第59話 そこにある真実(1)




「手が冷たいな……寒くないか?」

「あったかいです。ディートフリート様こそっ。私に上着をくださったので……寒いでしょう?」


ゆっくりと歩きながら、公爵は繋いだ手を強く握り直した。

廊下は広く、足元からじわじわと冷気が上がってくる。口から放った言葉はすぐに湯気のような白い吐息に変わった。


「ディートフリート様の手はあたたかいのですね」

「緊張してるからかな」

「ふふっ。緊張されているのですか?」

「それは……まぁ、するよ」

「どうしてですか?」

「ン? どうして。そうだな……」

「ふたりで緊張して、ふたりで赤くなって。私たち、おもしろいですねっ」

「似た者同士だからね」

「…っ。似てませんよ?」


どこまで歩くのだろう。

公爵が向かう場所が遠いのか、私の『緊張』が時間を余分に長く感じさせているのかはわからない。それでも、こうやって二人で歩けるのなら、どれだけ遠くてもかまわない、むしろ遠ければよいのに。

自分がこんな不思議な感情を抱くようになっていることに驚いてしまう。


ねやに入る前に寒い思いをさせてしまうな。私の我儘に付き合わせているから」

「いいえ、わがままだなんて。何を見せてくださるのか、とっても楽しみです。それに……ちっとも寒くないですよ?」

「君の」

「……?」

「指先が冷えると、良くないと思うから」


————ん?


私は首を傾げてしまう。茶化すような、わずかな狼狽を含む公爵の声。


「ああっ、でも部屋は暖めてあるんだ。まだ職人臭いかもしれないが」

「職人くさい……」

「ついさっきまで居たから、むさ苦しい職人達が」


———んんん??


何のことだか、ますますわかりませんっ。


「晩餐のあとすぐに作業を終える予定だったんだ。思っていたよりも時間がかかってしまってね」


ここだよ、と、両開きの豪奢な扉を前に公爵が立ち止まる。


「君を、このモリスの城に連れて来た理由は——なんだ」


公爵の手で片方の扉が押し開かれれば、部屋の中の熱気があふれ出し、暗い廊下の足元に一気に明るさが広がった。扉の向こうの光の眩しさに、思わず目を細めてしまう。


目が慣れてくれば、広々とした白っぽい部屋の真ん中に一台のグランドピアノが置かれているのが見えた。

ケグルルット家にあるような艶出しのシンプルなものではなく、無垢の木肌の蓋や側面に施された繊細な彫刻や、惜しげなく貼られた銀箔からも、『それ』が特別なものだとわかる。


「現時点で、アルカディオ王都の自邸にあるものは『鶺鴒セキレイの間』の一台だけなんだ。を君に贈ることは出来ないが———」


公爵はピアノのそばまで歩くと、


「リリアナ、おいで」


入り口で固まって動けない私に手招きをする。私はおそるおそる……床に張り付いた足を持ち上げた。


「半世紀ほど前にサムエド・ハンドレッドという職人が手掛けた名器だ。私の母が祖母から譲り受け、時々モリスを訪れてはこれを弾いた。母の死後は長く手入れをしていなかったものだから、調律と調整に随分と時間がかかってしまってね」


「………っ」


あまりにも衝撃的なものを前にすれば、息をすうことさえも忘れてしまいそうになる。サムエド・ハンドレッドといえば音楽の教本にもその名が登場する王宮専属の楽器職人で、彼が造る『音』は天上の神の住まいにとどろくとまで言われている。


「弾いてみる?」


公爵はピアノの前に鎮座する椅子を手前に引いた。


「こっ……こんな、素晴らしいもの……私のような若輩の奏者が触れることなんて、許されませんっ」

「許すも許さないも。君のものだよ」


「……ぇ……?」


「この先、君と共に歩む人生で。私は多くのものを君に贈るだろう。これは私が君に、最初に贈るギフトだ」


ほら、すわって。

心をくすぐるあまい言葉とともに、公爵は私の両肩に手を添え、着座を誘導する。

長椅子にお尻が着いたとき、ぞわりと背中が震えた。


「寒い場所を歩かせて、君の指先を冷やしてしまった。鍵盤を押すだけでもいいから、音を出してみないか?」


あまりに想定外の展開に卒倒しそうになる——焦がれ続けた鍵盤が目の前にある。それも希代の名器と呼ばれる代物だ。このすばらしいものが———公爵からの、贈り物……?

様々な感情が頭の中をぐるぐる回っている。


「こ……この、ためにっ、わざわざモリスまでいらしたのですか?!」


「エレノアがピアノ奏者だというのは知っていたが、君もそうだったとはね。君は鶺鴒セキレイの間で、私に『ただ、ピアノが弾きたい』と言った。ピアノが弾きたい——ピアノ奏者にとって、長く鍵盤に触れられないことがどんなに致命的な技術喪失になるか、ピアノを弾かない私でもわかる。君にとって、これは性急に解決すべき問題だと思ったんだ。とはいえモリスまでは三時間と距離があるから、の繋ぎには、ならないかも知れないけどね」


——慌てて馬車を走らせたよ!職人と話したら、君の相応ふさわしい名器をつくるとなれば、数ヶ月はかかると言うから。


公爵は朗らかに笑う。


「ピアノを造らせるために……昨日、街へ出掛けたのですか……」


私が白椿城を追い出されると思い込み、余計な思案をしている間に公爵は職人のもとに出向き、新しいピアノを調達してくれていた。あの風貌のまま街に出れば、『ウルフ公爵』だと嫌悪の眼差しを受けることも、わかっていて。


「私は……いったい、どんなふうにお礼を返せばいいのか。それにこんなにたくさんの幸せをいっぺんにいただいたりしたら……いつか、神様の罰があたりそうですっ」


——今この瞬間も、じゅうぶん幸せなのに。

これ以上を望んだら……!


「では、君の言う『神様』とやらを納得させられるような演奏を、今度私に聴かせてくれないか?」


(そんな大きなプレッシャー、与えないでください……)


「もう随分長く弾いていないのです。指の力も弱くなりましたし、神様に納得いただけるような演奏なんてっ」

「ケグルルット伯爵家では弾いていたんだろう?」

「私は——ピアノに触ることを禁じられていましたから。二年ほどのブランクがあるのです」


エヴリーヌ先生から教わった『秘密の曲』の一件があってから、ピアノを弾かせてもらえなくなった。だからずっと……部屋の小さな窓際で、擦りガラスの窓枠に指を踊らせて、音の記憶を奏でていただけ。



「でも、ディートフリート様がケグルルット家にいらした、あの日———…」



思い出した。

公爵がケグルルットの屋敷に、お父様を訪ねて来た日。


私は二年ぶりのピアノを弾いていた。

お父様の来客を良いことに、ピアノの稽古をさぼって家を抜け出したエレノアの代わりにと、友人のメイドがコッソリ声をかけてくれたのだ。


「私がケグルルット伯爵家を訪ねた事を、君は知っていたのか」


公爵の瞳に一瞬のかげりがよぎる。



(続ー2)

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