第77話 肌と肌を合わせて〜リリアナの『勲章』




雑然とした狭い猟師小屋を、ただ一つ灯されたランプの炎の明かりが照らし出す。心もとない小さな光であっても、そのオレンジ色のかがやきは暗闇にあたたかな色を添えた。


両手が不自由でも、ディートフリートにはまだ他に使えるものがあった。


リリアナの身体を縦抱きにして支え、首の後ろに結ばれた細いリボンを口に喰んで強く引く。光沢を持つ絹のそれはシュル、と小さな衣擦れの音を立ててほどけた。

続けざまに、不本意な乱暴さを伴いながら背中のホックを外してゆく。


四方を丸太で囲まれた、建て付けの悪い四角い空間には雑然と物が置かれているが、机や椅子などはなく、ただの物置小屋に等しい。

夏場に使われるのが主なこの猟師小屋に冬の時期は人もいなければ、暖を取るための薪の一本さえも無い。

たとえ燃やせるものがあったとしても、木造の小さな小屋の、暖炉でもない場所で火を起こせば火事の危険性を伴うだろう。


「リリアナ……冷えるだろうが、少しだけ耐えてくれ」


華美なものを好まないリリアナの着衣は、肌着の上に清楚な冬着のワンピースを重ねただけだった。

ワンピースを脱がせたあと、薄い肌着の胸元に手をかけた時は一瞬の躊躇いを感じたが、氷のように冷たい身体から、濡れそぼる肌に張り付いた肌着を強引にひき剥がした。


幾ら婚約者だとは言え、これではまるで意識のないリリアナを犯すようだとも思う。

だが時間との戦いでもある——冷え切った身体を温めるすべはもう、以外には考えられない。


薄明かりの下に華奢な腕と背中が露わになったとき、

「……ッ」

ディートフリートは息を呑んだ。


白い肌に浮き上がる、大人の拳ほどの赤黒い痣が……それも背中から腰下にかけて、幾重にも重なるように広がっている。

父親から虐待を受けていたらしいとはリュシアンから聞いていたものの、これほどまでに酷いとは思っていなかった。


———このか細い身体で、どれだけ痛みに耐えて来たのだ……!


父親に足蹴にされるのを、リリアナが背を丸めてこらえる姿を想像すれば胸が軋むように痛んだ。

包帯越しにその痕跡に触れる。そのまま肩のすぐ下にある痣に、労りを込めて唇を寄せた。


これはリリアナが逆境に耐えたあかし——リリアナの『勲章』だ。


痛々しくも、雪のような白い肌に映えるその痕跡はどこか愛おしく、唇で触れずにはいられなかった。

その青紫色の痣でさえも、今は体温の赤みを失っている。


リリアナを外套でくるむと、ディートフリートは礼服の上着を脱ぎ捨て、首筋に両手を添えると、自身の前あきのシャツの胸元を勢いづけて引き裂いた。

乱暴な所作だが、包帯が巻かれた指先にシャツの小さなボタンを外すほどの器用さはない。

露わになった胸板に差す炎の灯りが、彼の鍛えられた筋肉に影を落とす。千切れた糸を引いた絹のボタンが板張りの床に転がった。


そうする間も、リリアナが息をしているかと不安になり、リリアナの口元に何度も耳を寄せてしまう。

ディートフリートの恐怖と安堵は今、表裏一体だ。

「ふ…」と唇から漏れる小さな吐息を確認すれば心から安堵して、自分はどれほど彼女が大事なのだと思い返し、呆れたように苦笑する。


外套をめくって滑り込み、リリアナの小さな背中を後ろから覆うようにして抱いた。

固い板張りの床に触れぬよう、リリアナの頭部を二の腕の上に置く。

そして包帯に巻かれた両手をリリアナの両手に重ね合わせた……手を握ってやることは出来ないが、真綿のように包むことならばできる。


密着する胸板と華奢な背中。

ディートフリートの熱が、リリアナの冷えた肌に奪われてゆく——


(私の熱がどこまで持つか、持久戦だ……)


