——エピローグ(最終話)
ディートフリートは卓上に置かれた書類の一部を指先でつまみあげ、もてあそびながら嘲笑する。
「牢獄上がりの罪人となった貴様の娘の行く末、強いて言えばその生死にも関わると思うが? 本当に破り捨てても構わぬのだな」
「まっ、待て! 待って、くれ……」
ディートフリートの手から紙の束をぐしゃりと乱暴に奪い取る。
伯爵は卓上のペンを取り上げて白髪を振り乱し、狂ったように名を綴るのだった。
『——その
ディートフリートは想いを巡らせる。
愛する
爵位を剥奪されたアルバロス・ケグルルットが、王宮警吏によって身柄の拘束を受けたのは、この数日後のことだ。私利私欲のため、現国王の密使として数々の暗殺や陰謀に加担した罪の深さに情状酌量の余地はない。
最愛の娘エレノアの帰りを待たずして、アルバロスは王宮の地下牢で数年を過ごし、その後誰の目にも触れることなく、執行人の手によって密やかにその命を絶たれた。
*
「リリアナ先生、さよ〜なら〜っ!」
元気な子供たちの声が部屋の出入り口に響く。
シスターアンヌの他に、今日はもう一人のシスターが稽古を終えた子供たちを迎えに来ていた。
「はぁい、さようなら〜っ。みんな〜っ宿題を忘れないようにね!」
リリアナ先生——つまりは私も、ピアノの椅子から立ち上がって子供たちに負けじと力いっぱい手を振って見せる。
「さて……と。私の大切な『お客様』が、そろそろやって来る頃かしら?」
お稽古の前に、シスターアンヌに例の少年の事を尋ねてみた。クリス、という名のその少年が抱えた事情にすっかり同調してしまった私は……彼に会うのが楽しみで仕方がない。
『クリスは、ふた月ほど前に孤児院にやって来たばかりの子です。
幼い頃から両親の虐待に遭い、心を閉ざした彼は他の子供たちと馴染めず、いつも一人きりで、空を見上げていることが多くて……。
それが、子供たちがリリアナ先生に習ったピアノを弾き始めてから、こっそり隠れて練習を眺めているので、クリスにもピアノを習ってみないかと尋ねたのですが。
他の子たちが……ちょっとした意地悪というか、悪意はないのでしょうけれど、クリスは『心が空っぽ』だから弾けない、リリアナ先生もそう言っていた……ピアノは心で弾くものだからと。
リリアナ先生に何度も会いに行こうとしたのは、みんなに言われたことが信じられず、心が空っぽだと本当にピアノが弾けないのか、先生に直接聞こうとしたと言うのです』
悶絶してしまった——なんて可愛い『事情』なのっっ。
いえいえ、可愛いだなんて言ったら失礼よね? クリス本人にとってみればとても深刻なはず。深刻だからこそ何度も訪ねて来たのだろうし、彼の疑問の『真相』を知りたいと思う気持ちもよく理解ができる。
そしてクリスが、その悩みの先に抱えた想いはきっと……
『ピアノを弾いてみたい』。
「クリスっ……あなたの、その気持ちだけでじゅうぶんよ?」
シスターアンヌの背中に隠れるようにして立っていたのは、まだ十歳そこそこの、少し伸びた白金の前髪で顔を半分隠した少年。翳りのある表情をしているけれど、女児と見まごうほど綺麗な顔立ちをしている。
他の子たちとの折り合いが悪いというので、シスターアンヌにはみんなと鉢合わせにならぬようにと頼んだ。
「……あなたが、クリス?」
私は少し左に寄り、腰かけたピアノの長椅子を半分空ける。
「私はリリアナ。遠慮をせずに、ここにいらっしゃい?」
シスターに背中を押され、まだ遠慮の残る足取りでクリスがこちらに近づいて来る……私の脳裏に、今も色鮮やかに蘇る、あの懐かしい日の記憶が重なる。
———あなたが、リリアナ?
