第75話 ディートフリートの帰還




「そうねぇ———」


子供のように無邪気にほほ笑む面差しの上の、美しい飴色あめいろの瞳がいびつに歪む。


「あなたが代わりに消えてくれる?」


王女のは爛々とかがやき、


「——わたくしがそう言えば。あなた、従うの?」


恐怖心と驚きのために動けずにいる私を、王女は射抜くように見つめ続ける。


「あなたはここで、その命を失うことになるのよ? 何でもするって言うのはそういうことなのよ? 戦地行きを免れても、あなたがここで果ててしまったら、ディートフリートはあなたともう二度と会えないのよ? 彼にとって、それは戦地で死ぬのと同じことなのよ? それは彼を苦しめることになるのよ、あなたのせいなのよ? あなたの、浅はかな発言のせいでっ、あなた自身が、ディートフリートを苦しめることになるのよ?!」


「…………っ」


たたみかけるように流れていく王女の言葉に、とにかく私は—— その意味を知ろうと、理解をしようと——頼りない想像力を必死で働かせていた。


「彼のためなら何でもするとか! 深く考えもせずに無責任な事を言わないで。ああ……もう、本当っに……イライラさせる子ね……」


私から視線を逸らせて、王女は扇子を握る拳を震わせている。


「……イレーヌ様……。私は、どうすれば……っ」



ざっ、ざっ。

雪を踏み締める音が聞こえ、白い息を弾ませながら足速に近付く一人の男がいた。

王女の騎士たちに似た黒っぽい隊服を見れば、離宮の者だということがわかる。


「イレーヌ様!」

「まぁオースティン、どうしたの」


口髭を湛えた精悍な雰囲気を醸し出すその男は、一礼をしてからイレーヌ王女に歩み寄り、ヒソヒソと耳打ちをし始めた。


「………そう」


聴き終えると、王女はひとこと男に返す。

男は一歩下がり、また一礼をして王女のそばに立った。


「ちょうど良かったわ、そろそろ戻ろうと思っていたの。八十三個はさすがに無理だと思っていたけれど。どうやらわたくしの、外れたみたいで残念ね」


両手を胸の上に組んで肩をすくめている私を見遣り、


「そこの世間知らずのあなた——もう行っていいわよ? 安心なさい、ディートフリートを戦場へやる話……それはあくまでも彼が真珠を集めきれなかった時のこと。わたくしは、ディートフリートから『想い』をきちんと返してもらえればそれで良いのです」


それ、って……。


ディートフリート様が、イレーヌ様の『想い』——を、全て集め終えたということですよね?

そしてもう、戦場に行かされることは、ないのですよね……?



———良かった。



心底ほっとすれば、力を失った膝が崩れた。

私は両手を胸に当てたまま、へなへなと雪の上に両膝をついてしまう。


「………ありがとう、ございます……イレーヌ様っ」

「あなたはやっぱり浅はかね。わたくしに礼を言ったこと、あとで後悔するかも知れなくてよ?」


王女は扇子で隠した口元から「ふふっ」と意味ありげな笑みを漏らし、目を細めて私を見た。


「じゃあね、世間知らずのお嬢さん。モリスの雪はよ。まぁせいぜい……気をつけて帰るのね」



頬を、耳を凍らせる風が——時々ビュンと強く吹く。


桟橋からほど近い離宮に向かい、黒い騎士らとともに遠くなっていくイレーヌ王女の背中が見えなくなるまで、私は頭を下げ続けていた。


髪がさらわれるのを気にしている場合ではない。

雪まじりの風に、茜色の髪が飄々となびく。


イレーヌ王女を見送ると言う『大役(私にとっては!)』は、どうにか果たした。

ほんとうなら今すぐにでも、ランカスター家の別荘に戻った方がいい。


だけど……戻れない。

まだここで、やることが残っている。


「ディートフリート様にいただいた、大切な髪飾り……」


イレーヌ王女が放り投げたのは、辺り。

転がって行ったのがはっきりと見えたのだから、探せばすぐに見つかるはず……。


地面に膝を突き、斜めになったその向こう側をそうっと覗き込む。

少しばかり雪を被った花型の飾りが、坂の下にかろうじて見えた。


「——あった」


甘い微笑ほほえみを浮かべながら、公爵はあの髪飾りを付けてくれた。

その笑顔と雪の上の煌めきが重なって見える。


吹雪になれば、雪に埋まってもう探せなくなってしまう。

このまま置いて帰るわけにはいかない……!


