第76話 雪の華にくちづけを



馬車を降りれば、唐突にビュンと吹く獰猛な風に身体を持っていかれそうになる。

ディートフリートは包帯が巻かれた指先で外套のフードを抑え、狭い視野の中で周囲の状況を捉えようとを凝らした。


——リリアナ、一体どこにいるんだ。


桟橋に向かう道中、並木道にリリアナの姿はなかった。

城までの帰路はわずかな距離でしかない。故意に城から遠ざかろうとでもしなければ、並木道から外れることはない。

ならばやはり、桟橋付近に留まっているとしか考えられない。


だが、桟橋の鉄橋脇に立てられた街灯がぼんやりと薄暗く辺りを照らすなか、人影などはどこにも見当たらないのだった。


「公爵!」


続いて馬車を降りたリュシアンが声を張り上げる。

だがその声も、ひゅうひゅうと吹く風にすぐさまかき消されてしまう。


「公爵……ッ! 橋桁に近づくのは危険です、すぐ下は崖になっているのです……!」


リュシアンの声が聞こえているのかいないのか、ディートフリートは迷いなく桟橋の橋脚に向かって歩いてゆく。


「そこに何か?!」

「リュシアン———」


振り返ったディートフリートが目配せをする。

近く寄れば、崖の手前の雪が丘陵側に向かってはがれ落ち、何かを引きずったような痕跡を残す土のうえに再び雪が積もり始めているのが見えた。


「どう思う?」


剥き出しになった土の部分は人ひとりの幅にほぼ等しい。

ディートフリートに並び、リュシアンが崖の下を覗き込んだ。


ふたりの脳裏に、恐ろしい想像がよぎる。


「……まさか、この下に」


イレーヌがここから突き落としたか。

いや……唐突に身体を押したのなら、地表の雪がこんなふうに大きくえぐれるはずはない。


「イレーヌはリリアナのことを私に何も話さなかった。もしもこの場所で何らかの危害を与えたとすれば、あの女に限って自分のを口にせぬような事は有り得ん」


ならば、地表についたこの妙な痕跡は———。


腹這はらばいに、なったのでは」


リュシアンの言葉にを見張る。


「何……?」


崖に向かって腹這いになった。そう考えれば、確かに土にこのような痕跡が残ってもおかしくはない。


「だが何故だ……何故、こんな場所で腹這いになど……!」

「崖に向かって腹這いになり、崖の下を覗こうとしたのかも知れません。無理をしたために身体が重力の重みに耐えきれなくなり、リリアナ様は……ここから……」


——崖の下を、覗こうとしただと?!

転げ落ちるかも知れぬ危険を冒してまで、いったい何のために。


「リュシアン! 城に戻ってロープを持て。崖と言えども丘陵に近い、転落するほどの高さでも無い。丘陵の下は川が流れるが今は凍っているはずだ。私はここから下に降りる、捜索にあたっている他の人員を呼び集めて、リリアナと私を引き上げてくれ」

「ここを降りるなど、一体どうやって!? リリアナ様がこの下にいるかどうかも定かではないのですぞ! それに公爵、では危険です、私が下に——ッ」


リュシアンの言葉が終わらぬうち、ディートフリートの身体がリュシアンの視界から消える。あっと叫んで崖を覗けば、黒々とした崖の下に向かって、丘陵の雪に身体を滑らせる灰色の外套がかろうじて見えた。


だがそれも、すぐに雪降る闇の中に溶けてしまう。


「公爵ッ、なんと無茶な事を……!」


手負いの無謀な君主に後ろ髪を引かれている場合ではない。

今すぐ救出のための装備を立て直し、家令と共に一刻も早くこの場所に戻らねば。


大粒の雪を孕んだ強風に目を細める。

この雪が、いつあのひょうに変わるやも知れぬのだ。


リュシアンは宙を睨み、踵を返して馬車に向かった。







それは身体の半分上を積雪の中に隠し、凍った川のたもとに横たわっていた。

雪灯ゆきあかりというものは不思議で、月の光が届かないというのに視界を白く浮き立たせる。


茜色の長い髪がべっとりと雪床に張り付いているのを見たとき、ディートフリートは胃液が迫り上がるのを覚えた。

包帯に巻かれた五本の指先を口元にあてがい、冷静になれ……! とおのれに言い聞かせる。


呼吸を整え、雪を被った人型に走り寄る——「リリアナ!」

つぶやいた名は風の轟音ごうおんに溶けた。


リリアナ、リリアナ————!


心の中で何度もその名を叫びながら雪を掻き分ける。

濡れた白い包帯に血が滲み、感覚を取り戻した指先が悲鳴をあげるが構うものか。


悲劇を生んだあの日、腕の中で冷たくなっていった母と妹エリアルの悪夢が甦り、重い鉄の鎖となってディートフリートを締め付ける。



頼む、やめてくれ、

連れて行かないでくれ!


