——エピローグ(1)



人生は、ままならない。


鉄錆色の瞳と髪色の容姿を授けられたおかげで、家族にすら蔑まれ、使用人同然の扱いを受けながら屋根裏部屋で暮らしていた私が——今は白亜の『白椿城』と呼ばれる美しいお城に住み、王弟の嫡男の奥方になるのだから。


エレノアから譲られたものでも、借り物でもない。

私の人生は、今、ちゃんとここにある。


私の旦那様は——かつて『ウルフ公爵』と呼ばれたその風貌から、まるで凶暴な獣だ、頭のおかしな偏屈だとあらぬ噂が流れ、王都の人々に疎んじられてきた人だ。

容貌が原因で嫌われ者だったところは、旦那様と私は少しだけ似ているかもしれない。


出会って間もない頃は『似た者同士』だと思っていたけれど、狼公爵の仮面の下に見目麗しい面立ちを隠していた旦那様は、外見もじつも平凡な私とは似ても似つかぬ人。

間もなく国王に正式に即位なさる王太子殿下の下命によって、新国政の次期宰相に就任されることが決まっている。


社交のお茶会でも常に話題にのぼる、『どんな時も精悍な様相を崩さぬ』と噂の、英明果敢なランカスター公爵。そんな自慢の旦那様は———。


「頼むから……」


と懇願しながら、私を後ろからそっと羽交締めにする。私の頬に自分の頬を寄せると、


「あれをもらわねば、心許ないのだ」

すがるような声で耳もとに囁いた。


「でもっ、急がないと。お約束の時間に遅れても良いのですか?」

「言ってる間に済むだろう?」


部屋の扉に手を掛けていた私は、胸の前に組まれた逞しい腕をほどき、仕方なく旦那様に向き直る……それを見て、ぱっ! と表情を明るくした旦那様は、私を前にひざまずいて目を閉じた。


誰もが恐縮してしまいそうな、この秀麗な振る舞いだけれど。


(旦那様……? お尻にぶんぶん触れるしっぽが見えてます。

まるで『なでなで』をおねだりする子犬みたい……)


くすっと笑ってしまうのは、頭の中だけにして。

私は胸の前で手を組み、目を閉じた。


「繁栄の神と精霊の御名みなに於いて、ここに祈りを捧げます」


願わくは御名の尊まれんことを。

御国みくにの来たらんことを。

御胸みむねの天に行われんがごとく、

地にも行われんことを。

我らが罪をゆるすがごとく、

我らの罪を赦したまえ。

我らをこころみにあわせず、

悪より救いいだしたまえ。

国と力と栄えとは、

限りなくなんじのものなればなり。


旦那様の額に向かって十字を切れば、もうすっかりお仕事前のお決まりになっている『お祈りのおまじない』は、無事終了。


「時間が無いので、文言を少しだけ省略しちゃいました……」

(神様、お赦しください。)


立ち上がった旦那様が、眉根を下げてほっとしたような笑顔を見せる。

「ああ、これで力が湧いた。行って来る」


旦那様は伸ばした手でぐっと私の腰元を引き寄せ、チュッ、と頬に優しいキスを落とす。

そのまま部屋を出たけれど、名残惜しげに振り向いた。


「あの、お見送りはっ……」

「急ぐからここでいいよ。リリアナは明日の為にも、身体を休めておけ」


颯爽と廊下を走る礼服の広い背中を、見えなくなるまでぼうっと見つめていた。柔らかな唇が触れた頬は熱く、胸の奥がじんと心地良く痛む。

旦那様のものならば、見慣れたその背中さえも愛おしい。


「はい。行ってらっしゃいませ……ディートフリートさま」


今日は大切なご用があって、王都内の、どこぞやの貴族の邸宅に出向かれるそうですが———。

昼食を食べる時も難しい表情かおでお皿と睨めっこをしていたし、あまり楽しいご用事ではなさそう。


結婚式の前日でも、旦那様は忙しい。


「……と、言う私も。子ども達とみっちりお稽古だけど」


自室に戻れば、衣装部屋の前には(私のような者が袖を通すには)あまりにも豪華な婚礼衣装ウエディングドレスが飾ってある。

日の光を受けてきらきらとかがやき、眩しいくらい。

いよいよ明日……これを着て神様のお許しをいただき、旦那様の正式な妻になるのだ。


「とは言っても、この日常はさほど変わらないのだし。あんまり、実感がわかないな……」


結婚式を終えるに伴って、きたるは———。

変わるといえば、旦那様の推しの強さを婚前だという理由でもう拒めないということだ。


ああ……考えただけでも顔から火が出そう!

結婚式の日を指折り数えていたけれど、指を一本折るごとに『その時』が近づいていると思えば気が気でなかった。


エメラルドの瞳に見つめられ、旦那様のあの色香に包まれながら、身体に触れられたりしたら。


———私、いったいどうなっちゃうんだろう!?


