第88話 *エレノア視点*(1)




「お父様に感謝をしなくちゃね?」


ピアノの上に置かれた母の遺影につぶやいてみる。

堕ちかけた夕陽が、艶やかな鍵盤を茜色に染めていた。


「お母様……。私、王子殿下のお妃になるのよ」


思えば私が幼い頃から、国王陛下とお父様は繋がっていたのだと思う。

お父様は時折、人には言えないような汚いことを陛下から請け負っている——その事実に気付いたのはもう何年も前のこと。家族のあだだと叫ぶ没落貴族が、この屋敷に凄まじい剣幕で乗り込んできた時だった。


陛下からの密使はその後も父のもとに訪れ続けた。

極秘と称された任務を遂行するたび、お父様は陛下から土地や金品を賜り、莫大な財を為し得たのだ。


父が私腹を肥やすにつれ、貶められた人々の父への遺恨もかさんでいったと思う。

そんな父への負い目か。私を第三王子殿下の妃候補にと推薦したのは他ならぬ国王陛下だった。

その頃すでに婚約者がおられた王子殿下も、私を推す陛下の御意には逆らえなかったのだろう。それでも何度かお会いするうちに、王子殿下は私の美貌の虜になった。


忌々いまいましい」


茜色に染まった艶やかなの木肌をめ付ける。

ピアノだけはお姉様に敵わなかった(もっとも、飽き性の私はろくに練習もしなかったのだから当然だけれど)。


「ねぇお母様……王子殿下の妃になったら。私のこと、褒めてくれる? お母様の娘が、王子の妃になるのよ……」


絵姿のお母様は、いつでも優しく微笑んでいる。


だってまだ幼い子どもだったのよ?

お母様に褒められたかった。お姉さまよりも、もっとたくさん褒められたかったのだ。


優しかったあのエヴリーヌ先生でさえも、私とお姉様との扱いに差を付けた。


お姉様には教えた曲や演奏のテクニックを——『エレノアにはまだ早い』と理由づけて教えてくれなかった。


お姉様だって同じだ。エヴリーヌ先生と勝手に『ふたりだけの秘密』を作って、私が幾ら頼んでも堅く口を閉ざしたままだった。

それで腹が立って、お父様に泣きついてやったのだ。


お姉様はその日から、鍵盤に触れることを禁じられた。


「あの時はいい気味だったわ」


届いたばかりの、緋色ひいろの美しいドレスに袖を通す。するりと肩を滑る上質なシルクの感触が心地よい。


『狼公爵』は、この私を花嫁にしたいと言った。

そんなつまらぬ要求など叶うはずがない。私の美貌を知り、美しい私を妻にと望んだのだろうが、私は王子様の妃殿下候補者だ。


鏡を見たことがあるのだろうか。

私に求婚する前に、あの『狼公爵』には自分の容姿をわきまえろとでも言いたいところだ。


それでも己の命をもいとわぬ戦場の銀狼、恐ろしい男だと聞く『狼公爵』が、肌艶はだつやのかけらもないあのお姉様をあてがわれて大人しく受け入れるはずがない。

だからと言ってケグルルット伯爵であるお父様と親密な国王陛下の手前、お姉様との縁組みを無碍むげにはできぬはずだ。


私を妻にと望んだ彼の願いは叶わなかった。


「狼公爵の遣り場のない怒りは、リリアナお姉様に向けられるでしょうね?」


そう思えば、心の奥底からむらむらと湧き上がる興奮に包まれる。

私が王子殿下の隣に座るころ、お姉様は——。


白椿の咲き誇るあの古城に幽閉されて、せいぜい使用人の扱いでも受けている事だろう。







王宮の大広間は老若男女、招かれた人々で混雑していた。


貴族間の噂話はすでに広まっている、私は第三王子妃候補者だ。すれ違う者たちが次々と会釈をしてくる。その中には国王陛下の従兄妹君である公爵家のご婦人もいて、ああ……なんという優越感!