胸元が、服が濡れたってかまわない。

伸ばした指先の先端に、飾りが少し触れた。


「あと、ちょっと……っ」


ディートフリート様は真珠集めをやり遂げた。

私も、イレーヌ様のになんか、負けたくないです……!


私は坂に向かって身体を横たえ、めいっぱい、その煌めきに向かって手を伸ばした——。







勢いを増す風と雪を同時に取り込んで、戸外の警備に当たっていた家令が転がり込んできた。

大階段室前の玄関ホール、腕を組んで行ったり来たりするリュシアンを、ユリスを筆頭に数名のメイドと家令が囲んでいたところだ。


「リュシアン様……!公爵様が……ッ、お戻りにッッ!」

「何!?」


開け放たれた扉の向こうに飛び出せば、吹きすさぶ雪の中に馬を引いた人影がこちらに向かって歩くのが見える。

別の家令が走り寄り、ディートフリートの腕から手綱を受け取るのがわかった。


「こ、公爵——!? 何故、馬を降りて……」


言いかけたリュシアンが目を見張る。

だらりと垂がったディートフリートの両手から滴り落ちる、赤いもの……。


「公爵!!その手は?!」


白い雪の上に点々と紅い跡を残しながら歩くディートフリートに近寄るが、そのあまりの痛々しさに眉根を寄せ、目を細めた。


「一体、何があったのです」

「心配するな、身体は何ともない」

「ですが……ッ」


ホールまでたどり着いたディートフリートの真っ赤に染まった両手は、ところどころ爪が剥がれ落ち、そこから生々しい雫が落ちる。赤紫色に変色した擦り傷だらけの指先は、滲んだ血液が既に固まりはじめていた。


「医者を……連れてこさせましょう」

「大した怪我ではない。それにこの吹雪だ、医者を呼ぶなど余計なことはしなくて良い」


ディートフリートはホールの脇に置かれたスツールに腰掛ける。

リュシアンの目配せで、二人のメイドが慌てて処置具を取りに走った。


「私が戻った事を他の者にはまだ知らせるな。もちろんリリアナにもだ。とにかく応急処置を頼む……こんな血塗れの手など、リリアナに見せたくはない」


ディートフリートの言葉に、皆がしんと口を塞いでしまう。


「リリアナは……? 部屋に戻っているのだろう?」

「公爵、それが」


リュシアンが事情を説明するあいだ、ディートフリートはホールに佇むユリスをはじめ、メイド達の消沈する様子を順に見た。


「……では私を解放する前に、イレーヌはリリアナと別れ、離宮に戻ったという事か」


ディートフリートは想いを巡らせる、イレーヌはリリアナのことを何も伝えて来なかった。

あれほどに人を挑発するのが好きな女だ。リリアナに何かしらの危害を与えていたとすれば、それを話さぬわけがない。


「リュシアン、リリアナがイレーヌを桟橋に送ったのはいつ頃だ! どのくらい経つ?」

「陽が落ちる前です……もう二時間以上は……」

「何、だと」


ディートフリートは顔をあげ、リュシアンに食らいつく。立ち上がった勢いでスツールがガタンと大きな音を立てた。


「お前達は……! 雪がこんなになるまで、何故リリアナを探しに出なかった!? 桟橋までなど馬車を出せば済むものを……!」


眉を顰めてうつむくリュシアンをはじめ、ユリスや他のメイド達もがみな言葉を失ってしまう。


「公爵……私が……不甲斐なかったのです。イレーヌ様から守れなかった……私がいけないのです……私は守れなかった、娘も、リリアナ様も……ッ」

「ジャクリーヌの事はお前の所為せいではない。リュシアン、自分を責めるな」


モリスの吹雪は、雪が降り始めてから数時間で大粒のひょうに変わる。そうなれば厄介だ。


「これ以上雪が酷くならぬうちに。早く傷の処置をしろ! 桟橋付近を探しに行く」


開け放たれた扉の向こう側は黒々とし、斜めに降る雪が外灯の明るい光さえも妨げる。

薬や包帯を持って駆け寄るメイドたちを横目に、ディートフリートは心の中で呟いた。


リリアナ、私が行くまで無事でいてくれ———。



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