ランカスター家からもうこれ以上、光を奪わないでくれ———



うつ伏せの身体を雪の上からかかえ起こせば、愛らしく薔薇色にかがやいていた頬が、唇が……蒼白となってろう人形のように見え、ディートフリートは息を呑んだ……まさか、そんな、事……あるはずが、無い。



この愛おしいリリアナを、失うことなんて。



氷のように冷えた身体、雪にまみれた茜色の髪、動かぬ手足。


「……?」


リリアナの閉じられた拳が何かを握りしめている。

そっと開けば、見覚えのある花の形を模したものが落ち、雪に沈んだ。



これを、拾おうとしたのか—————?



崖の上で腹這いになるリリアナの姿がの奥に浮かんでくる。イレーヌの手によって無碍むげに奪われ、崖に向かって投じられた。

リリアナは拾おうとしたのだ、私が贈ったものを見捨てるわけにはいかぬと気遣って、この細い腕を限界にまで伸ばして。



「こんな……ものの、ために……ッ!」



闇の中にいた私の手を引き、光の中に導いてくれた。


両親を、妹を死に追いやったこの私でも、世を捨てたけものではなく人として生きて良いのだと、笑って良いのだと……微笑ほほえみかけてくれた。



——リリアナ。君は私の陽光……私の、希望なのだ。



桜色の外套に包まれた身体を、力の限りに抱きしめた。華奢な腕がだらりと膝の上に垂れる。

ディートフリートは恥じることなく、だた静かに涙をこぼした。


眼を閉じて、自分の頬に、雪華のようなリリアナの白い頬を重ねる。

吹雪は勢いを増している——なのにここだけが取り残されたように何も聞こえやしない、とても静かだ。


全ての感覚が研ぎ澄まされたとき、耳元に微かな息遣いを感じた。


「……!?」


そのかすかな感覚を信じ、リリアナを横抱きにして頬を叩く。リリアナ、リリアナ!

お願いだ……戻ってきてくれ……頼む………。


「ん…ぅ」


白椿の花弁のような唇が微動うごいた。


ディートフリートは大きく息を吸い込んだまま、呼吸をすることさえも忘れてしまう。


生きている……!


面輪を寄せ、わずかに開いた唇に、自分のそれを重ね合わせた。

欲望というものからは程遠く、これまで感じたことのない、安堵と愛おしさとから湧き立つ不思議な感情に身体が動いていた。


リリアナ……私の熱が伝わるか?

冷たい唇が、ディートフリートのくちづけに微やかに応える。


腕の中の身体をもう一度、力一杯に抱きしめた。


生きていてくれた……。


だからと言って油断の許されない状況に変わりはない。それでも喜びが衝動となり、おのずと安堵の笑みがこぼれた。


外套の胸元を広げ、リリアナの身体を胸の温もりの内に包み込む。そしてを閉じて、白い額に自分の額をぐ、と寄せた。


「リリアナ、待っていろ……もうすぐだ。リュシアンが、皆が引き上げてくれる」


先ほど滑り降りてきた丘陵を見上げるが、だた雪がとめどなく落ちるばかりで、暗がりに一つの明かりさえも見当たらない。

救出のための装備を整えたリュシアンが頭上に戻っていてもおかしくない頃合いだ。


「リュシアン、ここだ——私たちはここにいる……!」


見上げる頬に何かが刺さるような感覚を覚え、反射的にうつむいた。

固く鋭利なそれは次々と落ちてきて、剥き出しの皮膚にかすり傷を残してゆく。


雪が、ひょうに変わった———。


モリス特有の尖った雹の下では馬も痛がって走らない。

たとえリュシアンが家令達とともに丘陵の上にたどり着いたとしても、この雹の嵐の中で大人ふたりを引き上げるのは不可能だろう。


暴君となった風が外套のフードを強引に払いのけ、宵闇色の髪をさらう。

今はまだ小さなこのひょうの粒も、闇夜の冷気を餌にして成長をすれば、人の身体にとって凶器ともなる。


「せめてこの雹をしのげる場所があれば」


外套を脱いでリリアナの身体をすっぽり包むと、横抱きにして立ち上がり、辺りを見回す。

顔を上げた拍子にシュッ、防ぎようのない凶器が頬に線状の傷を付けた。



———リリアナを、モリスの雪の悪魔から守らねば。



それだけではない。

雪に埋もれていたせいで濡れそぼり、冷え切ったリリアナの身体はもはや一刻の猶予も持たない。



どうにかして早く、この身体をあたためてやらねば———。





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