第49話 そんなふうに見られたら…っ
ドサッ————。
地面に落とされた男が尻餅をついたまま、首筋に流れた生暖かなものを手の甲で拭う。自分の血液を目の当たりにして恐怖が増したのだろう、ワアア……ッ!と叫びながら後退りをし、そのまま振り返りもせずに走り去った。
周囲に居た人々、シモンおじいさまは絶句したままだ。
「良かった……っ」
相手の男が、軽症で済んで。
公爵が踏みとどまってくれて——ホッとして力が抜けた。
唇を覆う指先が震えている。
公爵はそんな私から視線を逸らし、もう一度ゆっくりと瞬きをしてから周囲を見遣った。
数歩歩けばスッとしゃがんで、
「……公然の場で少し度が過ぎた。君たちを怖がらせてしまって、すまなかったね」
すぐそばで怯える女の子の頭を撫でている。
「いやはや、公爵様。町長である私の不行き届きでございます。あの男は流れ者でしてな……ああいう輩は、長く俗世に塗れていた
——俗世にまみれて?誤った解釈?
何のことだかよくわからない。
首を傾げていると、
「リリアナ……」
いつもの穏やかな表情に戻った公爵が私に視線を戻して、
「私は君の事になると、どうやら我を忘れてしまうようだ」
お顔から前髪とお髭がなくなって、瞳も表情もよく見えるのです……そんなに艶っぽい目を向けないでください。
ただでさえ、私…——っ。
公爵が「素顔」に戻る前から少しずつ膨らんでいく、胸がぎゅっと苦しくなるような『感情』に戸惑って。
それをどうにか、抑えようとしているのに。
「……わ、私も時々自分を忘れてしまいます。美味しいものを夢中で食べている時、とか」
「え?」
公爵は目を丸くしたけれど、
「そうか、リリアナは美味しいもので我を忘れるか。愛らしいな……」
これでも口説いたつもりだったんだ。
そう呟いた公爵の手のひらで、頭をぽふっと撫でられた。
口説いた?
えっと——…ん?!
頭を撫でて、愛らしいと……なるほど……っ、私も周りの子どもたちと同じ取り扱いなんですね。
(幼顔ですが、ちなみに私……もうすぐ十九歳、来年は二十歳になるんです。もう子供じゃないのです。)
でも確かに、男をつかみ上げた公爵はいつもと様子が違っていた。
さすがにあのまま“人ごろし“とまではいかなかったでしょうけれど……思慮深くて冷静そうなあなたも、自分を忘れてしまうことがあるのですね。
「シモンの邸宅へ急ごう。ノアを待たせている」
公爵が、また私に腕を差し出してくる。
「——は、はいっ」
肩越しに私を見下ろす視線にまだ慣れない。
(公爵は男性ですもの——緊張してドキドキしてしまうのは、仕方ないですよね……?)
なんて自分の気持ちを納得させながら、公爵の腕をおもむろに抱え込んだ。
「……町を歩くの、もう怖くないです」
あなたと一緒だから。
「ン、何か言った?」
「なんでもありません」
公爵の横顔を見上げれば、長い睫毛が光をはらんで綺麗だった。
『非難を受けることに慣れてはいけない。君はその強さを、俯いて耐える事じゃなく、顔を上げて歩く事に使うんだ』
本気で怒ってくれたの——すごく嬉しかったです。
『いいから教えて??お願いっ。人を『好き』になると、どうなるの?その好きっていう気持ちは、お友達を好きな気持ちとどう違うの』
『そう、ですね……。恋をすると、胸が締め付けられるみたいに痛みます』
『痛いって、どんなふうに?』
『刺すような痛みではなくて、何ていうか……キュンって』
——ねぇ、ユリス。
これが、恋の痛みなの?
*
それを聞かされたのは、ノアおばあさまが腕によりをかけたという
「ええ。ここ数年、モリスの離宮で隠居なさっておられるのです」
シモンの言葉に、公爵の食事の手が止まる。
エメラルドの瞳が瞬時に色を変えたのを、私は何事かしらと思いながら見つめていた。
「それは……今現在も、なのか?」
「勿論でございます。湖畔の桟橋近くといえば、ランカスター公爵家の別荘のすぐそばですから。お二人のご事情は先代様から聞いておりましたので、公爵様のお耳には入れておいた方が良いかと」
離宮?隠居って?
「あのっ……どなた、が」
「リリアナ様もご存知かと思いますが——」
ノアおばあさまが気遣って公爵を見遣る。
その名前を、私に伝えるのを躊躇うように。
公爵はナフキンで口元を抑え、淡々と言葉を放った。
「国王陛下の第一王女、イレーヌ。私の——かつての婚約者だ」
「 ぇ …… 」
イレーヌ・マキシミリアーノ・レイゼルフォン・アルカディオ王女殿下。
ご聡明で気高く、女性の鏡のようなお方だと聞いたことがある。
『アルカディオの輝宝』とも呼ばれ、たぐい稀なる美貌でも名高いイレーヌ王女。
ユリスからは公爵の恋人だったと聞いていたけれど……婚約者だったなんて。
王女と公爵の間柄ならば、政略的な”契約”じゃないはずだ。
互いに求め合い、恋人同士になって、結婚の約束をして——。
私、どうしちゃったのかな……背中が冷たいや。
公爵との間に何があったかは知れない。そして——もう何年も前に、隣国の王室に嫁いだと聞いている。
「湖畔との間合いですから、モリスご滞在中に、お二人が王女にお目にかかることもあるかと」
『会いたくない』——…!
私の直感がそう訴えていた。
公爵が好きになった女性になんて、できればお会いしたくない。
それに何かすごく
身体の奥のほうからゾワゾワと、得体の知れないものが
「リリアナ様、平気ですか?」
ノアおばあさまの声で我に返る。
私ったら、ぼうっとして。
「平気ですっ、ごめんなさい!お料理が冷めちゃいますね……」
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