第95話『星月夜』の秘密(2)
ああ……どうして、今まで気付かなかったのだろう。
宵闇色の髪を高く結え、いつも白っぽいドレスを纏っていたあの美しい人は。
「……エヴリーヌ先生……!」
私は、その絵姿を食い入るように見つめ続ける。
「リリアナ?」
そんな私を、心配そうに揺れるエメラルドの瞳が覗き込んだ。
先代のランカスター公爵は、ケグルルット伯爵と頻繁にお酒を酌み交わすほど親近の仲だった。
そんな公爵の奥様ならば、私の母とも交流を持ち、ケグルルットの屋敷に出入りをしていてもおかしくはない。
『あなたの髪と瞳の色は、錆びた鉄の色なんかじゃない。先生の大好きな、グルジアの海に沈む夕陽の色。一日中一生懸命に働いて、疲れきった人たちを癒す色。だから先生は、リリアナの髪と瞳の色が大好きなの』
忌み子の自分を嫌いにならずに済んだのは、先生の言葉があったから。
笑顔が太陽みたいにかがやいて……いつか先生のようになりたいと憧れ続けたエヴリーヌ先生。
母が亡くなってからも、だたひとり優しくしてくださったエヴリーヌ先生。私の身体の
幼い子どもだった私が、ケグルルット伯爵にどんな扱いを受けても耐えてこられたのは、先生に抱きしめてもらえたから。
先生に、ピアノを弾く幸せを教えてもらえたから———。
『いつも頑張っているリリアナお姉ちゃんに、先生が《秘密の曲》を教えてあげる。あなたに幸せを運んでくれる、魔法の曲なの。だから誰かに教えたり、人前で弾いてはだめ。先生は、リリアナに幸せになって欲しいの。だから約束よ? リリアナ——…」
そして《秘密の曲》の存在があったからこそ、先生が亡くなったあとも私は心を壊さずにいられたんだ——いつの日か《秘密の曲》が、幸せの魔法を運んでくれると信じて。
「エヴリーヌ……先生……っ」
大好きだったのに。
強く生きなさいと、優しく微笑みかけてくださったのに。
美しく儚い虹のように、この世界から突然に消えてしまった。
ああ、今やっと理解ができた。
公爵が忌み子を知らなかったことも、ある日突然に告げられた『亡くなった』という知らせにも。
エヴリーヌ・ランカスター公爵夫人。
公爵の、お母様———。
知らないうちにポロポロと、目頭から熱いものがこぼれ落ちた。
おいおいどうしたと、公爵が私の肩を抱き寄せる。
「リリアナは私の母を知っていたのか」
「知っていたもなにもっ……。私の、ピアノの先生です」
小さな四角い絵姿を、ぎゅうっと抱きしめた。
「今のリリアナと同じに、孤児たちにピアノを教えていた母が誇らしげに話していた。身を置く境遇はひどいものだが、素直で強く、熱心で、他の誰よりも繊細な音を
「さぁ……どうでしょう」
エヴリーヌ先生が私とエレノアの他にどんな子たちを教えていたか私は知らないのだし、優秀な生徒ならもっと他にいるはずだもの。
「だけど、もしもそうなら……嬉しいです」
私はもう一度しっかりと、絵姿を抱きしめる。
「リリアナが何故、母の『
——リリアナ、よく聴いて?
公爵が、片手の指先を鍵盤の上に置く。
ぽろん、ぽろん、、、廊下に響いていた『曲』にならない『音』。
「それでも君は、『星月夜』の名を知らぬと言うのか?」
「……はい。モリスでも同じことをお尋ねになりましたね。あの時も申し上げたのですが、そのような曲名には聞き覚えがないのです。ディートフリート様がケグルルットの屋敷に来られた日は、思いつくままに何曲も弾いていましたし……いったい、どの曲の事をおっしゃっているのか、わからないのです」
心当たりを弾いてみるけれど、どれも公爵が言うものとは違っているみたい。
「作曲者の名前とか、作曲された年代とか。お母様から聞いていませんか?」
「ああ、作曲者も年代も不明だ。知識のある者に調べさせたりもしたが、まず楽譜が存在しない。知る者もいない……まぼろしだ」
公爵は言う。
ケグルルットの屋敷でそれを耳にした時は、喉から胃が飛び出るほど驚いたのだと。
その出来事が、エレノアとの縁組を申し出るきっかけになった。
つまりは、公爵と私との縁を繋いだのが——『
そして楽譜のない『星月夜』を弾ける者は、公爵が知る限り私の他にいないのだと。
ぽろん、ぽろん、、、
「生前の母が私と妹によく弾いてくれたんだ。あの頃の思い出に触れたくてね。昔の
すっかり傷の治った綺麗な人差し指が、一生懸命に鍵盤を押している。
「わからぬか?」
……わからぬな。
時々音が外れるし、そもそも一本指演奏だし———っっ。
「えっと……えと。これでしょうか?」
「いや、それも違う」
う〜んと、二人で何度も悩むうち。
「ああっっっ!」
「思い出したのか?」
「……思い出しました」
公爵の
そうだ、私ったら———。
エヴリーヌ先生の正体に驚いて、そのあとは曲探しに夢中になって。
「ユリスを廊下に待たせたままです……」
公爵は虚を突かれたようにきょとんと目を丸くする。喜びにかがやいていたエメラルドの瞳が、みるみる落胆の色に変わった。
「ユリ、ス……」
「『星月夜』は、近いうちに必ず探しますっ。私、もう行かなくちゃ。暗い廊下に一人きりで、ユリスはきっと怖がっています! 戻らない私のことを心配しています!」
ユリスの事がなければ、公爵は今すぐにでも『星月夜』を突き止めたかっただろう。
それは公爵にとって、焦がれ続けた今は亡き家族との思い出を、やっとの思いで手に入れるのと同じことだから。
公爵は手のひらで顔を覆い、
「仕方がない、今夜は諦めよう。夜中に騒がせてしまってすまなかったね。メイドたちには伝えておいて……夜中に鳴る音の正体を」
さすがに、みんながお母様の幽霊の仕業だと思っているとは言えませんが、これで深夜のお化け騒動に決着がつきそうですね。
「はいっ! あの不気味な音はディートフリート様の生演奏だったと、しっかり伝えておきますねっ!」
「え、? ……ああ、そう、だな」
私の言葉を聞いた公爵が別の理由でがくりと肩を落とした。
慌てて部屋を出た私は知るよしもない。
「不気味な、音…………」
もう二度とピアノは弾くまいと、公爵がかたく決意したのを。
*
そんな事があってから、数日が過ぎた頃だった。
門番と使用人たちのあいだで、ある少年の噂が持ちあがる。
まだあどけない表情を残す——おそらく十歳にも満たぬだろう——粗末な身なりをした一人の少年が、時々、正門の前に立ち尽くし、
「ランカスター公爵家に何か用か」
門番が尋ねれば血相を変え、慌てて逃げ去ってしまうのだ。
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