第89話 *エレノア視点*(2)



「仕立て屋にいた彼を誰も知らなかったのは、彼が貴族ではなく軍人だったからなのね?」

ヴィヴィアーヌの言葉が胸にすとんと落ちる。


主賓の全員が席に着けば、楽隊が奏でるけたたましい効果音に合わせて王太子殿下と第三王子殿下がおごそかに登場した。

王太子殿下は御歳二十七歳、第三王子殿下は二十二歳。腹違いの二人だが、聡明さを兼ね備えた秀麗な面立ちは、双方ともに貴族女性たちの憧れの的だ。


「ラインハルト・マクシミリオン王太子殿下」

「ニコラウス・ライナス第三王子殿下」


お二人が着座されたあと、残されたあの最後の椅子に座るのは、この私——。

令嬢たちの羨望を集めるその場面を想像すれば、口もとにじわりと笑みが浮かんだ。


「叙勲が始まるわ。とうとうの素性がわかるわね!」


二人の王子たちにも引けを取らぬ威厳、鋭い眼光……。むしろ王子たちよりも注目を浴びているのは仕立て屋にいたあのひとだ。


ヴィヴィアーヌが興奮するのにも理解ができる。

私だって、もしもニコラウス殿下の存在がなければ、ヴィヴィアーヌと同じようにあの美しいひとに心を奪いとられていただろう。


じっと見ていると、彼の眼光がこちらに向いたような気がした。驚いて目を逸らせる。いいえ、きっと気のせいよ。


視線を戻せば、ほらやっぱり……! あのひとが私を見つめている。

どうして……? 顔が熱くなる。そんなふうに、見ないで。


「お近づきになりたいけれど、彼には奥様がいらっしゃるのよねぇ」


ヴィヴィアーヌは深々とため息をつく。

顔面偏差値で言えば、悔しいけれどニコラウス様よりも軍服を着たあの男性の方が上。だけど王子と軍曹とでは、その身分の差は比べるべくもない……。

そう自分に言い聞かせることで、私の心は冷静さを保とうとしていた。


———熱のこもったあの視線は何だったのかしら。

彼の瞳の一瞬の煌めきが私を変えてしまう。もしも、もう一度彼と目が合えば……。


「ねえ」と、ヴィヴィアーヌがささやきかけてくる。


「おかしいと思わない? あの軍服の男性、仕立て屋には相当な金額を支払ったはずよ。たかが軍人にそれほどの財力があるとは思えないのだけど」

「ぇ……? さぁ、どうかしら。ご実家が資産家なのでは? それとも何らかの手段で財を成した、ただのかも知れなくってよ」


とてもいやな言い方だけれど、そんなふうに彼を悪者わるものにでもしなければ、言うことをきかないこの胸の高鳴りが抑えきれないのだった。


こうしている間にも、盛大な拍手とともに老齢のお爺さまたちの叙勲が着々と進んでいる。

その名を読み上げられた者は王太子殿下の前に進み出て、それぞれの功績を示す勲章を拝受するのだ。


そして……。

最後に呼ばれたあの男性の名を聞いて、この場にいる者たちは驚愕することになる。


「ラインハルト・マクシミリオン王太子殿下より、六年に及ぶ出征に於いて貴殿が成した数多くの功労を讃えるものである。叙勲、勲位大綬章。ディートフリート・ランカスター公爵閣下」


男性は立ち上がり、流麗に敬礼をした。



——ランカスター公爵だと?!



周囲がにわかに騒めきはじめる。


その名を聞いた男も女も、若い貴族も年配の貴族たちも。おのおのが知り得る限りのことを口々につぶやいた。


公爵家嫡男の立場を持ちながら若くして戦場に送られた、稀代の公爵令息。

その父であった先代の公爵は何者かの手によって毒殺されたと聞き及ぶ。彼の母親と妹もその失意のなかで自害をしたと。


かつては戦地のケモノと呼ばれた彼は、とうに戦場で死んだはずではなかったか。

いいや、そうではない。公の場には姿を現さないが、生きて王都に戻っている。

彼はあのいやしき『ウルフ公爵』ではないのか。

嘘だろう?!

ちょっと待て。

そうだ、彼はその風貌から『狼公爵』と呼ばれる、あのディートフリート・ランカスターだ。


「いったい……、どういうこと……っ」

あの美しい男が、ランカスター公爵だなんて。


軍服に身を包んだあの男は、職業軍人などではなかった。

公爵位を持つ彼は、いわば王族、王位継承権を持つ者の一人なのだ。


どうにか保っていた私の平静が、音を立てて崩れ落ちる。



あのとき、私を花嫁にと望んだのは、だというの——…?!



「さて、ここでしばしのご歓談を。ラインハルト王太子殿下、ニコラウス王子殿下は、一時、ご退席なさいます」


楽隊が再び、緩やかな曲を奏ではじめる。

その後、緊張を解かれた老齢の叙勲者たちが着座したまま「ふう…」と脱力するなか、ランカスター公爵がすっと立ち上がり、真紅のカーペットが敷かれた大階段をひとり、さっそうと駆け降りてきた。


そのさまがあまりにも清々しく、階下に立つ者たち皆の視線を釘付けにする。


軽やかに歩むあの男性がこちらに向かってくる———。

「まさか公爵様だったなんて」

隣に目をやれば、ヴィヴィアーヌが胸の前で手を組み、恍惚とした表情でその様子を眺めていた。


「ランカスター公爵家といえば国王陛下の直系でしょう? 素敵だわ……!」


星の輝きのような形の勲章を軍服の胸にきらめかせたランカスター公爵が、近くまで寄ったかと思えば。

私の事など一瞥いちべつもせずにすぐそばを通り過ぎ、フロアの奥へと遠ざかってしまう。

あの若さにもかかわらず叙勲を賜った美丈夫のことだ。彼を振り返り、彼が向かう先に何があるのかと皆が目を凝らした。


ランカスター公爵は——。

煌びやかな正装に身を包んだ多くの者たちのあいだを揚々とすり抜けていく。


その背中がもうほとんど壁際まで近づいたとき、彼はようやく立ち止まる。

人々の合間から見える軍服の広い背中が、壁際に立つ誰かにすっと手を差し伸べた。


彼の手に遠慮がちにすがるように、華奢な白い指先が添えられるのが見える。


「あんな隅っこにいらしたなんて。とてもお美しいのに、公爵の奥様は随分と控えめなかたなのね?」


ヴィヴィアーヌの言葉が耳のなかでぼんやりと響く。


身体中の血が沸き立つように熱い。

荒ぶる呼吸、息をすうのも苦しい。


私は……震える唇を動かして、吐息まじりの小声でつぶやいた。


『リリアナお姉さま』





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