否応いやおうなしに膨らむ妄想、ぼっと火を吹く頬を両手でこすって消火した。


「はぁっ……ドキドキするのは明日にしようっ。もうすぐお稽古が始まるのだし!」


気持ちを切り替えようと、ドレスのあちこちに散りばめられた、輝く宝石にそっと指で触れてみた。

このひと粒ひと粒が、きっとおそろしく高価なものに違いない。


婚礼衣装がうやうやしく手元に届けられたとき、その豪華さに圧倒され、ただ見つめる事しかできなかった私に旦那様は言葉を下さった——堂々と触れればいい。君のものだよ、と。


それなら……。

本当にだと言ってくださったのなら。


「名案を思いついたの」


午後一時。

私の部屋にティーセットを運び入れる専属メイドのユリスは、今日もきっちり時間通りだ。


「……ねっ。いい考えだと思わない?」


突然切り出された提案に、ユリスがあんぐりと口を開け、目を丸くするのは予想がついていた。

もしも私がだったなら、こんなことを言い出すどころか、想像すらしないだろう。


「ですが、旦那様がなんとおっしゃるか……」

「きっとディートフリート様も、自由にしていいって言ってくださると思うの」


結婚式が無事に終わったら、旦那様に思い切って話してみよう。


『婚礼衣装に縫い付けてある宝石を外して、学校や教会や保護施設に寄贈してはどうでしょう。旦那様の名のもとに。』


そうすれば宝石が(換金されるでしょうけれど?)無駄にならないのだし、王都でのランカスター公爵家の評価も上がるかも知れない。


旦那様はとても仕事熱心で、領地の運用などでお金は使う分だけ入ってくるのかも知れないけれど……旦那様が散財することにいつまでも慣れることはない。

と言うか、大した物品を持たずに育った私は根っからの貧乏性なのか、何でもすぐに勿体ないと思ってしまうし、贅沢のしかたもわからない。


「思慮深い旦那様がむやみに散財しているとは思わないし、お気持ちは有難いのだけど……価値のあるものは有意義に使わなくちゃ。ドレスにくっついたまま使命を終えてしまっては、宝石だって可哀想でしょう?」

「ふふっ、リリアナ様らしいですね。そのご意見、私も賛同させていただきます」


ユリスが淹れてくれた、自家製のミントティーを口に含めば。

首を傾げたユリスが形の良い眉をひそめる。


「そういえば、おかしな少年の話を聞いたのです。門の中の様子を伺っているのを門番が何度も見かけていて、いつもならすぐに逃げ去ってしまうらしいのですが……今朝は面と向かって、少年の方から門番に声をかけて来たそうなのです」


「へぇ、なんて声をかけてきたの?」

「それが……『公爵様の奥方に会いたい』と」


飲みかけのお茶を溢しそうになった。


「素性も知れない子ですし、もちろん門番は丁重にあしらったそうなのですが」

「あしらったって……。少年って、まだ子どもなのでしょう?! 何度も私を尋ねてくれていたのに、追い返すなんて……!」


ガタンと椅子を鳴らし、慌てて立ち上がった私をユリスがなだめる。


「まだ近くにいるかも知れないもの。ちょっと見てくる」

「お待ちください、続きがあるのです。門番と話したあと、すぐに少年を連れに来た方がいらして。修道女のシスターアンヌ、どうやらその少年は、裏の孤児院の子だったようなのです」

「孤児院の子……?」

「これまで何度も来ていたので、何か事情でもあるのかと」


……そんな話を聞いてしまえば、気になって仕方がない。

お稽古の子供たち以外で私を訪ねてくれた人なんて、(社交を除いて)初めてだもの!


「お稽古の時、シスターアンヌに聞いてみるわ」







私がまだ見ぬその『お客様』に想いを馳せていた頃。

旦那様は道を急ぐ馬車の車窓から、窓の外を猛然と見つめていた。


向かい側には、旦那様に負けず怪訝な面持ちのリュシアンが腕を組み、まるで眠るように目を閉じている。

二人の間には一言の会話もなく、重く張り詰めた空気が場を占めていた。


歩道を行き交う人々が街の景色の一部分となって流れていく。


旦那様の目に映るのは、煌びやかな人々の日常ではない。

その瞳の奥に残る、敬愛するお父様の凛然とした面影。お母様の深い愛情、妹君の愛らしい笑顔。

そして——雪山の猟師小屋で目にした、最愛の人の背中に広がる、赤黒く痛ましいあざ


旦那様は眉を顰め、エメラルドのを殊更に細める。


馬車を引く艶やかな黒馬は王都の大通りを抜け、街路樹が揺れる閑静な路地に入ってゆく。壮麗な屋敷が立ち並ぶ邸宅街を抜ければ、青々とした木々の林の角を曲がったところにある、一際大きな屋敷の門前で馬車は馬の歩みを止めた。


御者がうやうやしく馬車のドアを開ければ、その面持ちに露骨な睥睨へいげいを見せる旦那様——ランカスター公爵が、門前に静かに足を下ろし、リュシアンがそれに続く。


二人は空を仰ぎ、黒々と複雑に組まれた金属製の小高い門を睨め付けた。

艶のある低い声が繋がり、幾つかの言葉になる。


「ケグルルット…——貴様の終焉の日だ」




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