ほとんどの招待客たちが集まる一階のダンスフロアと、一階から繋がる大階段の上に特別な来賓たちが着座する踊り場がある。一階の喧騒とは逆に二階の踊り場は閑散としていて、人の姿はまだ見られなかった。


主催の王太子殿下が座る椅子が、踊り場の中央に堂々と据え置かれている。その両側に豪奢な椅子が二脚——片方は第三王子殿下、そして名前を呼ばれたあとに私が座るのは——もう片方の、あの椅子だ。


ダンスフロアに面したテラスに構える、宮廷楽団の演奏は既に始まっている。来客たちの騒めきにまみれて、ヴァイオリンの旋律が心地よく耳に届いた。


「エレノア」


聞き馴染んだ声に振り向けば、淡い空色のドレスをまとい、満面の笑顔を浮かべた友人のヴィヴィアーヌ・ミンスターが立っている。


「いよいよこの日が来たわね?」

「ヴィヴィアーヌっ、ごきげんよう。会えて嬉しいわ」

「ねぇ、見て。あそこにいらっしゃるのは宰相様のご令嬢よね? あの方もニコラウス殿下のお妃候補なのでしょう?」

「ええ。でも他が誰であれ、殿下はこの私を選ぶとおっしゃってくださったのだもの。気にならないわ」


——だって私には、かの国王陛下という比類なき後ろ盾がついているのよ。


ふふん、と鼻を鳴らすヴィヴィアーヌは二階の踊り場を眺めている。


「エレノアはあの場所に呼ばれるのね……! 同じ伯爵家の友人として、鼻が高いわ」


ヴィヴィアーヌからの称賛の言葉はまんざらではない。だけど、彼女の言葉尻には少しだけ邪気をはらむようにも思える。


この国の王族に嫁ぐのは通例、隣国の姫君か、侯爵位以上の階級を持つ家柄の者だ。

伯爵家出身の私が王子妃の椅子に座る権利を得られたのには、紛れもなくお父様、ケグルルット伯爵の——国王陛下に仕えたこれまでのによるものだと言ってもいい。

同じ伯爵家の令嬢であるヴィヴィアーヌが私に嫉妬するのも無理はない。


「あら……? 二階の主賓席、今夜はやけに椅子の数が多いのね?」


ヴィヴィアーヌが首を傾げるのを、


「第三王子妃発表の前に、叙勲式典があるらしいの」


私は得意げに解説をする。先日、王子殿下にお会いしたときに聞いたのだ。


「叙勲って、大綬章とか……宝冠章とかの授与?」

「ええ、そうなの」

「それじゃあ二階席はおおむね占有になるわね」


勲章を賜るのは特別な功績や国に多大な利益を与えた功労者たちであり、そのほとんどが還暦を越した老人だ。


「それにね、これは極秘事項なのだけれど。舞踏会の最後に、どうやら王太子殿下から重大な発表があるらしいの」

「エレノアはその内容を知っているの?」

「いいえ。だから極秘事項なのよっ」


私の言葉が終わらぬうちに、ジャン! 楽団が大きな音を奏でた。


「ほら、始まるわよ……」


大勢の貴族たちに囲まれるようにして、まだ成人を迎えていない貴族令嬢・令息による余興の演舞が軽やかにフロアの中央を舞う。初々しい彼らのお約束の一曲が終わる頃、二階席の左右にある扉が大きく開かれた。


一階フロアに集う者たちが固唾をのんで二階の踊り場を見守るなか、王太子殿下が姿を現す前に、勲章を受ける栄誉を賜った者たちが次々と入場し着座していく。

立派な隊服に身を包む者、行商人と思しきいでたちの者、王族に近い正装に身を包む者……彼らはそれぞれが威光を放ち、かがやいて見えた。


「ちょっとエレノア……見て! あの人……っ」


総勢十名の白髪の老人たちのなか、だたひとりだけ明らかに異なる色を持つ者がいた。

おそらく王都のの、あの場に居合わせた女性たち全員が目を剥いただろう。


我が国、アルカディオ国王陛下が抱える第一師団の軍服に身を包み、踊り場を堂々と歩くのは三十路にも届かぬ若き軍曹だ。


宵闇色の髪を後ろに撫でつけ、額におちた前髪を揺らすには———この私にも、確かに見覚えがある。





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