在りし日の、陽だまりのような、あたたかな声。
『私はエヴリーヌ。遠慮をせずに、ここにいらっしゃい』
私の隣にお行儀よく座ったクリスが、澄んだ青い瞳で私を見上げ、ふっと頬を紅く染めた。
「ねぇクリス。みんなが言った事はあながち間違いじゃないの。ピアノは手で弾くものだけれど、心で弾くものでもあるのよ? さあ、鍵盤の上に指先を乗せてみて……卵を手のひらで包むように、ふわっと、優しく……そうよ、とても上手だわ」
鍵盤の上に差し出された白い手の甲に赤紫色の痣が見えた時、胸の奥がざわりと
クリスは、他の誰よりも美しい音を紡ぐことが出来る、と。
「あなたの心が、鍵盤の音を奏でるの。だからね、クリスが嬉しい時は明るい音が、悲しい時は沈んだ音が出るのよ……不思議でしょう?」
「でも……。みんなが、僕には心が無いって。空っぽだって。だから僕にはピアノなんて弾けないって……」
「じゃあクリス。どの指でもいいから、鍵盤を押さえて音を出してみて?」
遠慮がちに押された鍵盤からは、ポーン——と、心許ない音が響く。
「ほらね? 今、クリスの心はちょっと悲しいの。みんなに心が空っぽだって、だからピアノが弾けないって言われて、悲しんでいるの。だからほら……悲しい音が出た」
大きな瞳を見開いて、クリスがハッと私を見上げる。
「あなたの心は空っぽなんかじゃない。ちゃぁんと、悲しんでる。悲しむことが出来る心は、喜びを感じることだって出来るのよ?」
私は、クリスの華奢な肩を抱くようにして、その両腕を鍵盤の上に乗せた。彼のまだ小さな手のひらを自分の手のひらで包み、指を重ねるようにして音を出す。
「ちゃんと弾けるようになるのは、もう少し先だけれど——…」
一緒に弾いてみましょう。
「辛い事に耐えて、心を空っぽにして、ずっと頑張ってきたクリスに。先生が《秘密の曲》を教えてあげる。あなたに幸せを運んでくれる、魔法の曲なの。だから誰かに教えたり、人前で弾いてはだめ……先生との、大切な約束よ——…」
それはとても懐かしく、美しい思い出。そして今、目の前に開かれた、これから紡がれていく新たな記憶でもある。
——エヴリーヌ先生。
リリアナは、何があっても自ら死を選んだりはしません。
先生に教わった《秘密の曲》のお陰で、今、こんなに幸せなんです。
やっと手に入れることができた自分の人生ですもの。
辛いことがあっても、この曲を弾きながら耐えてみせます。
だから先生……どうか雲の上から、私を見ていてください。
初夏のそよ風が窓際の木々を揺らす。
まだ拙いその旋律は開け放たれた大きな窓から流れ出て、青々と茂る白椿の木々を通り抜け、車寄せで馬車を降りた旦那様の耳にまで届いた。
「……?」
音に気付いた旦那様が、ふと顔を上げる。
続いて馬車を降りたリュシアンがその頬を緩め、少し呆れたようにつぶやいた。
「リリアナ様もあなたと同様、婚礼の前日にまで稽古を付けているようですね」
リュシアンの言葉には応えず、旦那様は……何かを察したように、その『拙い音』にじっと聴き入っている。
旦那様は静かにまばたきを繰り返しながら、傾きかけた夕陽を眩しそうに仰いだ——穏やかな微笑みを、茜色に染めながら。
旦那様の耳に届くのは、兄妹が大好きだった、懐かしいあの旋律。
遠い目をしたその眼裏に映るのは、ピアノを弾く在りし日のお母様と、それを傍らで聴く幼い兄妹の幸せな笑顔-------
「やっと会えましたね……母上、アリエル」
「公爵、何か?」
心地よい夕風が、首を傾げるリュシアンの肩をかすめ、空を見上げる旦那様の宵闇色の髪をさらう。
旋律は風に乗り、空高く昇っていく。
天上にいる大切な人たちにも、その想いが届くように。
長いあいだ追い求め、探し続けた。
そして出逢うべくして二人は出逢った。
幸せを運ぶ、『
《本編・完》
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*作者の力量足らずの拙作を、本編のラストまで読み進めてくださり有難うございました*
《もしよろしければ作品に対しての★評価、コメント、フォローなど頂けますと今後の大きな励みになります。どうぞよろしくお願いいたします》
*このあと、6話完結の番外編あり。番外編の方も楽しんでいただけますように……*(現在非公開)
《次話予告・番外編 / ディートフリート視点で綴る婚礼の日》
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