第48話 君は、私の婚約者だろう?
「ディートフリート様……?」
目の前のその腕は、どう理解すれば良いのでしょう。
シモンおじいさま——どうしても敬称を付けてしまう私を気遣って、彼がそう呼んで欲しいと言ったのだ——の後ろを公爵と歩きながら、人の目を気にして億づいている私に、公爵が左腕を差し出した。
「その顔を見ればわかる。人目が怖いのだろう?恐怖心というものは、誰かにくっついていると和らぐものだ」
————私に、腕を、組めと!?
「……お、お気持ちは嬉しいのですが……甘えるわけには」
「どうして?」
「そんなことをしたら、皆んなが勘違いしてしまいます」
「何を?」
「わ、私たちが、恋人同士だと……」
は!と軽く笑った公爵の顔。
爽やかな、優しい笑顔だ。
今日まで髪とお髭に隠れてよく見えなかったけれど、以前からこんな笑顔を向けてくれていたのかも知れない。
「君は、私の婚約者だろう?恋人同士だよ」
——そうでした。
恋人、同士……でした。
『旅のあいだ、君は私の婚約者だ』
それにはひどく戸惑ったけれど、若い男女が二人で旅をするのだ。婚約していると言っておけば、
「……お気遣い、有難うございます」
ひどく遠慮がちに、差し出された腕に手を添える。
人前に出るのが怖い気持ちが消える事はないけれど、自然と触れ合う肩から暖かさが伝われば、不思議と心が安らいで……ふ、と口元が緩んでしまった。
公爵の顔を見上げると、私が腕を組んでいるのが何でもないみたいに、シモンおじいさまと“じびえ“の話をしている。
空気を吸うみたいに、女性に腕を組ませるのですね?
そんなふうに思ってしまった、この気持ちは何だろう。
——あなたと腕を組むの、私にとっては一大事です……!
「リリアナ。地元のジビエ料理を町長夫妻が振る舞ってくれるそうだが、ジビエは平気か?もしも苦手なら別のものにしようと思うが」
「じびえ……って、なんですか?」
平気か苦手かも、わかりません。。。
公爵とシモンおじいさまが顔を見合わせた。
「せ、世間知らずで申し訳ありません……」
「初めてなら、一度経験してみるのも悪くないと思うよ。村長の邸宅に行く前に、少し寄り道をしていこう」
「経、験……?」
食べるもの、ですよね?
雪帽子をかぶった草原の中にオレンジ色の石畳が伸びている。その遥か向こう側に雪を戴いた山脈が延々と連なっていた。
草原の中に、まるで積み木のように置かれた家々は、壮大な自然の風景に鮮やかな色合いを添えていて愛らしい。
「……とても綺麗なところですね」
のどかな場所であっても、“町“と呼ばれるだけあってそれなりに人通りがある。
道向かいから壮年の女性がやってきて、すれ違いながらにこやかに会釈した。
あとからやってくる人々は皆が笑顔で——わざわざ立ち止まって頭を下げる者もいる。
「——公爵様!いつもありがとうございます」
「公爵様、へーゲルリンデにようこそ」
「ありがとうございます、公爵様」
ん……?
よくわからないけれど、町の人たちは公爵に何かを感謝しているみたい。公爵もそんな町の人たちに会釈を送っている。
久しぶりに訪れたと言っていたのに、どういう事かしら。
「綺麗っっ!!」
それを仰ぎ見て、私は感嘆の声を上げる。
遠くにぼんやりと見えていたものが、今はとても近い。
「ヘーゲルリンデの水車だ、山脈からの渓流の水で稼働している。町の経済の原動力なんだ」
「水、車……」
十字の形をした白い羽交いがゆっくりと軌跡をえがく。
こんなに大きな羽を見たの、初めて!
興奮して公爵の腕をぎゅっ、と掻き抱いてしまった。
そんな私の様子を見て、シモンおじいさまと公爵が満足そうに目配せをしている。
「興味があるなら中に入って塔上に登ることもできる。他にも、君に見せたい場所が
水車に風車、壮麗な教会、町と町を繋ぐ大河の架け橋——。
シモンおじいさまの案内と説明を受けながら、私たちは時間が許す限り、この『ヘーゲルリンデ』と言う町の名所を訪ね歩いた。
どれもこれも初めて見るものばかりで……私ったら!必要以上にはしゃいでしまった。
子供みたいだと、思われたかしら。。。
「そろそろ昼食の支度が出来る頃合いです。我が家へ急ぎましょう」
「きれいなお姉さん、こんにちはぁ!」
通りすがりの子供たちが笑顔で手を振ってくる——こんなことって。
この町の人たち、皆さんっ。
私のこと、ちゃんと見えていますか。
赤錆色の髪色、子供たちにだって怖い、気味が悪いと罵られる瞳……私は『忌み子』ですよ……?
「 ぁ…… 」
道端に広げられた露店を目で追えば、公爵が立ち止まってくれる。
花や鳥の形をした髪飾りを売る店だ。
「何か欲しいものでも見つけたか?」
公爵は興味深げに露店の商品を眺めている。
可愛い髪飾りが、広げられた布の上に所狭しと並んでいて——。
装飾品に目が行くなんて。
こんな見た目ですが、私も女性の端くれなんですね。
でも……私のこの髪には、似合わないものばかりです。
髪を下ろした時だって、不恰好だったから……。
公爵に笑われてしまったのだもの。
「いいえ、売り子さんの犬が気になっただけです。可愛いなって」
露店の店主の隣には、体中にブチのある太っちょの白い犬が寝そべって、呑気に
*
*
*
——突然にそれは起きた。
この町も『例外』じゃなかった。
人々の笑顔と優しさに油断して……公爵の腕の温もりが嬉しくて……私が、“笑顔“なんて振りまいていたからかも知れない。
一人の男がすれ違いざまに呟いた——堂々と歩いてんじゃねぇよ、忌み子が。
ただそれだけの事だったのに。
「ディートフリート様、良いのです!私、慣れていますからっ」
男を
冷徹にも見えるその瞳の輝きを、出逢ってからまだ目にした事がない。
「リリアナ……。非難を受けることに慣れてはいけない。君はその強さを、俯いて耐える事じゃなく、顔を上げて歩く事に使うんだ」
——ふと、戦場で剣を振るう黒い狼が目に浮かんだ。
顔に飛び散る血飛沫をものともせず——伸びた髪を振り乱し、口元に無精髭を湛えたその獣の目には感情が無い。全てを諦めたみたいに——ただ人を斬るためだけに馬を駆る。
『多くの人をこの手で殺めた。そして私はその報いを受けた』
報い……。
いつか公爵が言っていた言葉が唐突に私の心を捕らえた。
公爵が受けた『報い』って、何だろう……?
「その者は私の妻になる
我に返れば公爵が男の胸ぐらを掴み上げ、護身用の短剣のきっ先を喉元に突き立てている!
そして“黒狼“には表情が無い。
ただ冷徹な目を向けるだけ——今にも本当に喉を掻き切ってしまいそうっ。
ツ——と、男の喉元が血の汗を流した。
「え……、ディートフリート様!?」
慌てて公爵の腕を揺さぶる……必死になって。
「やめてください、本当にもういいんです!!こんな事で人を傷つけるなんて。私のせいで、あなたの『報い』を増やしたくありません……っ」
見開かれていた黒狼の目が、一度だけゆっくりとまばたきをする。震え上がる男の喉元に剣を突き立てたまま、私を横目で見遣って——。
そのまま、スッ、と
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