第84話 密約




鍵盤の上の指先が、ゆっくりと動きを止めたとき。

すぐそばに置かれたスツールに腰を掛け、私の演奏を聴きながら本を読んでいた公爵がふと顔を上げて切り出した。


「無理にとは言わぬが」


モリスの別荘から王都に戻り、三ヶ月が経とうとしていた。

ケグルルットの屋敷を出てから、この『白椿の城』に来るまでの道中を除いて、私は一度たりとも王都の町に出ていない。

公爵から幾度となく誘いがあったものの、これまでのトラウマが拭いきれず、理由をつけては断り続けていたのだ。


やっぱり今回も、断ってしまおうか。

一瞬の迷いが胸をよぎる。


だけど……。


「ご一緒、させてください」


いつまでも固い殻のなかに閉じこもっていても仕方がない。

こうして何かのきっかけでもなければ、自分から進んで王都の町に出向く事など無いだろう。


「その言葉を聞いて安堵したよ」

「ディートフリート様の、大切なご用事なのですよね?」


ひと月ほど前。

南側に大きな窓のあるこの部屋に、艶やかな木肌が美しいグランドピアノが運び込まれた。モリスに発つ前に、公爵が製作を依頼していたものが仕上がったのだ。

それからは、私の演奏のかたわらで本を読むのが、公爵の日課のようになっている。


王都に帰ってから、公爵は頻繁に外出していた。

疲れているのか、気づけば時々、船を漕いでいることもある。手に持った本を落っことしそうでひやりとするけれど、無防備にすよすよ眠る公爵を眺めるのは、私の幸せな時間の一つだ。


「明日の君の都合は? 子どもたちが来るなら、日を改めるが」

「いいえ、大丈夫です。子どもたちのお稽古なら……」


言いかけたそばから、ばたん! 

部屋の扉が開け放たれ、


「リリアナ先生———っっ」


三人の子どもたちが、大声をあげながら部屋の中になだれ込んできた。汗を拭きながら続くのは、白椿の城からほど近い場所にある孤児院のシスターだ。


「こら、あなたたち……走らずに歩きなさい! 公爵さまの御前ですよっ」


シスターの声に慌てて居住まいを正し、えへへ……と照れたように笑う幼子たちを見れば、公爵も私も自然と笑みがこぼれてしまう。


「ほら皆さん、まずはご挨拶をなさい」

「公爵さま! リリアナ先生っ、こんにちはっっ!」


こんにちは。

と、言いながら立ち上がった公爵が子どもたちのところへ行き、まだ小さな彼らを前に身を屈め、視線を合わせた。


「リリアナ先生の指導は、厳しいだろう? 先生が怖いか?」

「……ぇ……」


突然やってきた背高い公爵を、子どもたちは目をまるくしてきょとんと見上げている。


「ちょっと、ディートフリートさま? 子どもたちがお返事に困ってるじゃないですか……それに私、そんなに厳しくしてませんっ」


ふん、と嬉しそうに鼻を鳴らして、公爵は子どもたちの頭をぽふぽふする。


「先生は厳しいが、ピアノの腕は超一流だ、私が保証する」


では、みんな頑張って。

そんなことを言いながら肩越しに手を振り、扉に向かうのだった。


ふぅぅ……。

大きく息を吐く私に、シスターが深々と頭を下げる。


「先日、私どもの孤児院には勿体無いほどの……素晴らしいピアノが届きました。それも二台も……。他にも色々とご支援をいただいておりますのに。公爵様のおはからいを、子どもたちはもちろんのこと、私共も心から感謝しております」


公爵が部屋を出たのを合図に、子どもたちが我先われさきにとピアノの椅子に腰をかけた。シスターとの会話の最中も、嬉しそうにはしゃぎながらそれぞれが自由に鍵盤を鳴らしている。


「せっかく習うのだから、帰ってからも練習をした方がいいと言ってくださったのはディートフリート様なんですよっ。みんなは届いたピアノ、弾いていますか?」

「もちろんです。放っておくと取り合いになるので、喧嘩をしたら公爵様にお返ししますよと言ってあるのです。子どもたちが自ら練習表を作って。それはもう、皆が目をきらきらさせています」


穏やかに微笑むシスターとともに、子どもたちに目をやれば。


「先生っ、早く次の曲を教えて?」

「シスターとのお話は、もうおしまいっ」

「リリアナ先生、早く、早く……」


私は今———この三人の子たちの他に、下は四歳から上は十歳を超える六人の孤児たちにピアノを教えている。


週に三度、三日に分けて男女九人の子どもたちの相手をする。

初めてここに来た日はどこか目もうつろで、音の出る、見たこともない大きな得体の知れないもの……グランドピアノを前に立ちすくんでいたこの子たちも、練習の回を重ねるごとに表情が明るくなり、今ではすっかり鍵盤に馴染んでいた。


「シスター、どうぞ椅子にかけてください。それじゃあ皆んな、このあいだのリズムと音符の復習から始めましょう」


先ずは手拍子から。

二分音符や四分音符のリズムに合わせて、部屋の中に笑い声と明るい手拍子が響いた。


(……これも、私がディートフリート様にいただいた幸せの一つですね……)







子どもたちの指導に夢中の私は、開け放った扉の外に腕を組んで寄りかかる公爵には気付かない。


「公爵、そろそろ時間です」


明るい日の光が差す扉の向こう側からは、相変わらず子どもたちの小さな手拍子と笑い声が聴こえている。

長い睫毛を伏せて聞き入っていた公爵に、廊下を渡ってやって来たリュシアンが声をかけた。


「ああ……。の進捗はどうだ? ロズウェルの地元当局から、そろそろ認可が降りる頃合いだろう」

「はい、いずれも滞りなく進んでおります。この三ヶ月、公爵が王都内外を走り回った甲斐がありましたね。ハインツ子爵との密約の締結、それに伴う契約解除は十四時……間もなくです」


「そうか。いよいよだな」


扉に背中を預けたまま、小声でつぶやく。

伏せた睫毛の下に碧色の深い影を落とし、公爵はニヤリと冷徹な笑みを浮かべた。



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