第78話 肌と肌を合わせて〜ディートフリートの『勲章』



———、は、は……はだか……………っっっ?



桟橋近くに居たはずの自分が、どうしてディートフリートと共に此処ここにいて、『こんなこと』になっているのか。

記憶もなければ皆目かいもく見当もつかない。

恥ずかしさと緊張とで鼓動はどんどん早くなるけれど、身体は重く冷たく、手足は痺れたあとのようにひどく気怠いのだ。


耳を塞ぎたくなるような、屋根を叩く凄まじい音は相変わらず続いている。

リリアナはもう一度、周囲の状況に目を凝らした。


暗くて、狭くて、埃っぽい……。


動かした目線のすぐ先に、ディートフリートの上着と絹のシャツが無造作に脱ぎ捨てられているのが見えた。

床に置かれたランプのそばには——リリアナのコート、オフホワイトのワンピース、そして今朝確かに身に付けた肌着が散乱している。


「何……これ」


眠っている間に、まさか、組み……敷か、れ……っ?


いいえ、そんなはずはない。

気高く真面目なディートフリートが、リリアナを犯すようなことをするなんて思えない、思いたくもない。


でも———服を、脱がされた。


『どうして?』が込み上げてくる。

それに……ディートフリートに、身体のみにくい『あざ』を見られてしまったかも知れない。


背中のあざというあざが疼きだす。

反射的に腕を動かそうとすれば、包帯の手がぴくりと動いて、リリアナの手のひらを捕まえようとする。


(ぇ……! 起きているのですか……?)


赤く血の滲んだ包帯は痛々しく、リリアナの胸を心配という棘で刺す。

彼の両手にいったい何があったというのか。


胸の奥を騒がせるさざ波は、次々と押し寄せる。


互いの肌と肌を合わせて、ディートフリートのたくましい腕に包まれている自分は今——。

素肌をさらしてしまった途方もない恥ずかしさと、緊張をはらんだ戸惑いに押しつぶされそう!


「ディートフリート、さま……?」


呼びかけても返事はない。

私の声、屋根の音に消されて聞こえないのかしら……。


頭の上にあるものは、ディートフリートの顔に違いないのに。

その顔は見えず声も静寂で、彼の腕と身体だけが存在するような心細い錯覚に捕らわれてしまう。


(あなたの声が……聴きたいです)


声が聴きたい、顔が見たい。

ディートフリートの存在を、ちゃんと確かめたい。

その一心で、重い身体を無理からに動かし、精一杯の力を込めて半身を起こした。


すぐ下を見遣れば———。

硬くを閉じて、死んだように眠るディートフリートの面輪があった。


滑らかな頬のあちこちに、紙で切ったような擦り傷ができている。それらはわずかな出血と赤みを残し、傷ついてからそう時間が経たないことを示していた。


リリアナの身体を包んでいたディートフリートの腕が滑り、包帯の片手が人形のそれのようにドッ、と鈍い音を立てて床に落ちた。

「ぁっ!」

慌てて拾い上げ、痛々しくも愛おしいその手を持ち上げて、頬をすり寄せる。


(お顔も、この手も……っ、いったい何があったのですか……)


秀麗なその寝顔には血色が感じられない。

鳴り止まぬ轟音に、音という音が掻き消されて——呼吸をしているのかしらと不安になる。


包帯の手をそっと床に置き、ためらいながら両手を差しのべて、ディートフリートの顔の輪郭に触れる。

前かがみになれば、乾きを取り戻した茜色の髪がリリアナの細い肩からするすると堕ち、緩やかにウエーブがかった毛先が胸の下で揺れた。


(良かった……ちゃんと息……してる………っ)


力強い呼吸が、リリアナの頬に触れる。


形の良いディートフリートの輪郭を指先でなぞり、男性らしい喉元の突起に触れてみる。

その下に浮き出た鎖骨が、綺麗な弓形の弧をえがいていた。

背高いディートフリートの喉元なんて、いつもは見上げるばかりでこんなにしっかりと見たことはない。


そのまま指先を滑らせて、そっと……そっと、触れていく。

ゆっくりと上下する胸板の造形は、まるで彫刻のように美しい。


「……!」

リリアナは両手で口元を押さえ、喉の奥底から込み上げてくる嗚咽をこらえた。


肩の窪みから斜めに貫く、大きな傷跡きずあとに目を奪われる。

ディートフリートの腕にも幾筋もの傷跡があるけれど、それらよりもずっと深刻そうな……深く長い切創痕せっそうこん

細長い三日月型をしたそれは、塞がらなければ命にも関わるような重傷だったのだろう。


よく見れば、右の脇腹にも同じような傷があり、左側の脇腹には刃物で突かれたようなあともある———。



『私の妻になる者は、この身体におぞましい痕跡こんせきを見るだろう。』



長年戦場にいたという話を聞いた時に、ディートフリートがつぶやいた言葉が頭をよぎる。


「『おぞまし』くなんか……ないですっ」


幾つもの傷跡きずあとは、ディートフリートが燃えるような痛みに耐えたあかしだ。

死と隣り合わせの戦場で、何度も深手を追いながらも生き抜いた証だ。



———ディートフリート様の『勲章』です。



傷の痛みだけではない。

家族を失ったことを自分を所為せいだと責め続ける心の痛み……自分だけが生き続けていて良いのかという、命をめぐる葛藤。

彼はそれらの全てをこの傷の中に刻み込み、身体に痕跡として残して、今もずっと苦しみ続けているのだ。



非力な私が、こんなふうに思うのは烏滸がましいかも知れません。

でもっ……もしも叶うことならば。


粉々に砕けたあなたの心を、繋ぎ合わせてあげたいです。



胸板の傷跡に、そっとくちづけた。

そうするうちにたまらなくなって、そのままディートフリートの胸元に顔を埋める。


「ディートフリート様……。死なないでいてくださって、有難うございます。生きて帰って来てくださって、有難うございます……!」



ぽふ。


後頭部に、不意に感じた「重み」。


驚いて見上げれば、翼のまつ毛の下に薄く開いたエメラルドの瞳が、ランプの灯りにゆらめき、胸板の上のリリアナを見下ろしていた。







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