第36話 涙の理由(1)




「…——申し訳ありませんでした!」


開口一番に深々と頭を下げた私に、侯爵はどんな目を向けたのだろう?

執務室に案内され、扉が開いてからも、私は顔を上げることができなかった。


「禁じられていた事を、して——…」


きっと、いいえ絶対にっ。失望、されましたよね……?


あれほど強く命じられたことを破り、禁断の部屋に入ってしまった。

それにピアノまで、勝手に弾いてしまったんだもの。


お城に来てから一度も鍵盤を叩く音を聴いていないのに、禁断の部屋に置かれたピアノにはちりひとつなく、ピカピカに磨かれていた——それは毎日大切に、誰かが手入れをしているからだ。


きちんとお手入れしているのに、どうして誰も弾かないのだろうか。禁断の部屋に置かれているのだし、公爵が弾くのかしら?


「——執務室ここには迷わずに来られたか?」


突然に言葉が掛けられて、はっと顔を上げる。

窓際の書卓に着座している公爵は、変わらずのお髭と前髪で表情が見えない。


でも、声は優しい……。


「はい、ユリスが案内してくれたので」

「そうか」——…と一言あって、私がまだ動けずにいると、


「そんなところに立っていないで、此方ここにおいで」


穏やかな声色に少しだけ安堵して、おずおずと書卓に向かえば、立ち上がった公爵に書卓脇のソファに座るよう促された。


「今、お茶を用意させているところだ。紅茶で良かったか?ちょうど街で、リリアナが気に入りそうな菓子を見つけたんだ」


私は肩をすぼめたまま、柔らかな座面に腰を下ろす。


「ぁ……あの。お仕事の邪魔になってはいけませんので……私はすぐに、失礼いたします」


いいえ、違うの。

心と言葉は、反対。


失敗をきちんと謝りたい——もちろんそれが公爵を訪ねたいちばんの理由。だけど、思いがけない優しい言葉を聞けば、なんだか切なくなってしまう。


——ここにいたい、そして優しいこの声を聴いていたい。


琥珀コハク糖という名の砂糖菓子を知っているか?東洋の商人が店を出していたから、買ってみたのだが」


私が言いつけを破った事などまるで忘れたように、声を弾ませた公爵はソファを離れ、部屋の奥へと向かうのだった。

戻った公爵の手元には、銀箔が貼られた綺麗な紙箱が抱えられていて。

私の視線の先にある、テーブルの上に置かれたそれは、コトンと乾いた音を立てた。


「開けてごらん」


ピアノの前に立ち尽くす公爵の、ひどく項垂うなだれた様子を思えば、相当に失望させたに違いないのに。


なのにどうして、そんなに優しいのですか——?


「ぁ……の……、私っ」


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