ちを察したのか、ユリスが明るい声を投げてくれた。
「た、楽しみだけれどっっ……何だか、緊張すると言うか、胸がぎゅうっと痛いと言うか……。これまで何ともなかったのに。今さら会うのが緊張するだなんて、おかしいわよね」
私の問いかけに、ユリスが答えた言葉を
『苦しくて、痛いです。でも、その痛みがいいんです』
痛いのが、いい。
あの時は意味がわからなかったけれど——確かに、この痛みは不快ではない、むしろ愛おしい。
支度を済ませて扉を開けても、廊下に公爵の姿は見当たらず、今朝の『出待ち』はないみたい。
少しばかりホッとして。そのまま廊下を進めば、中庭を望むテラスに白い人影が見えた。厚地のコートの上に襟巻き。がっしりとした体躯がことさら際立っている。
「ディートフリート様……?」
昨夜降った雪がうっすらと積もり、テラスの向こうには朝日にきらめく一面の雪景色が広がっていた。
公爵は——。
まるで何かに捕らわれたように、視線を桟橋のむこう側に向けている。
白い息が吐かれ、空から注ぐ光に眩しそうに目を細めて……。
その
「……リリアナ?」
立ち止まった私に気付いた公爵から、破壊的な笑顔の砲弾が飛んできた。
「おはよう」
ああ、やられた。頭がくらくらする。
「おはよう……ございます。昨日は、その……」
「今日も髪をおろさないのか?」
おはよう、の次の言葉が髪のことだったので、少し戸惑ってしまった。
湧きあがろうとする緊張と、昨夜の記憶の反復をどうにか抑え込む。
「ですからっ。髪をおろすのは、似合わないので……」
公爵に笑われたことを幾度となく思い出しては、トラウマのようになってしまった髪の事。
何度も同じことを訴えているのだから、できればもう触れないでいて欲しい……。
私のそんな願いもむなしく、公爵が頭の上にまとめた髪に触れてくる。
「ぁっ」
驚いている間もなく、ポニーテールに巻かれたリボンがほどかれて。少し癖のかかった鉄錆色の髪が——肩に堕ち、コートのフードを超えて背中に堕ちた。
「ほら……綺麗だ」
「っ?!」
(……今、きれい、って、言いました!?)
「あの……。今日は笑わないのですか」
「笑うって、何を?」
「私が髪を下ろすと、変だって……」
「えっ?」
「前は笑ってらっしゃいました」
「笑うはずがない」
「だってもう何度も笑われてます」
「それは多分、笑ったのではないよ」
「では……あの笑みは、何だったのですか?!」
「だから、さっきも言った通りだが——」
綺麗だよ。
そう言って目を細め、頬にかかる私の髪を指先で
公爵のその一言が、全てを帳消しにしてしまうのだから不思議だ。
私はまたすっかり恥ずかしくなって。顔から吹き出しそうな炎を無理矢理におし込める。
「初めからそう思っていた。だから
「そんなっ。これまで、ずっと……すごく気にしていたのにっっ」
「それは……知らなかった。私の曖昧な言動が、リリアナにトラウマになるような勘違いをさせたのだな?」
公爵は
「罪滅ぼしにはならないだろうが。開けてごらん」
おもむろに包みをひらけば、赤と白の小さな花が互い違いに重なり合い、花々の中心にはたくさんの細かな
「お花……の、髪飾り?」
「ヘーゲルリンデで見つけた単純な造りの代物だが。リリアナがこれを付けたところを想像したら、つい買ってしまってね」
「きらきらしていて、キレイです……」
私が……ヘーゲルリンデの町の露店で立ち止まったから?
露店に並んだ装飾品を、私が物欲しげに眺めていたから……公爵に、変な気を遣わせてしまったのかもしれない。
少しでも揺らせば、角度を変えた色石のすべてが宝石のように輝いて——って、ん??
色石にしては、輝きが、はんぱないのですが。
「これって色石じゃなくて、まさか……ほ………宝石っっ?!こ、こ、こんなっ!高価そうなものっっ」
公爵が否定しないと言うことは。
紅色のかがやきはルビー、紫はアメジスト。ひときわ白く煌めいているのは……ダイヤじゃないの?!
——ヘーゲルリンデで、いったい……いくら……使ったのですか。
手のひらの上に乗っている神々しいものにわたわたしていると。私の慌てようを目を細めて眺めていた公爵が、髪飾りを手に取った。
パチン、と額の上でピンが留まる小さな音がして——髪飾りはもう、私の髪の一部になっていた。
「ああ、やっぱり似合うな。可愛い、可愛い」
ぽふ、ぽふ。
まるで子供をあやすように、私のあたまをぽふぽふする!
「こっ、こんな高価なもの……、私、どうすれば?! 昨日の、ピアノのこともありますし、いただいてばかりでは申し訳なさすぎますっ」
「申し訳ないとか、そんなふうに思わなくていい。リリアナはもうじき、私の妻になるのだろう?夫が妻に物を贈れば、妻は申し訳ないのか?」
「そういう……ことじゃなくてっっ」
「私が良いと言っても、まだ申し訳ないと思うのか?」
「はいっ!超絶に申し訳ないですよっっ」
「ならば——」
私の願いを聞いてくれ。
繊細な指先が、腰まである私の長い髪をひとすじ取り上げて、口元に持ってゆく。
「これから私の前では、髪をおろしていてくれないか?まとめているのも
「へっ…?!わ…、わかり……ました。そんな事で、いいならっ」
ふ、と安堵したように微笑んだ公爵が、再び
「実はだな……」
取り出したものは、またもや薄紙の包み。
「ここにもうひとつと、箱が
「ええっ!?どうして、そんなにっ」
「ん、全部似合うと思ったし。そもそも私の可愛いリリアナに贈るものが小さな飾り一個だけなど、ありえんだろう、それは!」
公爵は口元に拳をあてて、さも嬉しそうにくくっと喉を鳴らす。
「…………は?」
ディートフリート様。
それは、無駄買いの、ただの甘やかしです………。
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