この小屋に窓は無いが、建て付けの悪い扉は強風にガタガタと揺れ、細い隙間から時折り風が舞い込んでくる。

バランバランと鳴っていた天井が、そのうちに飴玉を薄い屋根に撒くような物凄い音を立て始めた。

雹が徐々に肥大化している。

固い屋根には刺さらぬが、生き物の皮膚には容赦無い、自分たちはこの猟師小屋に命を拾われたと言ってもいい。



幼い頃から何度も訪れていたモリスの、この辺りの地形は熟知していた。

居城から遠ざかることにはなるが、渓流を少し北に遡った辺りに鴨を獲る猟師たちの猟師小屋がある事も知っていた。

川が凍る冬場は使われておらず、人の助けを借りられる希望は薄いが、少なくともひょうと風を凌ぐことはできる。


横抱きにしたリリアナを気遣いながら、足取りに迷いのないディートフリートがその場所に辿り着くのにそう時間は掛からなかった。


寒さで朦朧となるなか、ディートフリートのにはかつて家族とともにモリスを訪れた思い出が走馬灯のようによぎる。


幼い頃、丘陵の緩やかなところから川縁かわべりに滑り降り、川遊びをして度々両親に叱られた。

鍵のかからないこの猟師小屋に忍び込んで猟師たちを驚かせ、家令らに発見されるまで小屋の中で半日吊るされていたこともある。


(……無茶をするのは、子供の頃からだったな)


自国の第一王女との婚姻を強引に放棄したこと自体、王家の血縁とはいえ公爵家嫡男の立場からすれば無謀だった。家族のみならずリリアナまでも、無茶な自分の所為せいで巻き添えを食らったとも言えるのだ。


湿り気を帯びた茜色の髪の後頭部に鼻先をうずめる。


「こんな事になって……すまない」


身体をあたため始めてからしばらく経った今でも、リリアナの身体は冷えたままだ。

だがあれほどに小さかった呼吸が、今はわずかながらも肩を上下させるまでになった。

リリアナを救えるならば、身体中の全ての熱を与えたって構わない。


屋根を叩く轟音のさなか、ディートフリートは茜色の髪に鼻を埋めたまま目を閉じて、リリアナの背中を抱く腕に力を込めた。







バラバラと鳴る大きな音に、醒めかけた意識と聴覚を奪われ、重く開かない目蓋を何とか持ち上げようとする。


———なに…………?

凄い、音………。


ぼうっとかすんだ目の前に見える、白いものは……何だろう?

目を覚ましたリリアナが弱々しくまばたきを繰り返すうちに、周囲の暗がりに白く浮き上がって見えていたものが、包帯を巻かれた人の手だということがわかる。


それはどうやら自分の両手を包んでいるのだが……包帯は薄黒く汚れ、ところどころ赤いものが滲んでいた。


———ぇ…………な、に……………っ……?


ぞわりと背中がすくむと同時に、その背中に熱いほどの熱を感じる。

ぼんやりとしていた身体の感覚が少しずつ実味を帯びて行くのと、自分が置かれた状況を肌の感覚で感じ始めるのとがほぼ同時だった。


包帯の手の持ち主に、背中から抱かれている———。


驚いて息を吸い込み声を上げようとするが、酸欠の魚が水面みおもであがくように、どうにも声にならない。自分の知らないところで、いつの間にか力と声を奪われてしまったみたいに。


頭と身体を動かそうとするけれど、力強い腕にがっしりと包囲されている……自由なのは、まだ開き切らない茜色の瞳だけ。

薄い視界の中でを細めて見れば、自分を包むがっしりとした腕のあちこちに、幾筋もの切創せっそう痕が見受けられた。


皮膚が裂けたあとのような、筋状の白っぽい傷痕きずあと


「………ディートフリート、さま………?」


直感でわかった。

でも、待って———ちょっと待って。


動悸が早まり、頭の中のモヤモヤが急激に晴れて行く。

頭の下に敷かれたディートフリートのたくましい腕も、目の前に伸びる剥き出しの自分の腕も。

熱の伝わる背中も、目線の下にある、この胸の谷間も。



———、は、は……はだか……………っっっ?



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